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最近、「タイムトラベルもの」って多くないですか?

 遅ればせながら、『不適切にもほどがある!』を観はじめて、出演している仲里依紗のデビュー作『時をかける少女』を思い出し、ついで、そういえば最近「タイムトラベルもの」が目につくことに気がつきました。
 「タイムトラベルもの」といっても、いわゆる「タイムマシン」がでてくるものから、それなしに「タイムリープ」するものや「タイムループ」に囚われたりするものというように、バリエーションがあります。
 昨今のはやりはマシンを使わない「リープ(跳躍)」が中心のような気がします。これは、明らかにテレビゲーム以降のリアリズム観の変更にともなう物語の変質に依るものでしょう。
 テレビゲーム以降のリアリズム観とは、東浩紀の「動物化するポストモダン」に詳しいですが、東は後にトム・クルーズ主演で映画化された小説『 ALL  YOU  NEED  IS  KILL』を材料にして、生まれたときからテレビゲームやコンピュータグラッフィクスが存在している世代にとっては、現実だけではなく、仮想空間にまでその想像力が延長されることで、リアリズム観に変質が生じているという画期的な分析を披瀝しています。
 具体的に『 ALL  YOU  NEED  IS  KILL』に即して言うなら、主人公は何度か繰り返させるタイムループに気づき、それから逃れる術を修練によって身につけることで、目的を果たします。これは、テレビゲームでいえば、彼がゲームに外にいるプレーヤーとゲーム内のキャラクターという二重の存在を兼ね備えていると解釈されるということのようです。
 そのような二重存在にとって、繰り返される仮想現実は同時に現実そのものであって、哀しみのリアリティーは、現実における悲しみと本質的に同じものであるということを意味しているのです。
 言い換えると例えば『東京リベンジャーズ』などを想起すればわかりやすいと思いますが、ある回のループと別の回のループにおいて、死に至るキャラクターが別だとしても、それによって主人公が感じる哀しみは悲しみと同じものだということになるでしょうか。

 さて、ここまできて、急に話題を変えるようですが、『葬送のフリーレン』におけるフリーレンという存在について、少し個人的な考えを述べたいと思います。



 結論から先に言って、彼女(で大丈夫でしょうか?)もまた、プレーヤーとキャラクター(登場人物)という二重の存在ではないかと思うのです。
 そう思うのは、まず彼女が前回の魔王退治の旅についての記憶(思い出)があることです。それに対して、フェルンとシュタルクにはその記憶がありません。なぜなら、フェルンはハイターの、シュタルクはアイゼンの代替キャラクター(表層の物語では養子(?)と弟子ですが)だからです。
 それの二重性ゆえに、フリーレンのキャラはその間を往還するのです。あるときは、魔王を倒すほどの超絶魔法使いであり、あるときは凡庸なエルフにすぎないのです。
 おそらく、『葬送のフリーレン』という作品の魅力というか、面白さの根源はこの点に起因しているのではないでしょうか?
  それは、物語の楽しみの一つに、作中の登場人物にはわからないけれども、読者にはある意味で特権的に与えられている秘密とでもいうべきものが存在するということではないかと思います。同時にそれは、作者の頭の中を覗いているという快感でもあるような気がするのです。
 皆さんは、どのように思われますか?
  


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