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自己肯定感なんていらない


自己肯定できている人というのは、
「自信がある人」ということだと思います。

「自信がある人」とは、どんな人のことですか?
何かができる、優れていると自信が持てますか?
そうだとしたら、
それ以外は自信がないのですか?



私が思う自信がある人は

この世に存在する自分をありのままに認められる人



「自己肯定感を高める。」なんて言葉が流行っているけれど、その自己肯定感は、本来あるべき自己肯定ではなく、自己肯定ができていない人が使う自己肯定できてる風な行為です。自己肯定感の「感」がポイントで、それは、そういう風な感覚ということです。そういう風とは、自己肯定できている自分ですが、自己肯定できている人は、自己肯定しようとは思いません。自己肯定感を感じたいということは、自己肯定できていない。つまり、自己否定に意識がある状態です。「自己肯定感を高める」という言い方も問題で、「高める」ということは、「今は低い」を意味するし、再び、下がるものだという捉え方になる。

では、自己肯定感を高めようとしてみましょう。どんなことが挙げられるでしょう。人に褒めてもらう。大きく言えば、これしかない。褒められると、自分を認めてくれている、肯定されていると感じるからでしょう。基本的には嬉しくない人はいない。

褒められることで肯定されるというのは、幼少期は、特に意味があります。生まれたとき、潜在意識は空っぽです(潜在意識とは、自分の脳内の意識全体が顕在意識と潜在意識で構成される意識の名称。顕在意識が3%程度、潜在意識が97%程度の割合。潜在意識が自分が意識していること、ほとんどを占めている。)。その空っぽの意識を入れる容器に入り込むのが、一番最初に出会う人、つまり、親の言葉。親が自分に言った言葉(兄弟がいればそれも含むが、子供を産んだ(つくった)のは親なので親の方が大きい存在です。)、何か親に大してアクションをした際の親のリアクションを見た自分が感じたことが最も入りやすくなります。親に肯定的な言葉を言われる。何かをしたら親が笑顔になる。これが、子供にとっては、自分の存在が肯定されていると感じることです。

他には、親同士が話している言葉。良くない方で説明すると、両親が暴力的な言葉を使っていれば、それが自分に向けられていなくても、子供にとっては自分が言われているのと、あまり変わらないのです。その言葉が聞こえてくると、潜在意識が空っぽなだけに入ってしまう。そうなれば、その人は、誰かが誰かを責めるような攻撃的な言葉の影響で潜在意識に否定の意識が入ります。同じように言葉や行動が荒くなります。その自己否定の意識とは、誰かが誰かを責めている、否定している言葉ということ。それが、自分が否定されているような気になってしまうという脳の誤解が起きる。「自分が」というのは、子供は素直さがあるため、「自分の存在が」という大きな意味で捉えます。一部分を否定したつもりでも、潜在意識は、主語を捉えない性質があるため、否定だけが残ってしまいます。潜在意識が空っぽな時期ということで一番影響力がある親の話をしましたが、学校や職場での周りの人の言葉は同様に働きます。学校である一定の時期、否定され続ければ同じようなことが起きてきます。幼少期に自己否定が入った人が、大人になってから褒められても、「私は〇〇はできるけれど、〇〇はできない。」と、わざわざ、自分の否定的な部分に意識が向いてしまい、褒められて嬉しいのに、素直に喜びきれなくなる。

