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【忍殺再読】「ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム」感想

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ニンジャの形、忍者の影

 ニンジャスレイヤーAOM:シーズン4の第1話。敵地で戦うのではなく、ホームグラウンドの防衛線。イクサの盤となるのが、土地ではなくゲーム。立ち向かう相手が、組織ではなく儀式とルール。敵グループがごく少人数相手のボスラッシュ。……「カリュドーンの獣」編と題されたこのシーズンは、とにかくすべてが新鮮で、今読み返しても「これまでとは違う新しい忍殺が始まる」という予感にワクワクさせられます。トリロジーでフジキドの物語に区切りがつき、4部から新しいニンジャスレイヤーの活躍が始まったように、『ニンジャスレイヤー』という小説において「4」は、新しいリフレインの始まりを意味するのかもしれません。

 一方で、刺客たちが名乗りをあげ、主人公に戦いを挑んでくるという展開は、むしろ古めかしい王道であり、私にとって『伊賀の影丸』を想起させられるものでした。また、ネオサイタマという土地をフーリンカザンし、巧みに自分の利に結びつけてゆく代理戦士たちは、カラテ強者という点で紛れもなくニンジャでありながら、ジツ巧者という点で間違いなく「忍者」でもありました。自領に潜み、風土を利用し、悪しき任務を遂行せんとする忍びを討つ。言い換えるならば、AOMシーズン4とは、『ニンジャスレイヤー』においては新しく、「忍者殺し」においては原点回帰のシーズンであり……ゆえに、連載が10年を超え、ついに『ニンジャスレイヤー』で「忍者もの」が始まったという高揚と感慨を私は強く感じるわけで……。

 マスラダはニンジャを追い、都市の闇へ分け入ってゆく。タキとのIRCが乱れ、ネオン看板が明滅する。影がマスラダの後に続く。ネオンが火花を散らすたび、続く影の数は増えてゆく。ひとり。ふたり。三人。マスラダは歩みを止めぬまま、追ってくる者達に注意を振り分けた。頭上のビルを影が横切った。

 今や追跡者は七人に増えていた。追跡……否、包囲である。マスラダは顔に手を当て、離した。ニンジャスレイヤーの顔には「忍」「殺」のメンポが装着されていた。前、後ろ、上。彼は足を止めた。そして、取り囲む正体不明の敵に向かって、アイサツした。「……ドーモ。ニンジャスレイヤーです」

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#1より

 嗚呼! ニンジャスレイヤーの前に「七つの影法師」が立ち塞がるこの開幕のすばらしさよ。「見たこともない何かが始まる」予感と「私の大好きなあれが始まる」という期待が、ぎっちぎちに詰まっていて、何度読んでも興奮で手足をじたばたしてしまう。たまらない。血が滾る。

ガラクタの都市、瓦礫の集積

 イクサの主戦場がゲームになり、それに伴って土地の描写が薄くなったかといえば、決してそうではありません。ゲームを構成する重要な要素のひとつとして、さらにはシーズン3で定義された主人公マスラダのこれからの目的として、ネオサイタマという「ステージ」はむしろこれまでよりも濃く、深く、このシーズンの中で描き尽くされてゆくことになります。そして、その方針が最も強烈に……偏執的とすら感じるほどのコストをかけて打ち出されたのが、この第1話だったと思います。

『安い。安い。実際安い』『凄いローンだ! 今すぐ借金!』『愛、それは我が社です』けたたましい広告音声は闇の後ろに遠ざかる。マスラダは雑居ビルの谷間へ分け入っていった。空は狭く切り取られ、古樹めいて張り巡らされた配管パイプが水蒸気を噴き上げる。闇を照らすのは大小のネオン看板だ。

『電話王子様』『スピーカモゲル』『だんご』『裕司と典子』『絶対はい』。様々なフォントとネオンの色彩、ステーキ皿を差し出す牛などが賑やかな看板群が、バチバチと音を立てて漏電するたび、路地は闇と薄明かりを行き来する。裏通りにも市民の姿は多い。表通りよりも胡乱で、敵意ある者達。

