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最近読んだアレやコレ(2024.01.20)

 年末年始はがっつり長い小説を読みたい気持ちだったため、『暗黒館の殺人』の3回目の再読に取り組みました。結果、読み切れず、1月いっぱいまではみ出しました。ところでこの「3回目の再読」に類する表記を私は多様していますが、これは初読・再読・再読(←これ)、すなわち通算3回目の読書という意味で使用しています。しかし、「3回目の再読」という記述は、明らかに再読を3回している(通算4回目の読書である)と読む方が自然であり、私の記述は間違っていると思います。間違っていると思いますが、おそらくここ数年ずっとその表記にしているため、改める機会を失っていました。謹賀新年。本年より「初読」「再読」「再々読」「読むのは4回目」に改めようと思います。今年もよろしくお願いいたします。

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暗黒館の殺人(一)/綾辻行人

 蒼白の霧を抜け湖を渡った先に、その異形の巨大複合建築は在る。浦登のお屋敷、暗黒館。不吉な噂流れるその館に、何故か「私」は招かれていた。人魚の血。幻視者の画。十角形の塔。数々の異様に翻弄される中、「私」は謎めいた夜宴への誘いを受ける。館シリーズ第7弾、開幕。

「重要なのは筋書きではない、枠組みなのだ。」 その建てつけと共に始まった本シリーズは、その枠組みを「館」と定め、それが「人形」の拡大であると読み解き、そして内に収めるものを”悪夢”であると結論づけました。それらは、いずれも枠組み自体に焦点を合わせて詰められたもので、推理小説という型式に従属する言語化でした。しかし、本作をもって、ついに小説はその内側へ、すなわち”悪夢”の中へと足を踏み入れてゆきます。既作中では、枠組みの内に描かれる「絵画」を題材にとる『水車館の殺人』が最も近く、事実、藤沼一成の幻想画は、本作で重要な役割を果たします。しかし、本作のチャレンジは、俯瞰カメラによって常に額縁枠組みが映り続けたそれとは一線を画すものです。主観カメラに憑依し、完全に内側に入り切った”視点”は、外と繋がる命綱を手放している。四方と天地を遮蔽物で囲われた空間は当然真っ暗で、内側から外壁を視認することはできません。枠組みの内側に入った時、枠組みは消失するのです。内外を隔てる境界線は、無辺に広がる暗黒となり……かくして、本シリーズは、かつて自らを従属させた推理小説すらをも呑む、より巨きな枠組みと成りました。最早、謎と推理はその内に収められた無数の要素の1つに過ぎません。とりあえずは、文庫600頁に渡る玄関アプローチをゆっくりと渡るところから。怪奇、幻想、淫猥、背徳、畸形……何もかも全てが含まれた全身全霊の小説が、その先で扉を開けて待っています。


暗黒館の殺人(二)/綾辻行人

〈ダリアの宴〉から一夜明け、影見湖は赤黒に染まった。その〈兆し〉に導かれるように、事態は狂い始める。正体不明の転落者。不慮の事故で倒れた使用人。吹き荒れる嵐はついに館を密室に変え、1つ目の殺人を引き起こす。事件の捜査に乗り出した「私」は、必然、浦登家の秘密に行き当たる。

 館に備わる絡繰り仕掛けは、殺人という目的、あるいはそれに対する推理というアクションの下で、初めて意味を持つ。ジュリアン・ニコロディ流の造作が、渡り0部・景10部に見えるのは、観測者がそれを住居とみなしているからです。隠された渡りを認識するには、それが「館」であることを理解していなければなりません。その理解を進める指向……「無意味な殺人、というふうに見える。そう見えるものにもしかし、どこかに『意味』はあるんじゃないか」……作中で「無意味の意味」と名付けられたその命題は、推理小説に倣うならばホワイダニットと呼ぶことができるでしょう。しかし、探偵的手法によってそれに臨むことは、”悪夢”の論理をより深く理解しようとすることに他ならず、推理者を本来とは真逆の方向に向かわせます。なぜならば、”悪夢”の論理とは、ヒトの形の内に閉じ込められた「ただ1人の物語に基づく、ただ1人の論理」だからです。囲う形がヒトを逸脱するほどに拡大され、「館」となった時、それは本来「ただ1人」しか入れない内側に、他者を招き入れる力を獲得します。”悪夢”の内に招かれた他者は、”悪夢”に憑かれ、”悪夢”の論理を理解し……そして、外へと引き返せなくなる。推理小説という型式すらをも罠に変え、より暗く、より内に、深く深くヒトを誘う暗黒の館。外壁が闇に溶け切り、自分が内側に居ることを忘れた時、我々は「無意味の意味」を知り、浦登家の一員となるのかもしれません。