褒めるではなくても、尊重される、認めてもらうなど、結果、肯定されたと受け取る似たような言葉は同じと理解してください。他者が自分を褒めてくれるかどうかは自分では決められないため、それを簡単にやる方法として、自分で自分に肯定的な言葉を言うという手法があります。これは、とても潜在意識の状態が良くない人だけが使える方法です。上記のように幼少期に自己否定が潜在意識に入ってしまった人が、その潜在意識を書き換えるために、自分に向けて言うということ。つまり、「私は肯定されている。」と、自分の脳を良い意味で騙すということです。実際、私の個人セッションでも、これをお勧めすることもあります。ただし、先程、言ったように、状況が良くない人をある一定ライン以上に引き上げるための救済方法にすぎません。これを勘違いすると、褒められれば褒められるほど自分は良くなる、自信がつくと思い込む。それでは、ただの欲です。もっと褒めて、もっと褒めて、と追いかけてしまっている。お金と一緒です。お金はないとできないことも多いですから、あった方がいいですが、追いかけるとそのうち苦しくなります。なぜなら、その欲は上限がなく無限だからです。自己肯定感もお金も、あればあるほど満たされると勘違いすると、なくなったときに自己否定や欠乏を感じてしまう。もっと欲しいという意識が生まれるのは、「今の私は満たされていない、足りていない。」という意識があるということ。それでは、足しても足しても、本来の自己肯定ができる日は来ません。肯定できていれば、もっととは思わない。他者からの言葉もお金そのものも他者です。人や物に頼らないこと。自己肯定に他者を介入させてしまうと、その他者のおかげで自信のようなものを保っているという不安定さがある。なくなったら成立しない。それが怖いから、人に好かれて必要とされている気分になれば肯定されていると感じられるから人に好かれようと頑張る、仕事をして高い評価を得れば、褒められて肯定されていると感じて頑張る。途中まではその勢いを人生に活かせて好感が持たれたり、出世するという、肯定されたい欲を利用した成長として良いかもしれない。しかし、頑張り続けなければいけないため、そのうち心が枯れます。必ずガス欠する。なぜなら、燃料は自分ではなく、他者からしか得られない状態だからです。私はこれを長年やってしまいました。ガス欠しても、「私は必要とされる人になるんだ。」と念じて、頑張りましたが、もう限界となる。何事もできなかったことができるようになれば嬉しいし、他者がそれを褒めてくれたら嬉しいですが、人は慣れます。慣れると物足りなくなる。必ずしも褒められるわけではなく、否定されることもあります。もっと、すごい人にならないといけないと思い始める。追いかけてますね。「基本的には嬉しくない人はいない。」と言いましたが、足りていないという欠乏に意識がある人は、褒められても、むしろ、嬉しくないこともある。最初は嬉しいですが、やってもやっても満たされていない、自信がつかない自分に不満があるため、自己否定の意識が高まっています。そうなれば、「褒められる=褒められても肯定されきれない自分」に意識があり、喜べない自分を感じます。

ずっと、全力疾走はできません。そうなってしまったおかげで得られたものはたくさんあり、それも財産です。だから、私は、やらなければよかったとは思わない。否定しません。ただ、こんなに息苦しさを感じる生き苦しい生き方を人にやってもらいたいとは思わない。やらなくても自己肯定できる方がいい。好きなことをやればいい。意外に純粋に好きなことをやるのが難しいのは、どこかで必要とされたい、褒められたいという、自己肯定感を高めたい欲があるからです。好きだけれど、世に肯定されないことへの恐怖があるから。そうなればやりたいかどうかではなく、肯定されそうなところに身を置こうとする。気に入られることを気にしてしまう。そうして、本当の自分ではなくなっていく。本当の自分がそれを拒否して心身が壊れていく。評価されることが良くないのではない。どうしてそうされたいと感じるのかをよく観察している必要があるということ。やりたいことをやる、そうする自分が在ることを肯定する。


この世に自分が存在していることを

肯定しようとせずに肯定する

自己肯定を頑張らない

それができることが自信です

自分に価値があるかないかなどとは考えないこと

存在するだけで圧倒的な価値があるし

自分そのものに価値はない

価値があるが価値がない

価値を意識するから自己評価、自己肯定を意識してしまう

他者評価を気にしてしまう

どちらもいらない

ありのまま存在する

ただそれだけです

完璧でなくていい

少しずつでいい

自信がある自分を感じながら進んでいこう





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