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#1より

 ネオン広告の漏電から、配管が噴く蒸気の湿りまで。緻密に描かれる都市の様相は、それだけで息苦しくなるほどの熱と重みを備えています。原作者の筆が明らかに乗っており、まるでシーズン2、シーズン3という「外回り」の鬱憤を晴らすかのように、ネオサイタマという曼荼羅が本エピソードでは細かく書き込まれてゆきます。ただし、その描画は非常に偏ったものに感じられます。ネオン広告の漏電から、配管が噴く蒸気の湿りまで……近接し具体に寄ったカメラが写す事物に都市の全景はなく、ただそこに転がる物体だけがある。エピソード全体を覆うフィルターが、そう偏っているように見せています。

 そこに暮らす人々の営みとそれが織りなす風土、ネオサイタマ・プライドに焦点が当たることなく、あくまでオブジェクトの集積として、プログラムされたリアクションの塊としてミクロから都市を描く……小説として街を語るのではなく、ゲームのステージを組み立てるように、このエピソードでは「ネオサイタマ」が作られています。そこで確かに生きている市民たちは、雑踏というBGMでしかなく、人間の形をした物体でしかない。交流も、営為も、文明も、全ては拡大してしまえばただのシェイプの山積みでしかない。しかし、その緻密な描画は、諦念や虚無ではなく、紛れもない愛によってなされているのです。確かな熱量を備えた上で、瓦礫の山としてネオサイタマという都市を解釈し、好いている視点がここにあるのです。


 「俺の力は、何処にでもある!」コンヴァージが瓦礫を収束させ、勝ち誇った。「ネオサイタマ! 最高の街だ!」

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#4より


 それはマスラダ・カイとは決定的に異なる、ネオサイタマ観です。異邦人であり、異分子であり、何より人智を越えた邪悪な視点です。そのおそろしい価値観が収束(converge)し、たったひとりのニンジャの形を作ってる。このエピソードは、ひとつの視点から「ネオサイタマ」を描き尽くすことで、そのニンジャのカラテとジツを描き切るものとなっています。

インガの収束、イクサの果て

 コンヴァージというニンジャについては、初登場の「プレリュード・オブ・カリュドーン」の時点で、ぐっとくるものがありました。企業軍の兵器を相手取り、正面から打ち勝てるカラテの強さには心躍りましたし、何よりサイバーパンクの世界の中に、根っこから法則が異なる「別の何か」が割り込んでくるというシチュエーションに強く惹かれました。そしてやはり、ジツがいい。ガラクタの集積……あまりにもかっこいい。

 戦闘課長サトマは紫ネオンライトに包まれた狭い課長車両内でモニタに転送されてきた粗いリアルタイム分析映像に眉根を寄せた。確かにそれはニンジャのようだった。メンポを装着し、砂漠傭兵じみた襤褸をニンジャ装束の上から身にまとっているが……その襤褸の下、尻尾じみたなにかを地面に引きずっているのがわかった。身長よりも長く大きい尻尾……否……それは尻尾ではない。無機物……有機物……ガラクタの集積……?

「プレリュード・オブ・カリュドーン」#コンヴァージ より

 おお、小学5年生の魂が沸く。アカラ・ムカデ・ジツのよさについては、とてもこの場で語りきれるものではないので、この記事ではひとつに絞るのですが……「邪悪なニンジャ」概念がそのまま形になったようなコンセプトがやはりいい。「道具」や「技術」に込められた意味や意志の一切を無視して、それをただの同質量の瓦礫に貶め、私する。アカラ・ムカデ・ジツの能力は他者に対する絶望的なまでのリスペクトのなさと、積極的に害を与える底抜けの悪意の現れであり、モータルの文明を踏みにじるリアルニンジャの所業そのものです。ヒトとモノから言葉をはぎ取る邪悪なカラテ性……簒奪と悪意がそのまま、ジツになっている。雨だれが岩の形を作るように、永い永い暴力と殺戮の歴史が、在るだけで邪悪であることをわからせる「ニンジャの形」を作っている。これがDKEのニンジャのジツ、これが神話に生きる「悪」のスケールなのかと、当時の私は戦慄したものでした。

 しかし、本編が始まり、明かされたコンヴァージのプロフィールは予想外のものでした。「元リロン・ケミカル社の企業戦士ニンジャ」……お前、ただのスカウトされた現代人なのかよ! 

