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修士2年春学期の備忘

「何名様ですか?」「1人です」
という入店時の会話を凛とした心意気でやろうとすると、オードリー春日さながらの堂々たる振る舞いになっていることがある。おしゃれカフェの入り口でおずおずとひとりだと表明するのはやめたい、などと考えながら扉を開けるような私なので当然のように写真を撮られることが苦手だ。自意識がから回って変なことになる。

人に撮ってもらった写真で改めて自分の姿を客観的に見た。ポーズが想像していたよりも勇ましい。え、お城の前でプリンセスさながらのポーズしたつもりだったじゃん、とがっかりする。なんか強そうなのですけど?

能を観にいったら、婦人役と鬼役の肩と腕の位置が違うことに気づいて、「そういうことか」と思う。浄瑠璃の人形もそうらしい。私が無神経になっているさまざまな部分にも、それを深く考え、研ぎ澄まされた目線を向けている人はいるのだなあ、と改めて思う。

寒くなってきたので、遊び終わった猫じゃらしが道端に捨てられているのを見ただけで、簡単に切なくなる。
とうとう大学院生活も(順調に計画通り修了する未来があるとすれば)折り返しにきてしまった。はやい。そして、とうとう春学期の備忘を秋学期が始まってから書くようになっている。

始まって2週目ですでに瀕死みたいな生活になってしまっているので、ここは大人を発揮する時だ。乱れまくった生活を立て直そうと、とりあえずずっと気掛かりだった、順番がぐちゃぐちゃの2年分の水道代の紙を整理したので、心を落ち着けて 過ぎた半年で考えていたことを振り返ることにする。

***

時折書き溜めていたメモを見返したら、この半年で2個も湯呑みを買っている。
どれだけお茶の時間を過ごして緩むつもりなのか。
しかも購入の理由として2個とも“プリティーな柄”と日記にある。くだらないことに一貫性がありすぎる。一般的に一貫性といったら、もっと頼り甲斐のあるものを連想するが、湯呑みの好みでは何の信頼も得られそうにない。
生活が好きなので、いつか食器をたくさん並べて眺めたりできる家に住みたい。
なのに慌ただしく、いま食べている食事さえもまじまじと見つめることなく次の30分にだけ焦点が当てられたような暮らしをしている。

大学院生と会社員のハイブリッド生活にも慣れてきた。去年の春より、やりたいことを詰め込んでも、次々にやってくるキャラクターの違いすぎる出来事に割とすぐに順応するようになったような気がしている。だが、ただ来るものをこなしてはいないか、と不安になる時もある。
流れるようにこなす哲学、とかみたことがない。むしろ哲学対話の輪の中で、無意識に「考える人」のポーズをとっている時すらある。嘘みたいな話で恥ずかしい。
人当たりよさそうにしたい!とかいうことをすっかり忘れて、完全に姿形の振る舞いに無神経になりながら『え…それはどういうこと…でしょう……?』とか、なんであんなに唸っているのか、わたし。

湯呑みの数に見る緩みたさと、実態がかけ離れ過ぎている。

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哲学の問いは、自分が自分の真ん中から突き動かされるように何かから問いかけられてはじまり…というと大袈裟に聞こえるが、似た意味で「見過ごせないなあー」と思えるものであった方が楽しいし、内容も深まると思っている。
自分自身、関心がないことに時間と心を消費することが全くないとは言わないけれど、そういう時間を過ごしすぎると、これから自分が関心を持てそうな入り口が開いている未知のものに出会っているのか、全然関心がないものが突然突きつけられているのか、の違いに鈍感になってしまいそうな気もしている。

「自分は、どうでもいいと思ってる。」

と、哲学対話をしていると言われることがある。
その発言は全然だめじゃない。むしろ、既存のお約束に従って心にもないことをその場しのぎで言うよりもずっと、その人自身の言葉として重く響く。
重く響いて、私はその意味が知りたくてまた応答の言葉を探す。

