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最近読んだアレやコレ(2024.08.10)

 新生活の労働の方が忙しく、平日の余暇時間が超圧縮されており、ではその圧縮された時間で何をしているのかと言うと、ほぼずっと『Balatro』で遊んでいます。ポーカーのローグライトのやつ。遊びの内容自体もおもしろいのですが、それ以前に、ぱたぱたトランプが場に出て、ちきちきチップが入ってゆく音と手触りがとてもいい。目の少し荒い、柔らかい絹の布を撫でるような直観的な気持ちよさがあり、ついつい触ってしまいます。個人的には、『Slay the Spire』よりこちらの方が好きかも。書類とトランプと書籍が生活の隅々まで敷き詰められている。私は今、紙に支配されている。

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サーチライトと誘蛾灯/櫻田智也

 ボランティアの吉森が、その夜、公園で出会ったのは、昆虫マニアの青年と、胡散臭い私立探偵。翌朝、探偵が死体で見つかり、見回り隊もてんやわんやに。吉森は、偶然再開したとぼけた青年から、ひとつの推理を聞かされることになる。虫めづる青年・魞沢泉の推理と冒険。標題作他4編収録。

 理屈立てて推理を組み立てるのではなく、お話の中からピースを拾い上げ、並べかえ・当てはめ・色を塗ることで、思いもしない絵を完成させる……そんなおもしろさ。ロジカルというよりは、マジカルでしょうか。拾い上げられるピースに意外性があるもの、元となったお話と完成した絵のギャップの大きさで魅せるもの、ピースの並べ方に鮮やかな発想が光るもの。手つきは揃えながらも重心は5編全てが異なっており、洒落ています。以上のように、パズルとしても確かな楽しさを備えた名アルバムなのですが、個人的に最も好きなのが、いずれの短編においても、解決編を終えた後でパズルからはみ出したお話の結末……組みあがった絵のその先が、ぺろんと飛び出すところにあります。それは、もしかするとミステリ短編としての純度を落とすものなのかもしれません。しかし、お話から生みだされた1枚の絵を、静かに手に取り、壁にたてかけるその所作には、主役を務める魞沢泉のとぼけた優しさがにじんでいます。冷徹な合理に則って、さっと幕を引く切れ味の鋭さは、彼に全く似合いません。この小説を読むことは、魞沢泉という名探偵を好きになることを意味します。事実、私はすっかり、彼が好きになってしまいました。おもしろかった。


蝉かえる/櫻田智也

 16年越に訪れたその村で、糸瓜は奇妙な2人連れと出会う。昆虫食の研究家と、虫マニアの青年。2人が醸すとぼけた空気に誘われて、糸瓜は懐かしい記憶を語り始める。災害救助のただ中、密室から消え失せた少女は幽霊だったのか? 虫めづる青年・魞沢泉の推理と旅路。標題作他4編収録。

 拾われるピースの意外性、並べ替えと当てはめの鮮やかさ、そして完成する画の驚くほどの出来栄え。『サーチライトと誘蛾灯』の手つきを引き継ぎ、その全てがより美しく磨かれています。そして何より見事なのは、そうしてお話から絵を描き出すその手順と、そこに語られ描かれるものがぴたりと重なることにあります。そして、それを成す精緻さが人工的な硬さを帯びることなく、どこまでも真摯で、誠実で、やさしく、物語と連れ立つものになっているのです。営為と作為が完全に身を結び、もしかするとそれを越えた部分まで描きえているのかもしれません。謎を解きほぐし、人に関わることを、どこまでもまっすぐに。「仕掛け」としての賢しらさや欲を出すことなく、他者に寄り添い、思いやり、心の底から謎を解くひとりの探偵の姿を、真摯に、誠実に、やさしく、どこまでも、どこまでも……。名探偵・魞沢泉の内面により深く踏み込んだ本作は、彼を傍観者に留めることなく、ゆえに前作ではパズルからはみ出していたそのやさしさも、そのパズルの内に組み入れられることになりました。この小説を読むことは、魞沢泉という名探偵と共に、事件と関わり、謎と関わり、人と関わることを意味します。ゆえに、描かれるものが、本の向こうの他人事ではなく、我が事として強く胸を打つのです。本当にいいものを読みました。続編も絶対に読みます。


