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修士1年秋学期の備忘

「びぼう」と入力してスペースキーを押したら、「美貌」と変換された。
うっかりエンターを押してしまって、そんな挑戦的なタイトルがありますか、と半笑いで慌てて消す。
おもしろも哀しさも、行き当たりばったりの偶然に任せすぎている最近。
いつか消えてしまいそうなものばかりを纏わせて、何が本物になっていくのか、あまりにも計画性がない。

確固たるもののないゆらゆらする足元で眺めるから桜はいつも儚く感じる。
春が桜の花に命の動きの生き生きした様を乗せて来る瞬間は毎年繰り返されてきたけれど、私に限ってもう二度とこんなに命が芽吹く季節は来ないのではないかと焦るほどに、私は私が頼りない。

最近疲れ果てて景気づけに花を買ったので、やたら春めいたことを言っているけれど、振り返るのは秋学期。夏の名残もある2022年の10月から、冬を経て、まだ肌寒い2023年の3月あたりを思い出しながら記録する。

***

10月。「やばい。仕事にかまけて学校のことがおろそかになったまま、特段なにもせずまた秋学期の研究面談の時期がやってきてしまったよ。」と途方に暮れる。その時読んでいた本の感想をちょっと話したりしてみるけれど、やや研究の本題からは逸れたテーマのものだったので、先生に「研究の方向性を考え直してもいいですよ」などと言われて焦る。確かに実践的な取り組みは面白いと思っているけれど、もっと本質的なことを考え直したいのだから、方向性を変えてしまっては元も子もない。がんばります、と小さくなりながら言って、堆く積み上げられた本の柱の隙間から先生をチラ見。よくない。
先生は研究面談の度に、私の仕事のことを気にかけてくれる。入学した時に、生活の惨状を告白してしまったがために、「寝ていますか」とことあるごとに聞かれる。誠実な人と接していると、自分も嘘のない人間にならなくては、と思わされる。
4月の初授業は惨憺たる状況だったけれど、半年かけて雰囲気を思い出したので秋学期の滑り出しはまずまずだった。

11月。外に出かけて知る機会が増える。楽しい気持ちになるばかりではないけれど、人の心に思いを至らすことが本当に難しいことだと身をもって知る。同時に、人と話して一緒に考えよう、という私のやろうとしていることは、当たり前だけど同時に誰かのかけがえのない人生の一部として経験されているわけで、それがとてつもなく怖くなる。
うまく話を進めないと申し訳ない、と思ってから回る。うまく考えられた試しなどないし、「うまく考える」があるとしたら、それは嘘なく一生懸命一緒に考えることだと思うけれど、それだけに終始していると授業は思うような形にならず、結局申し訳ない、という気持ちに苛まれる。そしてまた、申し訳ないと思った出来事も、相手には消せない経験の一つで…というループ。教師を職業にしているひとたちほんとすごい。

12月。人と接するのはヒリヒリするけど、生きている感じは、めちゃする。
会社員と哲学的な対話をする、というのを初めてやってみて、働くというのは自分の意見と自分自身との距離が離れる経験をすることなのかな、と考えたりする。私もいつの間にか、会社組織の一人としての人格で話をしたり考えたりすることに慣れてきている。組織の人として話す時、私は私であって完全には私じゃない感じ。私の言葉ではあるけれど、それを使って吟味している内容は私以外のものや人も内包したもっと広い世界のこと、みたいな。
これは哲学の話をするときにちょっと似ているかも?と思ったけど、問い自体が他人事ではいけないので、表現が難しい。

世間の浮かれ調子で、日々のうまくいかないことからやや距離をおいてもいいや、という気持ちになる。
親が真夏に買っていた薪ストーブがようやく活躍する季節になり、それで年越しそばを作って食べる。煙突のついたものをのびのびと使えるところは田舎のいいところだ。

1月。おみくじで大吉を引いて狂喜乱舞。絶対いいことしかないし、願いは叶うし、待ち人は来る!!とすんなり受け止められるので、私は疑いなく愉快で楽観的である。陽キャになりきれないのは、おみくじの「必死に追い求めれば(叶う)」というところに赤線引いているあたりの用心深さだと思う。