自分から遠く離れている出来事だから、すでに終わったことと認識しているから、自分にはどうにもできないと思うから、干渉しない方が平和だと思うから、考えるのは複雑で疲れるから…思い浮かぶ限りの「どうでもいい」の裏側が万華鏡のように脳裏にぐるぐると現れては消える。そしてその向こうに、問いを深めるのにはひょっとすると最重要ではない場合もあるのかもしれないけれど、それでもどうしても、その人自身や生きる社会がぼんやり現れてきて、見過ごせない存在感を示してくる。

見過ごせない感を共有するのは難しい。もちろん、同じ問いをきっかけに「見過ごせない」と思ったって、それは私と同じ意味での「見過ごせない」である必要はない。そのうえで各々の視座から、まだ荒削りの問いを前に どんな見過ごせなさがあるか、それは「私の」から「私たちの」になる可能性があるのか・ないのか、が知りたくて、共に考えるために共有したいと気持ちが動く。

ひとりで考えてももちろんいい。でも、ひとりの問題ではないような気がしてしまう時があるから、「共に」とつい言ってしまう。予期せず人は私に道を聞いてくるし、ここからは見えないところで起こっている出来事が、私の暮らしに影を落としてくることもある。
同じように、ひとりで検討した問いも不意に別の角度から誰かに問い直される可能性があるんじゃない?と思ってしまう。たとえ一人で考えた結果、完全無欠みたいな結論が得られていたとしても、不意に問うてきた誰かがそれを理解するには、もう一度結論は紐解かれ、問いの形までふやかしたあとで、その人の場所から問い直されるかもしれない。ひょっとしたら、大きな時間の隔たりを乗り越えてまでも。

だから、私たちの問題になる可能性を秘めているという意味で、共に考えてみたいと思うのかもしれない。そしてそれだからきっと、なぜどうでもいいのか、その言葉の内容はなんなのか、相手には見過ごせる出来事の前で私が足を止めてしまうのはどうしてか、気になって 考えて 困惑して、私は唸っている。
結論よりも正解よりも、私たちは何に問われていて それがどうして見過ごせないと、応えたいと思ってしまうのか、それが私はとても知りたい。

***

仕事のキリが悪くて12時をとうに過ぎてから取る昼休み、混雑のピークを過ぎた店内で定食をつつきながらスマホの小さい画面で期末レポートに書くことの要点をまとめる。ちゃんと書くにはパソコンに向き合う必要があるにしても、どういう構成で何を根拠にして…と授業のメモを見返しながら検討をつけておかないと、絶対家に帰ったら寝てしまう。なぜだか、レポートも企画書も締め切りが重なる。

世界観・人間の存在・言語が持つ特性・生のダイナミズムの忘却…席に戻って会社のパソコンを立ち上げる時、企画書に直接的には登場しない言葉の数々。でも異世界の言葉ではないように、今は見える。
不思議に重なり合った世界で、たくさんの人を集客するための企画書も、存在をどう捉えるかで唸る問題も共存している。

確かに、うまく処理したり自在にあつかって捌いたりするのとは違うふうに、哲学はある。それより手前、という表現は違うと思うし、別の方法というのとも違うと思う。
でも、そういう意味や目的みたいな 少し先にあるもののためにではない、「こなす」という行為に当てはまらない哲学の営みと、目的や価値を目指して邁進する仕事は、一人の私のひとつの生活の中にある。
タスクを消すように過ぎたことにできない、ずっとまとわりつく今に見過ごせない問いがありすぎるのと同時に、まとわりつく今の中で私は生活のために掃除をし、生活する社会をせめてまともにするためにと、やるべき仕事をしたりする。不意にそこに入り込んでくる他者は予想外のことをし、それは不安や怒りにもなれば、結構嬉しく楽しいこともある。

不思議で、わからなくて、面倒で、気まぐれにたのしい。
そういう日々が過ぎている。
重なり合う世界に、奇妙に貫かれているおかしみがあるので、結構これは悪くない。


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