 まわりくどい真似を。コンヴァージはボキボキと首を鳴らした。ムカデの他のリアルニンジャも皆、古錆びて、儀式だの魔術だの、カンにさわる連中だ。

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#3より

 文明とは、なんと脆いものだろう。卑しきモータルの次元を超え、神話真実を知る彼は、ただ無知なる者を捕食し蹂躙する存在だ。ムカデのように

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#3より

 コンヴァージは周囲を見下げるニンジャです。リアルニンジャたちに対しては現代人の視点からマウントをとり、現代人に対してはリアルニンジャの視点からマウントをとる。その癖、自分はリアルニンジャの駒だったり、元企業勤めのサラリマンであったりするのです。コウモリめいた立場を都合よく利用し、常に自分を上におく。7対1で奇襲をかけて袋叩きにしておきながら、ニンジャスレイヤーのことを弱敵と嘲笑する。自分のことは棚に上げ、よく知らないくせに、他人をなめている。

 ネオサイタマ企業軍に喧嘩を売りまくっているという背景情報もあり、連載時、私は「こいつは、わからされる」と思いました。弱敵呼ばわりしたニンジャスレイヤーから手痛い反撃を受け、ネオサイタマに喧嘩を売ったことが災いするだろう。『ニンジャスレイヤー』の連載史は長く、ネオサイタマの歴史も長い。ぽっと出のニンジャ1匹が踏みにじれる分厚さではない。「ネオサイタマをなめるなよ」「ニンジャスレイヤーをなめるなよ」……ネオサイタマ・プライドとモータル・フレイムは当然、物語をそう運んでゆくのだと、思いました。忍殺のいつも通りの展開であると。しかし……。


 BOOOM!

 コンヴァージが、不意に、横へ弾かれた。これによってニンジャスレイヤーの回し蹴りは空を切った。ニンジャスレイヤーは黒く燃えながらアスファルトを刳り、振り返った。コンヴァージは横へ仰け反って静止していた。彼は首を巡らせた。彼の顔は剥き出しだ。顔面は焼け焦げ、血が流れている。そして……弾丸を、噛んでいた。

 BOOOOM! 弾丸が再び飛来した。コンヴァージは今度は瓦礫の残りを手の先に移動させて防御した。彼の視線の先、ヘリコプターがホバリングしていた。ヘリにペイントされた社紋はヤルキ重工のもの。都市を破壊する危険存在に対処する治安維持戦力だ。機体から身を乗り出したスナイパーの驚愕が伝わってきた。

 コンヴァージは笑い出した。「最高だ。ネオサイタマ」

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#4より


 その凄まじいまでのカラテの強さ、ジツの強さは、すべての予想をひっくり返すものでした。わからされるどころか、いっそう深くネオサイタマを私し、『ニンジャスレイヤー』という小説のお約束すらも覆し、ニンジャという在り方の神髄を読者に見せつけました。コンヴァージの強さには、連載時、本当に仰天しましたし、今、こうして読み返しても、やはり震えるような感動を覚えます。備えたドラマではなく、ただ「ニンジャが強い」こと、それだけに涙がにじむのです。背景ではなく、物語でもない。ただそう在るカラテとジツの様……今、ここに立つ「ニンジャの形」だけで、コンヴァージは私を深く感動させるのです。

 コンヴァージは対応と判断のニンジャであり、その強みを最大限生かすために環境/状況を自分の望む形に収束させてゆく力を持ったニンジャです。ニンジャスレイヤーの奇襲を迎えうつ。ヌンチャク・オブ・デストラクションの猛攻をさばき切る。瓦礫から切り離された空中戦に追い込まれても即座に活路を見出す。巨大化を奇襲のブラフとして使用し、それが失敗してもなお残骸パーツを自分が有利となるフィールドとして転用する。「危機」や「失敗」という状況すらも、自らを利する意味に書き換え、イクサを押し返す逆転の名手……フーリンカザンの達人。

 また、彼が見せた激闘は、作中においても高水準なものですが(ボロクソ言ってるナラクおじいちゃんは無視するものとする)、『ニンジャスレイヤー』の読者にとってはさらに強い意味を持つものです。なぜならば、彼が対応し己のものとする「状況」とは、すなわち、物語におけるお約束であり、『ニンジャスレイヤー』の定番でもあるからです。鳴り響くナラク・ウィズインが何度打ち切られ、ニンジャ・シャル・ペリッシュが幾度遮られたか。 

