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バイプレイヤー オブ 猫を棄てる

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彷蜃庵の主、彷蜃斎です

 さて、今回は村上春樹さんの最新刊『猫を棄てる』についての感想を述べたいと思います。このエッセイが最初に発表されたのは、およそ一年前の雑誌「文藝春秋」だったと思います。販売日から1、2日遅れて地方在住の彷蜃斎が春樹さんの最新エッセイを一読して、しばし呆然としてしまいました。
 なぜなら、これまで断片的にしか明かされることになかった春樹さんのお父上村上千秋氏の情報開示が半端なかったからでした。「半端ない」どころではなく、そんなに何もかも曝け出して大丈夫なのかな、というのが正直な感想でした。

 それほどの莫大な情報量なのです、父親の千秋氏に関しては。しかし、それに比べてこのエッセイ発表時点で96歳で、痴呆の症状がでているとはいえ存命中のお母さんに関する情報開示は、不自然なまでに少ないのです。これも第一印象です。たしかに、従前知られていたようにお母さんもお父さんと同じく元国語の教師だったことに加え、勤務先が、樟蔭高等女学校だったらしいということ、さらには音楽教師の恋人がいたが戦争で亡くなり、その後経緯はわからないが村上千秋氏と結婚し、春樹さんが生まれことや大阪船場の商家の三姉妹だったというこれまでの情報に加え、長女だったこと、船場の店は戦火にあって消失したという新事実も語られています。が、お父さんについての新事実の開示量に比べるとお母親さんに関するものが圧倒的に少ないのです。別のところではお母さんのお名前も既出だったと記憶しますが、今回は最後まで無記名のままなのです。それはなぜなのだろうかという素朴な疑問を彷蜃斎は感じるのです。

 語られた情報量の偏差は、このエッセイ「猫を棄てる」が、サブタイトル「父親について語るとき」とされているように、お父さんの千秋氏に焦点があったからなのでしょう。その意味では例えて言えば、お父さんが主役で、お母さんは脇役だということなのでしょうか。
 時代が少しずつ変化しつつある兆しの一つだと思うのですが、昨今、バイプレイヤーが注目されるようになってきています。その流れに乗るわけではないのすが(単なるへそ曲がりなだけかもしれません)、このエッセイ「猫を棄てる」でも、あえて脇役に焦点を当ててみたいのです。父親に比べて、母親の記述量が格段に少ないことが気になったのも、主役よりも脇役に関心があるせいかもしれません。ただ、如何せん、お母さんに関する情報は少なすぎるのです。その点にもう一人の脇役、祖父村上弁識氏の情報は父千秋ほどではないにしても、それ相応に多いといえます。
 春樹はお祖父さんのことを次にように紹介しています。


僕の祖父にあたる村上弁識はもともとは愛知県の農家の息子だったのだが、長男以外の男の子のひとつの身の振り方として、近くの寺に修行僧として出された。彼はそこそこに優秀な子供であったようで、あちこちの寺で小僧や見習い僧として修行を積んだ末に、やがて京都の安養寺に住職として迎えられることになった。安養寺は檀家を四、五〇〇軒は持つ、京都としてはかなり大きなお寺だから、なかなかの出世と言ってかまわないだろう。(略)
 僕は阪神間で育ったので、父親の実家であるその京都のお寺を訪ねる機会は限られていたし、祖父は僕がまだ小さいうちに亡くなってしまったので、彼のことはそれほどはっきりとは記憶していない。しかしどうやらかなり自由闊達なタイプの人物であり、豪快に酒を飲み、また酔っ払うことで名を馳せていたようだ。名前の通り弁も立ち、僧侶としてはそれなりに有能な人であり、人望もあったらしい。僕の覚えている限りでは、一見豪放磊落、一種カリスマ的な要素を持ち合わせていた。大きなよく通る声で話していたことを記憶している。
 彼は六人の息子をもうけ(女の子は一人もいなかった)、元気よく人生を生きてきたが、1958年8月25日の朝、8時50分頃に京都(御陵)と大津を結ぶ京津線の山田踏切りを横断しようとして、電車にはねられて死んだ。(略)祖父は傘を差しており、カーブを曲がってやってくる電車の姿が見えなかったのだろう。

 少し引用が長くなりすぎましたが、それはひとえに村上弁識なる人物が、春樹さんがかつて発表した小説の登場人物のイメージと重なることを伝えたかったからなのです。

 その人物とは誰かということを明かす前に、村上弁識氏の京都市電にはねられたたというやや特異な最期に注目してみたいと思います。それは「1958年8月25日の朝、8時50分頃」の出来事ということですが、8月25日という日付を目にして直ちに春樹の大ベストセラー『ノルウェイの森』を連想するのは、この私だけではないと思います。そう、なんと直子の命日と同じなのです。

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