悪魔のひじの家/ジョン・ディクスン・カー、白須清美

 かの〈悪魔のひじ〉の上、緑樹館に住むバークリーの一族。前当主から相続人に指定されたニックは、欲しくもない遺産を突き返すべく、しぶしぶ帰省を果たす。折しもあれ、凶事は起きた! 徘徊する幽霊が現当主を銃で撃ったのだ! 大騒動を収めるべく我らがフェル博士が舞台に上がる。

 襟を正すほどに王道な本格推理の建てつけから繰り出されるのは、あまりにもカー味(み)の強すぎる、真剣味に欠いたどんちき騒ぎ。「曰くつきの館に徘徊する幽霊……遺産を巡る骨肉の争い……」ではなく、「ひえぇ~幽霊が出た!ついに出た!えらいこっちゃ!えらいこっちゃ!遺言もこんなんひどすぎる!ヤバすぎる~!あっ!人が銃で撃たれた!ひょぇ~!」が正しい。銃声が響いても、幽霊が出ても、箸が転んでも、ひたすらにわあわあぎゃあぎゃあ騒ぎ続け、すっころび鼻血を出し、さらにもう1度すっころぶ。あきれかえるまでのドタバタぶりには、淫猥も背徳も、怜悧も非人間性も、入り込む余地が全くありません。1歩進んではおばちゃんが騒ぎ、2歩進んではロマンスによそ見する。この遅々たる推理の進行速度には、ただただ幸福な苦笑を浮かべるばかり。欠いた精細は、実家の柱の親しみ深い傷の如し。この溢れんばかりの「ああ、もう、しゃあねえなあ」には、私が求めるほぼすべてが詰まっています。一方で、その怪奇ロマンスおじさん:ジョン・ディクスン・カーの過剰なまでの茶目っ気ぶりが、ただの装飾に留まらず、推理小説としての仕掛けにもきっちり共鳴してくるのが不敵です。庶民的な親しみ深さの内に、鋭いナイフが隠されている。ネタが殺人事件じゃないのも、ハッピーハッピーで好きですね。たっぷり楽しみました。


狐花 葉不見冥府路行/京極夏彦

 身も凍るほどに美しい青年が現れるという。青年は彼岸花を染付けた着物を纏っているという。青年は、この世に居るはずのない者なのだという……。江戸をうろつく美しい幽霊は幾度かの人の死を招き、ついには、かの憑き物落としを呼び寄せた。歌舞伎舞台用に書き下ろされた幽霊譚。

 「もしも幽霊を見たら自分の心に注目を」……京極夏彦式幽霊譚の王道中の王道。そして、巷説/百鬼に連なる既知の部品で組み立てられた逸品でありながら、京極作品としては未知のものが多く含まれています。事件に自ら関わってゆく憑き物落としであったり、シームレスに視点人物が移ってゆくカメラ制御の緩さであったり、ある意味では「らしからぬ」直球の推理小説的仕掛けであったり。それらは恐らく歌舞伎化を見据えたことで生じた新しさであり、同時に、小説作品としての豊かな刺激にもなっています。視点人物間をふらつくカメラは、実のところ恐ろしく厳密な「再現」でありましょう。それは彼らを舞台の外から眺める読者の立ち位置を、強く強く意識させるものであり、ゆえに、テキストに起こされているわけでもない、ありもしない舞台がそこに幻視え、必然、そこに立つ演じる役者たちの艶めきや、顔にかかる陰影すらもREALに立ち上がり……。そして、その上で暴かれるトリック。それはまさにその舞台の上に錯視るに適したものであり……私は歌舞伎に全く明るくないので断言はできませんが……ミステリとして前例のない趣向であったように思います。特異な作品背景が、必然性と厳密さの下で小説作品として花開き、葉も見ずに散る路行を見事、末に結んでいる。傑作というより、美品と呼びたくなる佇まい。素晴らしかった。


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