 先に引用した「最高だ。ネオサイタマ」の衝撃を、私は未だに忘れることはできません。DKKの精算という「悪因」がもたらす結果すらをも、自分が望む形に収束させる掟破りのフーリンカザン。これは断じてただのラッキーではありません。カラテが世界に打ち込んだ変化が、ジツによって繋がれ、別のカラテへと連鎖してゆき、やがては我が身に返る……インガオホーに則り駆動する『ニンジャスレイヤー』の世界において「全てに意味がある」ことを、かつてフジキド・ケンジの物語は証明しました。その物語を読んでしまった以上、ヘッズである私は、この状況もまた、コンヴァージのジツとカラテが収束させた必然であり、結果であると認めるしかないのです。

 しかし、それは本来、ありえないのです。……悪因に対して時には善果も返りうるフラットな状態を、「モータルの怒り」に則り恣意的に偏らせるニンジャスレイヤーという機構……ランダムで広大で無慈悲な現実から、「ニンジャ殺すべし」に則るインガオホーをあれと紡がれた『ニンジャスレイヤー』という小説……その一貫性の外にある結末。コンヴァージが収束させたこのシーンは、作品の枠組みにひびを入れるおそろしいものであり、「キャラクター」という虚構内の1要素が持ちうるカラテとジツ、その可能性の果てを描くものです。

 コンヴァージは心身を燃やされ、殺されつつあった。ゆえにその炎を内なるものとしていた。燃える鉄線はミミズめいて、ムカデの群れめいてのたうち、瓦礫を跳ね飛ばし、看板を捻じ曲げ、焼き溶かしながら一斉に戻ってきた! コンヴァージ、ニンジャスレイヤーの元へ!「イヤーッ!」

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#6より

 結論として、『ニンジャスレイヤー』という枠組みは崩壊しませんでした。ニンジャの暴虐に対し、ニンジャスレイヤーの殺戮という悪果は返されました。イクサは、最後、瓦礫ネオサイタマとの融合をマスラダがカラテで拒絶するという象徴的な決着を迎えます。しかし、死の間際、コンヴァージはそれすらもフーリンカザンせんとします。小説『ニンジャスレイヤー』として収束し始めた世界を、最後までコンヴァージの名の下にかき集め、簒奪しようとするのです。

 抵抗と共感を磨きぬいた先にあるその邪悪な意志は、既知の光景を打ち破り、新しい世界を切り開くことはなく……しかし、確かにひびを入れ、その予感を吹き込ませました。それは、新しいリフレインの始まりであるシーズン4の第1話に相応しいものであり、AOMという混沌をこの上なく体現するものだと、私は思うのです。

ゲームの檻、ルールの鎖

 一方で、コンヴァージのジツとカラテは、フジキド・ケンジやマスラダ・カイ、あるいはリアルニンジャたちのようなビガー・ケイジス、ロンガー・チェインズを打ち破るもの……世界を変革するものではないと私は思っています。『ニンジャスレイヤー』のお約束を破壊したのは事実。戦闘がカリュドーンの儀式外だったのも事実。しかし、それでも彼のイクサは、そういった小説作品としてのトリミングや、ローカルなゲーム盤上よりも更に普遍的なルール……カラテとジツ、それがもたらすインガオホー……彼が言うところの「世界の無慈悲」に対してどこまでも殉じ、そして、それに対する彼独自の解釈を作品内に持ち込むものだったと思うのです。

「俺とて盤上の存在に過ぎぬ」コンヴァージは答えた。「知るのはただ、主の権勢の為、貴様を殺す……その闘争の形式のみ……他の狩人の委細など……知らぬ」

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#6より

 コンヴァージは周囲を見下げるニンジャです。リアルニンジャたちに対しては現代人の視点からマウントをとり、現代人に対してはリアルニンジャの視点からマウントをとる。その癖、自分はリアルニンジャの駒だったり、元企業勤めのサラリマンであったりします。しかし、見下げる相手に手も足も及ばないことに対し、アイロニーの気配は感じられません。死の間際、ニンジャスレイヤー対して語ったように、「遥かに強大な者達」を知り、「世界の無慈悲」をわかっているにも関わらず、ワイズマンのような絶望や諦念を私はコンヴァージの台詞から感じ取ることができません。

 「ま、それはそうだ……七人がかりでかかられれば、そうもなろう。多少同情してやる」彼はバキバキと首を鳴らした。「だが、これは狩りだ。お前は獣で、我らは狩人。我らと同じ立場を求めるなどと、おこがましい思考は、よしたがいい」

ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#3より

 「狩人」という他人に割り振られた役割に対して、プライドを持つでも、嫌悪を覚えるでもなく、ただそれが当然であると屈託なく確信している純な態度。そして、ゲームの参加者であるニンジャスレイヤーもまた、「獣」という役割に殉じるはずだという身勝手な結論。自らが収まる枠組みの型と、そこに当て嵌められる自分という形への妄信が、コンヴァージというニンジャの根っこであり、それを他者にまで適用させる傲慢こそが、その邪悪の源泉であると私は思います。

 そして、その妄信はおそらく、その型と形の中で遊ぶ楽しさに由来するものでしょう。コンヴァージはイクサの中で、何度も笑います。自分が優勢になった時だけでなく、ニンジャスレイヤーに殴られ、追い込まれ、危機に陥る最中、そう収束した状況そのものを遊び尽くすように笑います。見慣れぬ土地で、見下げる相手の駒となり、倒すべき相手に逆転される。カラテとジツが引き起こす玉突き事故……もたらされるインガオホーの全てに対して、彼は対応と判断を返すことができ、その強さと柔軟性は、おそらくそれら全てを当事者として「楽しめる」、戦士としての……否、「プレイヤー」としての姿勢が生んでいます。

 血と肉が形づくる修羅場を好むがゆえに彼は戦士であり、そしてそれ以上に、周囲に広がるオブジェクトとリアクションを好むがゆえにプレイヤーであるのです。より大きな檻に囚われ、より長い鎖に繋がれて「いるからこそ」、ニンジャはおもしろい。ルールを守るからこそ、イクサはおもしろい。課せられた型の中で、定められた形に収束することを悲観することなく、むしろそれを主体的に望み、好む、精神性……彼独自に解釈に則った世界観。コンヴァージは誰よりも、それを楽しんでいる。「家族と話しているだろうか」……しかし、そんな忠告をコンヴァージは見下げて嘲笑い、コントローラを握り続けるでしょう。かたちの中で遊ぶことが、彼の最大の娯楽であり、ジツとカラテの理想形なのですから。

 かくして、コンヴァージにより、その枠組かたちがこの小説にやってきました……「ゲーム」が、起動されたのです。『ニンジャスレイヤー』すらもニンジャの形に堕しかねない、リアルニンジャの強度を持った「ルール」の下で。

未来へ……

 シーズン4は、ゲームとルールについてのお話でした。その認識をもって本話を読み返すと、ここまでの感想に記した通り、コンヴァージが初戦に相応しい相手であったことに改めて気づかされました。一方で、もうひとり、コンヴァージよりもさらに早く、その視点を物語に持ち込んだ曲者がいることも、最後に触れないわけにはいかないでしょう。

 つまり……チームワークだ。全力でやれない分、皆の協力、パーティープレイで補うのだ。最初で最後の共同作業か。なんともいえない感覚をサロウはおぼえた。

 自分はこのパーティーでは後方支援タイプだ。前衛の奴がカラテでニンジャスレイヤーをそこそこなぶって、反撃しようとしたところに、自分のユメミル・ジツで攻撃をかける。凹凸を補い合った、なかなかバランスの取れた布陣だ。その筈なのに、アヴァリスとマークスリーときたら、何たる非協力。

【ザ・シェイプ・オブ・ニンジャ・トゥ・カム】#2より

 ニンジャスレイヤーに印を刻む最初のイクサは、サロウの現実とゲームを取り違えた視点によって描写されました。当時の私はこれを読んで、サロウのあまりのダメさに笑っていたのですが……今思い返すと、むしろサロウこそが、ストラグル・オブ・カリュドーンに対して、最も芯を噛んだ理解をしていたことがわかります。サロウが現実とゲームを取り違えていたのではなく、私の方がゲームと現実を取り違えていたのです。

 ベルゼブブがゲームのボスに近しい立場であり、マークスリーがオリジナルルールを持ち込んで友達とゲームで遊ぶ小学生だったことを思うと、コンヴァージに続く真っ当なプレイヤーはサロウです。そして、彼もまた、コンヴァージ以上に、『ニンジャスレイヤー』のお約束を破壊する凄まじいイクサを繰り広げることになります。代理戦士に選ばれること……『ストラグル・オブ・カリュドーン』のプレイヤーであることは、『ニンジャスレイヤー』を打破しうる可能性を持つニンジャであることの証明なのかもしれません。


◆2023年9月3日、note版、twitter版で再読

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