見出し画像

空想の海の水面

全身スパンコールが付いた服が着てみたい。太陽の下よりもスポットライトの光で圧倒的にきらめくようなやつ。私が着たら ややうろこの状態が良い市場の魚みたいにならないだろうか、と一瞬考えるけれど、スパンコールの衣装を着る人はそういうことで迷ったりしたままライトの光を浴びないのだ、と思い直し、着てもいないのに背筋を伸ばす。

反響版の裏の空間が好き。木の匂いとともに、そこにはまだ日常があるのだけれど、一枚板を介した向こう側は、作られたものしか置いてはいけないのだ、という感じがドキドキする。ハレとケというと大げさなのかもしれないが、非日常と日常、緊張と弛緩が目の前で交じり合おうとしている空間は高揚する。

そんなことを言いつつ最近は、弛緩しっぱなしで緊張と交差することもなく だらしのない生活をしているのだが、時々きちんとした家仕事をするときは、ここは舞台裏だから、という気持ちを作って演じている。ずっと私は空想だけが得意。

***

絶対に美味しいいちご飴の色に爪を塗った。洗面台のライトの下、この指とまれ!としたいほどに、きらきらつやつやしている。だが、昨日の夜入ってきた小さい虫もどこかで息絶えたようなので、どれだけ指をぴんとしていても何もとまらない。つまらない。左手の人差し指をのばしていたので、右手で何も訪れない空間を補ってみたが、目線を上げたらヨレっとして締まりのない忍者のような自分がおり、哀れでやめた。

哀れで、と一応言ってみるものの、一人で大いに笑っている。陽気で何より。腹立たしいこともあるにはあるが、思い返せばいつもたのしい。嫌なことは奥底に沈めてあるので、簡単には浮かび上がってこられないようになっている。深い深い海も水面はきれい。

“あわれ”という言葉の響きで思い出したが、この間スーパーに行った帰りに、「ああこれは清少納言も気まずいと書き留めただろうか」と思った出来事があった。(日常生活で「をかし」とはなかなか思わないので、引き金は異なるけれど関連ワードとして思い出しただけ古典の先生には褒めていただきたい)何か思うことはあったのだろうが、何を見て思ったのか考えてみても思い出せない。薄曇りの日で、親子連れが道の反対側を歩いていた時に、電信柱の広告のあたりを見ながら思った記憶があるが、周縁ばかりが鮮明になっていき、肝心な内容が出てこない。しょうがないものだ。

***

このように、記憶を辿る時、記憶しておくべき本質のところがおぼろげで、掴み損ねているような気持ちになることがある。ぼんやりした性格なので、思い出せないことで特にカリカリすることもないが、どこに行ってしまったのだろうなあ、と少し残念がる。

思い出したくないことは深く深く、沈めている。驚くような口の大きさの深海魚の餌になって、せいぜい発光のお役に立てばいいわ、と思っている。沈めたいエネルギーが溢れすぎて、あとで拾い上げて一緒に遊ぼうと思っていた事柄までも、間違えて沈んでしまったのだろうか。それとも、うっかりこぼれ落ちて、波間にたゆたいながら どこかへ行ってしまっただろうか。いつかもう一度出会いたいので、できれば沈まないでいてほしい。

***

うっかり捕まえ損ねた出来事で、水面はきらきらしている。悲しかったことなども、きっともう食べられて、深いところで明滅している。いつかスパンコールの服を纏うことがあったら、その一枚一枚は、空想の海のきらめきのひとつひとつだと慈しみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?