「自由はよいことか、よいとすればそれはなぜか」「よい嘘はあるか」という問いに中学生や会社員と一緒に唸る。わたしもみんなも、自由や嘘に、知らず知らずのうちに日々自分自身を問われている。改めて一緒に同じ船に乗ってその問いに向き合うとき、隣の乗客の何気ない一言とかがきっかけに蓋の隙間から「私ってなんだっけ」「誰かにとってこの選択はなんなんだ」「この振る舞いは何を意味していることになっているんだ」などなど疑問が噴出してきたりする。
哲学的な対話の場は、主義の披露の場でも、社会通念の確認の場でもなく、私とあなたとの間にある世界についてのことを、一緒に考えるところ。時折弱気にもなるけれど、一緒に今を生きている!という気持ちに集中して奮い立たせたりしている。でも、弱気なまま話せる度胸が欲しい時もある。

2月。1月末からの怒涛のレポート提出で失った睡眠時間を補うように寝てたら半分くらい終わる。
「一緒に考えよう」とか言ってても、考えるテーブルにつくことのない相手とはどうしたらいいのか永遠にわからず、仕事で詰む。迫り来る期限を前に詰んでる場合ではないので、とりあえず前進あるのみ、としてしまうところに理想と現実の乖離を自覚しつつも、できる最善を選び取っていると言い聞かせて働く。

ゼミの合宿に行くと、18歳とかの1年生も立派に発表していて刺激をもらう。大学院に入り直して、年齢とらわれる度合いがやや薄くなった。
一生懸命に考えるとき、誰の言葉もちゃんと聞きたいし、だからみんな尊重されるべき、という気持ちになるので悩んでいるけど清々しい。

3月。春の陽気で浮かれて、あんまり進んでない研究のことは忘れ、先生とラーメンの話ばかりしてしまう。糖質制限ダイエットとラーメン巡りを両立できるのは、理性の人すぎて普通に感動のレベル。

優しさの相対主義や個人主義をどう捉えたらいいのか、糸の端ほども掴めなくて悩む。
相手を侵害しないでいたい、自分が自分らしくあろうとするのと同じように相手もその人らしくいられるために干渉しない、という一見優しそうな「それぞれ」による分裂。一緒の世界に生きているから!だからお互いが共有する部分のことを考えようよ!と思っても、ひょっとして世界の側が共有するところがない姿に変わってしまうこともあり得る??と前提は常に考え直した方がいいと思わされる。
ほんとうに、ほんとうに分かり合える数人とだけの世界でいいんでしょうか、ほんとうにその人とは永遠に分かり合えるんでしょうか、分かり合えるって、なんでしょうか!とかいうには授業時間は短すぎて、「対話の続きを話したり、あれはどういうことだったのかな、と思い出したりして、これからも考えてください」的なことを言ってチャイムが鳴る。無茶振りされた締めの挨拶に一点の嘘もないけど、スラスラ喋れてしまう事柄に対する不信感みたいのが後に残る。大人としては、急拵えでも話したいことが話せるのはいいことなので褒めたい。

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たくさんの出来事が、こうして流れてきては交わり、過ぎていく。かつてよりも少しだけその流れを客観視していて、流れてくるものの感触がリアルである分、掴み損ねたのか、手元で磨き続けられるものなのか、判断が時にシビアになりすぎる。
いつの間にか「何者かになりたい」みたいな感情は薄らいできているけれど、私の人生の本物になっていくのはこのたくさんの彩のなかのどれなの?という焦りには日々苛まれて、まだ何も本物にはできていないという無力感と、でもがんばってるという束の間の満足感、どちらに天秤が傾くかでその日の気分は揺れ動いている。

「秋学期も春休みもなんか、あーあ!」と思う日が続いて、それでも春学期が始まる前に…と書きはじめたけれど、春学期の備忘の終わりを読み返すと「いつもその瞬間瞬間に触れて、感じて生活していきたい。」と書いてあった。
…だとすれば、過ぎた時間の連なりに「本物になりうる原石はどれ?」と不安を覚えた今学期のわたしも及第点だったのでは?
……楽観的な面が全面に出てきはじめている。きっとこの調子で、なんとなくうまいこといきそうだ、という危うい自信のもと2年目の春をスタートさせることになるのだろう。

その言葉を繰り返しながらもずっと「本物ってなんだよ」「適当に使うと安っぽいぞ」と自分に茶々をいれてきた。でもどうやら、今の私が気にかけているのは「何を本物にしていけるか」のようだ。
だから、目の前に流れ来るあれやこれやを、嘘のない誠実な手で受け止めることを暫定的に「本物にする」ことのはじまりと置いて、まじめにひとつひとつ。
また春が来るので。

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