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夢のナマコ

25歳にもなって、自室でひとりスライムで遊んでいる。

仕事帰り、閉店間際に駆け込んだ100円ショップで買ったハートの混ざった水色のスライム。日々の孤独も仕事の愚痴も、このぐにょぐにょに溶け込んでいる。

黙々と伸ばして丸めてとしていると、細長いぼてっとした物体に形を変えた。まるでナマコのような。

細かいラメの入った水色で、ハートのホログラム柄のナマコ。あの独特なグロテスクさが消えて、不思議な形状の愛しやすい存在になっている。こんなナマコは夢の中でしかありえない。あぁそんなことばかり就寝間際に考えていたら本当に夢に出てくるかもしれないなぁ、と思う。そう、私たちは夢を見るから。・・・はたしてナマコは夢を見るのだろうか。

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結論から言うと、ナマコには脳も感覚器官もない、何なら筋肉もほんのわずかしかないし、とにかくあらゆるものがないらしいので、おそらく夢は見ないのだろう。けれど、その生態は人間の思い描く夢のような暮らしだというのだ。ナマコの生き方は、人間が安寧を求めて動き回ることでむしろ騒ぎを起こし、同じ人間同士を殺戮しあうような「平和」への皮肉のようにも語られているようだ。奥が深い。

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平和ボケと言われたら否定のしようがないし、無知な子どもが歳だけとってしまって情けない、と言われたらひっそりと俯くばかりなのであるが、そもそも「生きる」という最大の目的のためにうっかり死んでしまったりするのは何故なのだろう、と時々思う。

ただ生きるのではなく、善く生きねばならない。知っている、知っているけど、「善く」生きようとして殺しあって死ぬなんて、本末転倒のお手本すぎる。なぜ、みんなが「生きる」という大きな目的のためにあれこれ手を尽くしながら時間を見送っているという事実に気づいて、手を取り合うのがこんなに難しいのだろう。

ナマコは考えない。超省エネで生命維持でき、且つ最小限のパワーで身を守る構造になったことで、敵を作らずただそこにいるだけで時間を見送る生活をしている。ナマコに平和を語らせると、考えたり議論をしたりすることにエネルギーを割くことも不調和の一因になっているようにすら思えてしまうのだけれど、考えるのってやめられるのだろうか。複雑化するだけが進化ではないとしたとき、これからどんどん考えなくなって、ただそこに在ることで日々がすぎる中で命を繋いでいくことが私たちの最終形態なのだろうか。

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指先の夢のナマコがぬるくなってきた。そもそも、伸ばして丸めて、という単調な遊びに飽きてきたのでケースにしまうことを考える。

冷たい、気持ちいい、柔らかい、癒し。指先の皮膚という感覚器官から生まれる、そんな単純な気持ちの組み合わせで私は生きている。そしてそんな単純な気持ちの組み合わせが、時に怒りや憎しみになって取り返しのつかない喧嘩をしたりもしてしまう。

それだけど、遠い遠い未来、私たちがこの感覚器官や脳を全て無にする進化を遂げるか、というと私には想像が難しい。少しでも自分の思い通りに事を動かし、気持ちのいい思いをしたいと、時に私たちは争ってしまってきたけれど、それと同じかそれ以上に、目や耳を楽しませ舌で味わい、嗅覚でうっとりとする文化を築いてきた。願わくはそれらに起因する数多の欲望を争いに繋げず、知恵を出し合い「生きる」という大きな目的をたくさんの仲間と達成していく未来があってほしい。

ナマコは考えない。けれどそれは、生きているという事実の純粋な形だ。生き物にはそれぞれの形と生態があって、命を繋ぐためのいろいろな手段や方法がある。人間も象もカワウソもイルカもそれぞれに。そして私はその「いろいろな手段や方法」、なかでも、明日の仕事とか10年後の生活、そのための貯金やぼんやりしている間に放置してしまっていたメッセージへの気の利いた返信などなど、そういうことについつい頭を悩ませてしまって、うっかり生きる形の核の部分を置いていってしまうのだ。目の前の問題を今すぐ全て剥ぎ取るのはとても難しい。だから私は勝手にナマコの生に思いを馳せちゃう。スライムを丸めながら。

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