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女子ーズとバースデイ・ガールと違和感

 長らく見たいと思っていた映画「女子ーズ」を、TNCさんのおかげでやっと鑑賞することができました。あっ、彷蜃斎です。
 「女子ーズ」は「33分探偵」や「勇者 ヨシヒコ」シリーズで有名な福田雄一監督の2014年公開作品です。いわゆる戦隊もののパロディー(少々、表現が古すぎますが)で、名前に色が入っている5人の少女(赤木、青田、黄川田、緑山、紺野)戦隊が、地球征服を企む悪(?)の怪人たちと戦う物語になっています。
 パロディー映画として見た場合、福田監督らしい小ネタ満載で、コロナ禍の自粛生活の中では、爆笑に次ぐ爆笑で、なかなか楽しめました。キャスティングもレッド役の赤木が桐谷美玲さん、ブルー役の青田が藤井美菜さん、イエロー役の黄川田が高畑充希さん、グリーン役の緑山が有村架純さん、ネイビー役の紺野が山本美月さんと豪華ラインナップに加えて、要所要所のエピソードを志賀廣太郎さん(先日亡くなりましたね)やムロツヨシさんが固め、名前に色が入っているという理由だけで無責任に5人を集めたチャールズ(チャーリーズ・エンジェルスか!)を、佐藤二朗さんが演じています。
 これだけのメンバーを集め、福田監督作品ということで面白くないわけがないのです。が、どこか違和感が観終わったあとで残ったのも、偽らざるところでした。

 つらつら考えるにその違和感は、ながらく私が愛読している村上春樹さんのある作品に感じていたものとどこか似通っているような気がします。ある作品といっても、すでにタイトルに出しているのですが、そう、『バースデイ・ガール』なのです。
 『バースデイ・ガール』は、なんでも教科書にも掲載されているようですが、春樹さんの小説の中では珍しく教科書向きだと思います。いま、教科書向きという表現をとったのは、個人的な印象でいえば、春樹さんの小説は基本的に救いのない状況を描いていて、その意味ではあまり教科書で読むのはどうかなと思うからです。
 さて、『バースデイ・ガール』はどんな話なのかといいますと二十歳の誕生日を回想する彼女の話を、語り手の「僕」の視点で描く物語になっています。その日、彼女は本来金曜日は仕事に出る必要がないにもかかわらず、いくつかの偶然が重なって、老舗のイタリアンレストランでウェイトレスのアルバイトをする羽目になったのです。しかも、後にも先にもやったことのない、オーナーに夕食を運ぶという仕事まですることになりました。ただ、そのおかげでオーナーと個人的な話をすることができ、不思議な体験をすることになったのです。
 その日が偶然にも彼女の二十歳の誕生日だと知ったオーナーは、誕生日プレゼントとして一つだけ願い事を叶えてやろうと言い出したのです。彼女が願うとオーナーの反応は次のようなものでした。

「君のような年頃の女の子にしては、一風変わった願いのように思える」と老人は言った。「実を言えば私は、もっと違ったタイプの願いごとを予想していたんだけどね」「もしまずいようなら、何か別のものにします」と彼女は言った。それからひとつ咳払いをした。「別のものでもかまわないんです。何か考えますから」
「いやいや」、老人は両手を上にあげ、旗のように空中でひらひらと振った。「まずいわけじゃない、ぜんぜん。ただね、私は驚いたんだよ、お嬢さん。つまり、もっとほかに君が願うことはないんだね? たとえば、そうだな、もっと美人になりたいとか、賢くなりたいとか、お金持ちになりたいとか、そういうことじゃなくてもかまわないんだね? 普通の女の子が願うようなことを」(略)
「もちろん美人になりたいし、賢くもなりたいし、お金持ちになりたいとも思います。でもそういうことって、もし実際にかなえられてしまって、その結果自分がどんなふうになっていくのか、私にはうまく想像できないんです。かえってもてあましちゃうことになるかもしれません。私には人生というものがまだうまくつかめていないんです。ほんとうに。その仕組みがよくわからないんです」


 この一連の会話の後、オーナーは両手を叩いて、願い事は叶えられたと宣言します。彼女は、その日を境にして、そのアルバイトを辞めました。
 語り手の「僕」は彼女に二つの質問をします。一つ目は「その願いごとがかなったのかどうか」で、二つ目は「そのときの願いごととしてそれを選んで、後悔してないかどうか」でした。
 一つ目に対する彼女の答えは「イエスであり、ノオね。まだ人生は先が長そうだし、私はものごとの成りゆきを最後まで見届けたわけじゃないから」であり、二つ目には、聞き返した後、次のように描写されます。

 少し沈黙の時間がある。彼女は奥行きのない目を僕に向けている。ひからびた微笑みの影がその口もとに浮かんでいる。それは僕にひっそりとしたあきらめのものを感じさせる。
「私は今、三歳年上の公認会計士と結婚していて、子供が二人いる」と彼女は言う。
「男の子と女の子。アイリッシュ・セッターが一匹。アウディに乗って、週に二回女友だちとテニスをしている。それが今の私の人生」
「それほど悪くなさそうだけど」と僕は言う。
「アウディのバンパーに二つばかりへこみがあっても?」
「だってバンパーはへこむためについているんだよ」
「そういうステッカーがあるといいわね」と彼女は言う。「『バンパーはへこむためにある』」
 僕は彼女の口もとを見ている。
「私が言いたいのは」と彼女は静かに言う。そして耳たぶを掻く。きれいなかたちをした耳たぶだ。「人間というのは、何を望んだところで、どこまでいったところで、自分以外にはなれないものなのねっていうこと。ただそれだけ」

 彷蜃斎が、この小説で作者の春樹さんが流石だと思うのは、「僕」が彼女に願いごとそのものを質問しないところだと思いますし、それをあえて読者の想像に任せることが味噌なのだと思います。
 最後に逆に彼女は「僕」に「もしあなたが私の立場にいたら。どんなことを願ったと思う?」と聞き返しまう。それに対する「僕」の反応はこうでした。

 僕はけっこう時間をかけて考えてみる。でも願いごとなんて何ひとつ思いつけない。
「何も思いつかないよ」と僕は正直に言う。「それに僕は、二十歳の誕生日からは遠く離れすぎている」
「ほんとうに何も?」
僕は肯く。
「何ひとつ?」
「何ひとつ」と僕は言う。
 彼女はもう一度僕の目を見る。それはとてもまっすぐな率直な視線だ。「あなたはきっともう願ってしまったのよ」と彼女は言う。

 先に記したように、私はこの『バースデイ・ガール』を村上春樹さんには珍しく明るい未来を暗示するもの作品として読んでいました。すなわち、彼女は自身の人生を動かしようのない《宿命》と考えているのに対して、「僕」は変更可能の《運命》捉えていると。あるいは、人生はどの時点からでも、やり直しが可能なのだというメッセージが込められているように感じられ、その意味で教科書向きだと思うのです。
 にもかかわらず、どこか釈然としないもの、つまり、「女子ーズ」を観終わったあとのなんともしれぬ違和感と同質の何かを感じ続けていたのです。
 それは「女子ーズ」に限っていうと端的にはピンクがいないということだと思います。別の表現をすると比喩的としての女性が存在しないというなのです。
 

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