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起承転結の狭間の歌声

これはポルトガルの国民歌謡『ファド』の歌手をめざすどうでもよい女の子がどうでもよからざる能力を見出されて花開く、というだけの都合のよいお話です。

 この漫画は、そう書かれた完璧なまえがきと共に始まり、実のところそのまえがきにおいて、全てが書き尽くされている。


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私の所有する1冊


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 学生時代の私はいしいひさいちの大ファンで、ひさいち文庫や『ドーナッツブックス』は勿論、多くの著作を買い集めていた。実家が朝日新聞を購読しており、子供の頃から『となりの山田くん』と『ののちゃん』を読んでいた影響だった。連載を毎朝追う中で、時折、強烈に印象に残る日があった。奇妙な叙情性によってコマが色づき、どこか痛切な重さが行間に潜み、しかし全体はカラリと乾いている。吉川ロカが登場した日の朝は、贅沢で、そしてスペシャルだった。

 四コマ漫画の日刊連載の中で、連続的ではなく断片的にストーリーものをやるという試みは、とてもかっこよいものに思えたし、何より抜群におもしろかった。「まとめ読み」はそのコンセプトから外れるとわかりつつも、スクラップしたノート、あるいは購入した全集のページに附箋を貼り、時折、吉川ロカの登場回だけを拾い読むのが私のひそかな楽しみだった。友人の1人が偶然、私と同じく吉川ロカシリーズが好きで、学生街で飯を食べながら「これだけをまとめた単行本が出てくれたらいいのにな」とたまに話していた。

 単行本を手に入れたのは、初版発売から半年を過ぎてからだった。以前ほどいしいひさいち作品を熱心に追えておらず、発売に気がついていなかった。知ることができたのは、『忍者と極道』を連載している近藤信輔がtwitterで呟いていたからだ。近藤先生ありがとう……。すぐに申し込みし、購入した。友人はこのことを知っているのだろうか?


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 登場人物の紹介と主題となる「ファド」の説明については、本作冒頭に記されたそれが、まえがきと同じくあまりにも完璧で付け足すことが何もない。なので以下に引用するが、これも不完全なものとなる。いしいひさいちの書く文章は、あのとぼけているのにどこか突き放したように酷薄な手書き文字で書かれなければ意味がない。

吉川ロカ ファド歌手志望の高校生、ステージで歌詞をまちがえてお客に指摘されても、データの方がまちがっていると言い張るだけの根性はある。

柴島美乃 吉川ロカの友人、年上の同級生。滝打流棒術のうち会得したのは棒を失った場合を想定した絞め技だけ。

ファド ポルトガルの大衆歌謡で『宿命』を意味する。デリケートな小節まわしに特色があり、12弦のギターラの伴奏で歌われる。


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 1本目の四コマ漫画では、連絡船の沈没事故で親を亡くした2人の女子高生が宿命的に出会うところが描かれる。それを発端に、天然気質な歌手志望と典型的なヤカラのコンビが、教師にかけあい、バイトで稼ぎ、路上ライブに売って出るさまが、コミカルなギャグ四コマの連続として(時折、いしいひさいち十八番の八コマ漫画も交えつつ)語られてゆく。

 ドラマが先にあり、それを四コマの連続に振り分けてゆくのではない。あくまで個々が独立した四コマ漫画が先にあり、それらを積み上げゆくことで、そこに潜んでいるものと、流れらしきものが見えてくる。

 沈没事故の慰霊祭が催される海や、歌の練習場を求めて足を踏み入れる元季節工の宿舎の倉庫など、吉川ロカと柴島美乃の目を通して時折差し挟まれる奥行きのある情景が、四コマの単位をはみ出して一貫性のある色と匂いを連続させてゆく。それらの情景は強烈な印象を残しつつも、あくまでそれが主になることはなく、起承転結の端っこに引っ掛けるようにして描かれてゆく。関係性を強く示唆する台詞や描写すら、オチとして強調されることはなく、ギャグの流れの一部としてさらりと描かれる。


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 その「どうでもよからざる能力」により、吉川ロカは坂道を転がり落ちるように歌手の道を駆けあがってゆく。たった2人から始まった路上ライブは、もちろんそれだけで完結することはなく、何人もの人間を関わり合わせ、主要キャラクターとしてギャグの壇上にあげてゆく。

 吉川ロカを主役とする四コマ漫画である本作は、おおむね彼女と他のキャラクターとのかけあいで1本が成り立っている。もう1人が柴島美乃だけであったときは、これは2人の女子高生の四コマ漫画であったわけだけど、人を強く魅了する吉川ロカの歌は、作品をそこに留まらせることを許さない。

 キクチのおばあちゃん。吉田先生。プロデューサーの飯田さん。吉川ロカのかけあい相手はどんどん増えてゆき、必然的に柴島美乃はその登場回数を減らしてゆく。ただし、そのゆったりと距離が離れてゆく気配が、各々がそれに対して思うことが、ドラマとして正面から描かれることはやはりない。この作品において、ドラマはやはり主ではない。デビューが決まり、地元を出る吉川ロカが柴島美乃と判れる一幕すらも、あくまで特別なものとしてではなく、おもしろおかしい起承転結の中にまとめられている。


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 デビュー後も、吉川ロカはその才能を発揮し、「歌うたい」の能力を際限なく花開かせてゆく。何度も繰り返す通り、本作はどこまでも四コマ漫画であることを先に置いているが、それでもここまで塗り重ねた情景の厚みと、長く繋げてきた流れの重さが、否応なくドラマの比重を大きくしてゆく。その比重は最後のほんの少し前まで逆転することはないが、それでもどちらが先かわからなくなるほどに混ざり合ってゆく。

 いしいひさいち特有の、コマを1つ左右に分割して五コマにしたり、コマの大きさをバラバラにしたり、二コマを繋げて大ゴマを作ったり……型を破る自由な手法が具体的にどう効果を発揮しているのかを、専門でない私は解説することはできない。しかし、型を守り・型を破りを繰り返してゆくことが、四コマの連続の中に抑揚とリズムを作り出し、本作を「ストーリーライブ」足らしめているのは間違いないと思う。

 それでもこの作品は、どこまでも四コマの起承転結を基本単位にし続ける。柴島美乃が送った全てが引き返せなくなるメールの1文も、それを受けた吉川ロカを描いた息が止まるほどの画も、そこに込められた2人の思いの量も、今や完全に型が崩れているにも関わらず、やはり主となることはなく、ズッテンとすっころぶオチまでの過程の1つとして扱われる。ドラマに焦点は当たらない。どう見てもそれが主になっているのに、輪郭は明瞭にならない。起承転結の狭間にそれは描かれ、ストーリーとして紡がれる。見えにくく、消えている。ゆえにその狭間にあるものは、切ないだけでなく、儚いだけでない、ひとことでは言われない複雑さをもっている。


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 本作の最後の1本。その最後のコマで、ようやく2人のドラマは正面から描かれる。決してずっこけるものでなくギャグでもないその情景が、この長い四コマのオチとなることで、ROCAという作品はストーリーライブとして幕を閉じる。そしてそれは、やはりまえがきの中で書き尽くされている。


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