性的消費について考えた VS糞フェミ編

何のエビデンスもない思いつきの文章なので、間違っていたり納得できない点があれば是非コメントしてほしいです。というかだれかと議論したくて書いてるので、反応いただけると誰とも会わず一人で引きこもってる春休み中の大学生としてはめちゃくちゃ嬉しいです。


最近非実在青年に関する議論が再注目されている。国連が絡んでいるらしいが、詳しいことは知らない。ネットを見てるとどうやら「性的消費」なるキーワードによって、日本でも女性を中心にオタクバッシングが白熱しているようだ。

まず性的消費とは、女性の尊厳を傷つける性的な行為のことらしい。定義が曖昧であると指摘されているが、大体こんなところである。アバウト過ぎて、適応範囲がとても広い。基本的にこのアバウトさが叩かれているようだ。しかし調べていくと、どうやら性的消費そのものを問題視しているわけではないという人まで現れた。

つまり、一方で女性の尊厳が傷つけられていると主張され、他方でそれが可視化されることが問題だ主張されている。

①前者の場合、「性的消費」をキーワードにあらゆるものを批判していく。「これは性的消費にあたり、女性の尊厳が守られていない」というのである。

②後者の場合、男性の「性的消費」を可視化すると、その事実こそが女性にとって不快なことである、あるいは子供の教育にとって悪であるというロジックで、「男性の性的な視線から逃れられる権利、環境がない」というのである。

代表される例が、前者は美少女アニメバッシングであり、後者はラノベ表紙バッシングである。

では前者から見ていこう。

①について
僕は男性なので想像でしかないが、確かに男性の性欲は不快かもしれない。女性から見れば歪な表現を好んでいるように見えるかもしれない。そしてそんな歪な表現ばかりが蔓延している社会に不満を覚えるかもしれない。しかしそこでの不快さは

「男性」が「女性」を性的に見ている

という見方に原因があるように思う。どういうことだろうか。
性的消費に不満を持つ女性は、格好、言動が現実では本来ありえないような形に歪められた女性キャラを見たときに、それが「男性」による「女性」の尊厳への侵犯だと感じる。
「女性」が「男性」によって犯されていると感じるのである。しかし考えて見てほしい。

女性キャラは現実の女性ではない。そしてあなたとも何の関係もない。

終了。
僕たちは僕たちの興奮するキャラを、勝手に生み出して勝手にオナってるので好きにさせてください。

(ところで思ったけど、キズナアイは実は男性だとかっていう設定があったらどうなっていたんだろうか(ハッカドールの3号ちゃんみたいな感じで)。つまり僕には、そのキャラが女性であり、そして自身が女性である限りにおいて、そのキャラは男性を欲情させるような格好、言動であってはならないと言っているようにしか見えないんですよね。だとするなら美少女の格好をしながら実は女装だとかっていえば対象から回避されうるのではないだろうか。とか言って見たのは「月に寄りそう乙女の作法」という女装モノの神エロゲを最近やったからなんですけど)

次に後者、②について
これは上でも触れたように、一時期話題になったラノベ表紙問題に関する議論でなされていた主張。件のツイートによれば、過剰に胸を強調したラノベの表紙を見た女の子が父親に不快さを訴えたらしい。その不快さは、女性が性的消費されることへの不快さであり、それを子供に見せることは暴力であるとツイートでは主張されている。

しかし待ってほしい。
・その女の子の不快さは、果たして性的消費を目の当たりにしたことによるものなのだろうか。
・そして、果たして子供を不快にさせることは悪であり、子供が不快に感じるものは環境から排除するべきなのだろうか。

まず前者について
ツイートの女の子は不快さの原因について何も言っていない。その原因は、僕は性とは無関係に思う。

自分が親しんでない文化における表現は、常に歪に見え、時に不快にすら感じる。

このことを皆忘れているのではないだろうか。
例えば僕は海外のカートゥーンなど、とても気持ち悪く見える。他方日本の絵でも、年齢層が高めの男性が好むようなアニメ調ではないエロ漫画はとても気持ち悪い。そして思い返してみれば小中の頃は胸だとかアソコだとかセックスだとかに興味はなく、ひたすらパンチラを求めていた。そして中高と、少しずつ過激な表現を受け入れてきた。自分を表現に慣らしてきたと言っていい。

つまり、歪さに慣れていないことが不快さの本質であるように思う。しかしそれは現実を抽象化したり、単純化したりする作業=キャラ化の中で自然と発生するものだ。
そしてそのまま後者に繋げると、不快なモノは自然に生まれ、自然に溢れている以上、それが嫌なら自分が逃げるしかないのである。
極端な例で言うと、少し前にアマゾンプライムの利用者がCMで松本人志を見せられるのが嫌だと言っていたのに近い。嫌なら見るな。それだけである。それも嫌なら慣れろ
その意味において、その女の子は(親も含め)これから本屋に行く時ラノベコーナーに注意すればいい。本屋やイラストレーター、まして消費者、社会全体にまで文句つけても意味がない。

そもそも子どもは弱者であり、責任がとれる主体として規定されていない。社会は子供ではなく大人によって回るもので、その社会において生きられないために保護者が存在する。子どもを守るのは保護者であり、社会を子どもを中心としたものに変化させるのは無理がある。子どもに配慮してエッチなイラストを描かなくなったら、経済は(少なくともオタクが担っている部分は)崩壊する。ジャンプ作品にお色気要素があるのはそのほうが売れるからだ。
ゾーニングの問題だとかいうのはおかしい。多くの人の目に移らなければ表紙が果たす広告的役割も果たせなくなる。

かなり脱線してしまったように思うが、整理すると

自分はそれを不快に感じるが、しかし多くの人に受け入れられているものがあるとしたら、そこで行うべきことは、その多くの人を叩くのでもなく、その表現を叩くのでもなく、逃げるか慣れるのどちらかだ。

子どもが不快だからなんだというんだ。女性が不快だから何だというんだ。



とか考えて見ました。とてもとても感情的な文章でかなり脱線しました。そもそもフェミニストの主張をあまり知らないということに途中で気づき、実態のない相手との謎の論争を妄想する虚しさを感じました。

しかしこの、女性とは弱者で、子どもとは弱者であるから、環境は弱者を配慮して設計すべきだって話になると、結構大変なのではないか。
弱者競争をしてもだれも幸せにならないでしょう。。

#フェミ #女性 #アニメ #オタク #LGBT  #エッセイ


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