暗黒館の殺人(三)/綾辻行人

 閉ざされた暗黒館での惨劇は以前終わらず、18年前に起きたもう1つの事件の記録すらをも蘇らせる。殺された初代当主。自殺した二代目。目撃者の眼前で消え失せた怪人。全ての背後に立つのは、時空を跨ぎ館に取り憑く魔女ダリア。彼女の自室がついに開かれ、〈惑いの檻〉に気配が満ちる。

 枠組みの内側に入った時、枠組みは消失する。”悪夢”とは枠組みの内側そのものであるため、枠組みが無くなると外側の現実と衝突し、儚くも霧散することでしょう。そこにあるのは、他者を内に招く「館」の構造自体が、その内側を否定するというジレンマです。それを解決すべく、”悪夢”に憑かれた住人たちが新たに作る枠組みがある……というのが第3巻の主題でしょうか。”悪夢”を存続を求める住人たちの意思に基づいて、齟齬・瑕疵・矛盾・不都合……あらゆる〈惑い〉を封じるために建てられる、「館」とはまた別の建築物。それは他者を招き入れることはなく、外に出ることも許さない。「閉じ込める」という悪意が、機能として形をとったその枠組みは、「人形」でも「館」でもなく、まさに「檻」と呼ぶべきものでしょう。それが破られ、閉じ込められた何かが外に逃げ出した時に起きるのは、”悪夢”の破綻に他ならないわけですが……それはあくまで、推理小説に依った賢しらな俯瞰に過ぎません。本作において、虜囚の解放は現実側の破綻を呼び起こすものとして語られます。虚構と現実が衝突した時、不都合が生じ、破綻するのは現実の方である。なぜなら、真実はあくまで「館」の内に在る……。”悪夢”の内に入り切った本作に正気という逃げ場は最早なく、その狂人の弁に反論する術は失われている。読み手の基底すらも揺るがす、その危い妖しさには、綾辻行人という作家の核心があるように思います。


暗黒館の殺人(四)/綾辻行人

「無意味の意味」は見出され、ついに事件は暴かれた。18年前の真相と現在の真相。各々の犯人とその動機。全てが詳らかになり、館には火の手がまわり……しかし、依然、暗黒館には未だ隠し持つ”悪夢”があった。かくして物語の全ては探偵と語り手の元に返される。館シリーズ第7弾、閉幕カーテンフォール

 物語の主導は、ようやく探偵と語り手の元に返却され、ついに”視点”は事件を俯瞰する。推理小説という型式に再び当てはめられ、暴かれた「トリック」が語るものは、「繰り返された枠組みは、型式となる」というごく当たり前の……しかし、シリーズをこれだけ書き重ねたからこそ、到達しえるものでした。飽きなく繰り返され続けた殺人が、推理小説という型式になったように、建築家・中村青司の建築も、ひとつのジャンルとして成熟したのです。創ること、繰り返すこと。そして、その果てにあるもの。これは「今、ここで、自分が書かねばならぬ」という創作の輝きを、熟練させ、解体し、理解し、ルーチン化し、再現可能な型式として完成させた後で、再度そのスタート地点に辿り着くまで書きぬいた、全身全霊の小説であると私は思っています。既知・習熟という不可逆な変化の元で、再び「はじまり」に到達することは、未踏の1歩を踏み出すよりも大きな意味があるはずだと、無意味への祈りを捧げます。「館」はヒトを招き入れ、”悪夢”を広めてゆく。膾炙と共に、”視点”は増え、不都合は増大し、〈惑いの檻〉から漏れ聞こえる気配は増える。現実と虚構、双方の破綻のリスクを抱えつつ、それでも、それは書かれ、読まれなければならない。『暗黒館の殺人』は在らねばならない。「無意味の意味」は、今、ここに。この小説は、この小説自身の存在証明であり、確かにそれを小説自身の手で成し遂げているのです。


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