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【映画】刺激的

 趣味の悪い趣味の話をしましょう。学生時代は友人の下宿に集まって、よく映画を観たものです。社会人になって友人たちとの物理座標が散らばってしまうとこういう楽しい遊びもできないだろうなあと当時しみじみしていたものですが、twiterなるものは実に便利なもので、今でも再生開始時間を合わせ、人間文明の勝利をかみしめながら度々電脳視聴会を開催しています。ここで一つの一般論として「皆で観ると楽しい映画」とは単に「優れた映画」と一致しないということが挙げられます。視聴会という遊びに求められるのは、参加者の間で共有できる「おもしろさ」と「興奮」……さらに言葉を拡張するならば、「強い刺激」と言えるでしょう。そこで我々がたどり着いたのはいわゆる「クソ映画」と呼ばれる代物でした。嗚呼、クソ映画を求め、アマゾンビデオの荒野を歩く旅の日々よ。アマゾンビデオはなぜか低評価順の項目がなく(当たり前だ)、その旅には、油断なき嗅覚と己の審美眼を信じる心が求められました。ゆえにオアシスという名のこえだめを発見した時の喜びは、何にも代えがたいものであり……。

 おもしろいものとは「脳に刺激がはじけるもの」であるとは逆噴射先生の金言ですが、クソ映画と駄作の判別はまさにこの刺激の有無と言えるでしょう。「おもしろくなさ」「出来の悪さ」がある閾値を超え、脳がそれを刺激と認識したとき、あらゆるマイナス点は裏返り、私たちは『おもしろい』を得られます。そして、その『おもしろさ』の源となる刺激は、時折、「おもしろさ」の刺激にはない、「新しい刺激」を私たちに与えてくれました。

 「おもしろい」「好き」「完成度の高さ」はどうしてもある種の方向性に縛られますし、我々にとってそれを摂取する方向に立ち振る舞うことが自然である以上、どうしてもポジティブなそれらは見慣れた刺激になりがちです。一方にそれ比べ、「おもしろくない」「嫌い」「完成度が低い」が持つ刺激の、何と自由で、なんと広大なことでしょう。「予想をはるかに下回る」ことは、言い換えれば「自分の予想をはるかに超えた未知」でもあります。新規性。斬新さ。発想の飛躍。己を囲む檻をぶち破るブレイクスルー。まだ見ぬ刺激、しゃぶり始めて間もない飴玉の強烈な甘味がそこには隠されています。

 また、その御褒美が容易には撮り出せないところも、娯楽として素晴らしい。我々の頭は「おもしろい」ものを「おもしろい」ととらえるように長年の蓄積によってチューンナップされており、「おもしろくない」ものを『おもしろい』に変えるには、それを咀嚼し、読み解き、言葉にし、「これは刺激だ」と気づく必要があるでしょう。クソ映画と駄作の判別は刺激の有無と前述しましたが、駄作とは実のところ、私たちが刺激を取り出すことに失敗したもの、私たちの敗北だと言えるのかもしれませんね……。絶対悪はロマンですが、この世に『おもしろくない』は存在しないのですから。