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最近読んだアレやコレ(2021.01.17)

 この日記(1度も言ってなかったですが、実は私は日記のつもりでこれを書いています)は、1回更新で4作品という制限があり、かつ、分冊刊行小説の場合は各巻を別カウントというルールをとっているため、上中下巻構成のものを読んだ場合、必然的にその作品の特集回みたいになってしまうという欠陥があります。そんなわけで、今回は宮部みゆき特集。twitterでもnoteでもほぼ触れたことはありませでしたが、私は宮部みゆき作品が大好きで、刊行作品の8割程度は読んでいます。ここ数年は読めておらず、今回、久しぶりにふれたわけですが……やはり、化け物じみた小説力でちびってしまいますね。あらゆるステータスがぶっちぎってるのに、それが「当たり前」のようなたたずまいを持っているおそろしさ。MONSTER……! 「小説を書く」という才能において、天才が誰かと尋ねられたら、私は、筒井康隆、宮部みゆき、いしいしんじの3名を挙げることが多いです。

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この世の春(上巻)/宮部みゆき

 タイトルに反して、表紙に春らしさがなさすぎる。六代藩主・北見重興の強制隠居に伴い、情勢の荒れる下野北見藩。その夜、父である元作事方組頭に助けを求め、主人公・多紀の元を訪れたのはとある要人の嫡男で……というのがあらすじです。「宮部みゆきの時代劇がおもしろくないわけないだろ!」という感じですが、実際問題はちゃめちゃにおもしろく、ふざけやがってと怒りを露わにするほかありません。サスペンスとしてあまりにも地力が高すぎるシナリオ構成と、強烈な没入感をもたらす文章体験。かつて、私の母親が、宮部みゆきの小説を指して「脳みそを地引網にかけられて作品世界に引きずり上げられる」と称したことがあるのですが、これは言い得て妙だと思います。気づけば、神経の隅々までを絡めとられ、いつの間にか架空世界の中に自分が立っている。それがフィクションだということ、小説だということを忘れてしまう。そのマジックは、時にとんでもない悪意を伴って、読者を打ちのめす罠に変わるわけですが……。


この世の春(中巻)/宮部みゆき

 乱心による強制隠居に伴い、別邸・五香苑へと住居を映した元藩主・北見重興。彼の世話係として同じく五香苑に移り住んだ主人公・多紀は、重興との交流を通じ、彼の心中に潜む謎に取り組むこととなる。「元藩主の乱心の正体は、北見家への恨みを抱く怨霊による祟りか?それとも、心の病によるものなのか?」……魔法か?トリックか?という題材は、思考実験型の推理小説のようですが、そういった机上の遊戯に留まらず、あくまでヒューマンドラマ/サスペンスとしてお話を展開し、そういった問答自体はさほど大きな要(かなめ)ではないというのが、なんとも宮部作品らしいところです。事実、本作において、この問答の回答は出るのですが、誤答の方に準じた出来事も今後、普通に起こるんですよね。重要なのは、対立構造それ自体ではなく、謎を秘めた心の背景にあるもの。過去の出来事、それ自体に向き合い、「北見重興」という人の形をした謎を解き明かし、彼を謎ではなく人に収めること。心を巡る冒険は佳境を迎え、ついに、「悪」が滲みだす。ニンジャも出るよ。


この世の春(下巻)/宮部みゆき

 宮部みゆきの小説は、やはり、どこまでも「悪」についての小説であり、「役割」についての小説なのだなあ、と静かに目を閉じ、本を閉じることとなる最終巻。かつて藩中で起きた児童の連続誘拐殺人事件。六代藩主・北見重興が殿中で起こした2つの殺人。その乱心の原因となった、重興の父の秘密。二転三転し続ける展開はサスペンスフルですが、舞台はあくまでも五香苑から動かず、起きた事件も全ては過去の出来事です。この小説で描かれる現在、多くの登場人物にとって、それらはもう手遅れになってしまった過去であり、今更できることは何もない。今、語られている物語の中で、登場人物たちが果たせる役割は、「悪」の在り処について「考えること」と「知ること」だけだということ。謎を解き明かし、真実に向かうことだということ。真実に向かうことで、それの取り扱い方を判断することだということ。文庫本にして1000ページを越える分量の大冒険の全ては、北見重興という人間ただ1人を解き明かす旅路であり、彼の心の中に納まる小規模のものでした。しかし、それは、1000ページが短く思えるほどに、広大で、複雑で、魅力的なものだったと思います。ド傑作。めちゃくちゃおもしろかった。


ひかりごけ/武田泰淳

 短編集。普段、自分が全く読まないようなカテゴリの作家の小説を読んでみよう、という個人的キャンペーンの成果。自分の力では思いつくことができないため、知人にヒアリングした結果、戦後作家の武田泰淳を読むことになりました。伊坂幸太郎を思い出す句点の多い文体に、最初はつんのめりがちだったのですが、登場人物の五感が知覚したものを淡々と描写してゆくこの筆致は何とも癖になる。キャラに憑依するタイプの文章なわけですが、それでいて、映すカメラの前に完全には主観になりきらない薄紙1枚分の破れない壁があるのがとてもよい。ドライなんですよね。文章の根っこが乾いている。この「ギリギリまで近づいているのに、踏み込み切らない」達人の間合い取りは、戯曲型式+センセーショナルな題材をとった標題作「ひかりごけ」で最高潮に達するわけですが、個人的には、特殊な型式でそれを実現した「ひかりごけ」よりも、通常の小説文体をそれを成し遂げているほか3作の方が好きです。「海肌の匂い」が特に好きですね。とてもおもしろかったので、武田作品はもう1冊くらい読んでみたい。


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