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【映画】虚無を測る線分

 友人と集まって映画を観るとき、求められるものは刺激の強さでした。クソ映画であれ、おもしろいものであれ、よりフックの大きなものを、より強いクソさを、より新しい何かを求め、私達はTSUTAYAの棚の間を放浪しネットの広大な砂漠を練り歩いてきました。視聴会を繰り返すごとに、我々の嗅覚は磨かれ「当たり」をかぎ分ける能力も身につき、視聴会はとても有意義で楽しいものとなりました。しかしそれでも、「はずれ」を引いてしまう時はあります。『おもしろい』に転換しうる閾値の超えた刺激の存在しないクソ映画や、「まあ、悪くないけど……」としか言いようがなく二日たてば観たことを忘れてしまうような映画たち……。おもしろさとおもしろくなさの二点の間にひかれた線分の二等分点。つかみどころのないツルツルの球面の如きその映画を、最初、私たちは単に「駄作」と呼んでいました。しかし、違うのです。「駄作」では、ネガティブなニュアンスが強すぎる。ネガティブさは刺激に転換でき『おもしろい』に変えられる。その二等分点たちは、それすらも不可能なのです。ゆえに私たちは、その映画群をこう名付けました。よくもなければ悪くもない、何も我々に与えることのない、そこに何も存在しない虚無……「虚無映画」と。

 名付けという行為は、仮初の真実で謎を吹き払い我々に安心を与えます。「はずれ」に「虚無映画」と名前を付けたことで、私たちの視聴会は新しい段階へとなりました。当然、刺激のある作品を求め続けたのは事実。しかし、「はずれ」を引いた時、今までだとただがっかりして終わっていたのが、「きょ、虚無映画だ~~~~!」「何という虚無!何も残らない!」と「はずれ」に娯楽を見出すことができるようになったのです。やがて、我々は、クソ映画のクソさの比較してキャッキャするように、虚無映画の虚無さを比較してキャッキャするようになりました。「こちらの映画の方がより刺激が少ない」「今回の映画の刺激の少なさには今までにない新しさがある」「狙って作られた養殖の虚無は、天然ものの虚無と比べて純度が低い」……。幾度となく視聴会の夜を重ねてゆくうち、虚無映画もまた我々の楽しみの一つとなりました。「おもしろくない映画はないんだ」 私達は改めてその結論に納得しあい、満足げに頷きました。しかし、ある日、私達は気が付いてしまったのです。「楽しめているのならば、これは「虚無」とは呼べないのでは?」

 名付けという行為は、仮初の真実で謎を吹き払い我々に安心を与えます。虚無に「虚無」という名を付けてしまった瞬間、虚無さもまた刺激となってしまったのです。しかし、私たちの定めた虚無の定義とはおもしろさとおもしろくなさの二等分点……「刺激がないこと」であったはず。しかし、今や、「刺激のなさ」ですらも我々は刺激として認識できるようになってしまった。「これは真の虚無映画ではない」 私たちの中の誰かが言いました。「真の虚無映画とは、おもしろしろさと、おもしろくなさと、おもしろくもないけどおもしろくなくもないの三つの中心にあるものだ」 「刺激のなさも極点の一つである以上、真の虚無とは刺激の有無の中間に位置するものだ」私たちは定義を更新し、新たな旅に出ました。刺激はそこそこあるけれど、なくもないという映画を探す旅。幾つかの映画が見つかり、その虚無さに我々は喜び、熱く語り合いました。「きょ、虚無映画だ~~~~!」「何という虚無!何も残らない!」「こちらの映画の方がより虚無である」「今回の映画の虚無さは今までにない新しさがある」「狙って作られた養殖の虚無は、天然ものの虚無と比べて純度が低い」……。しかし、ある日、私達は気が付いてしまったのです。「楽しめているのならば、これも「虚無」とは呼べないのでは?」

 永遠にたどり着くことない、線分を二等分にする概念上の点。手に入れた瞬間に、その上から滑り落ちてゆく幻。虚無映画を追い続ける旅こそが、虚無そのものであるという空虚な言葉遊びに乾いた笑い声上げ、今夜もまた私達はTSUTAYAの棚の間を練り歩くことでしょう。