本と、たぶんその周辺のこと

実家では、本が好きといえば私と父なので、実家には父親の買った本がたくさんあるが、思えば好きな本の傾向は全く似なかった。
似たとすれば母だ。
母は、文字を見ると眠くなるから、と娯楽といえば映画派なのだが、楽しい人たちが語っているエッセイを持っているのは母だった。
小学生の夏休みに借りたさくらももこは今でもバイブルだし、子供の頃の私は、大人になるというのは、神津カンナになることだと思っていた。

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私はエッセイが好き。
友達に本を紹介したとき、そのほとんどがエッセイだったこともあった。
好きという気持ちは、漠然と持っていてもそれはそれでしあわせなのだけれど、どういうところが好きなのかと深掘りしてみるのも、また別の幸せがある。
大好きなもののことを考えて、それを包むように言葉を選ぶのは良い時間の過ごし方だから、早く帰れた平日の夜にはもってこいだ。やってみようとおもう。

まず、エッセイのよいところとして、どうでもいいようなことを、つぶさに語る営みがかわいいというのがある。
どうでもいいような、というのは、白米がえらく美味しいという話や、近所のおじさんの癖が可笑しいという話、兄弟や家族との思い出すと馬鹿らしい喧嘩など、忙しない毎日の中でやっと捻出した30分のお茶会などではなんとなく遠慮してしまいそうな話題。でも、一番友達に話したいような話題のことだ。
それを、言葉を探しながらちいさくていねいに再構築していく行為には、いじらしい可愛さがあると思っている。

そして次なる魅力は、選ばれ紡がれる言葉に、語り手の癖が現れるところだ。
普段小洒落た小説を書いていたり、巧みに笑いを取っていたりする人が、エッセイになると途端に人間らしくなる。
そして、いろいろ読んでいくうちに、会ったこともないのだけれど、この人はこういうところでカリカリしたりため息をついたり、ひとり笑いしたりしそうよね、というのが(こちらの勝手な印象だろうが)わかってきたりするとときめきは止まらない。
ちょっと緊張の糸が解けた時に見せるお茶目さや、ギャグの隙間に深遠な思考が垣間見えた時、見えてる世界をもっと教えて欲しくて、友達になりたい!という気持ちが溢れてしまう。

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本を読むと、物語の中に友達ができるよ、という小学校の読書週間の呼びかけには、そんなわけあるかいな、と冷めた態度を取っていたが、悔しいかなそのとおりである。
もう少しだけ、偽善っぽくない感じの呼びかけだったら、ひねた子どもだった私ももう少し早く気付いたかもしれないが、先生はコピーライターじゃないし、時間をかけても知れたのだからそれはそれでよかったこととする。

そう思うと、私の読書の仕方は、本との対話なのだなあ、と気づく。
本という権威から一方的に受け取るというよりも、友達のような対等な関係の築き方だ。一方向のメディアにも関わらず、不思議だ。

どうしてそうなる?何を考えている?どう楽しかった?
私に向けられる答えはないのだけれど、あちこちに散りばめられた作者の言葉から、汲み取ったり想像したり推理したり。
双方向的なメディアが台頭して、その魅力や目新しさに世の中が沸き立ってからもうしばらく経つけれど、一方向のメディアが古くて劣っているのかと言われれば、そんなこともないんじゃないの、とおもう。

問いかけたり、時にはいちゃもんつけたりできる余白が、本は楽しい。

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