見出し画像

NECRO4:地獄くんだり(2)

【ネクロ13:あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。

【ネクロ13:登場人物紹介】
ネクロ:死なずのネクロ。自分勝手な乱暴者。
タキビ:サザンカの妹。口が悪く気が強い。
ネアバス:臓腐市役所暗黒管理社会実現部犯罪鏖殺第3課課長。メガネ。
ハヤシ:ネクロの恋人。理屈っぽい。
ミィ:ネクロの恋人。物静か。
アイサ:ネクロの恋人。幼稚。
ジル:ネクロの恋人。興味しんしん。
その他のネクロの恋人たち:サザンカ、グンジなど。

(1)より

■■■

 タキビがネクロを嫌うのに、特に明確な理由はない。性格、所作、思想、言葉、行動……彼を構成する個々の要素の全てが癇に障り、それらが重なり合った結果生まれる「ネクロ」という総体がささくれのように嫌悪を刺激する。理不尽であることは当然、自覚しているが、理不尽であることへの罪悪感は、その気に食わなさがおおよそ打ち消してしまうし、そもそも他者への配慮とやらについては思い浮かべることはあってもすぐに面倒になって投げ捨ててしまうのがタキビだった。

 共感性が低いのではなく、共感することへの興味が薄い。適当に自己分析を弄びながら、タキビはソファの上で大きくあくびをし、反り返った。頭の位置が変わったことで、壁際に山と積まれたラジオから漏れるさざなみのような音がかすかにたわむ。退屈だ。目の前では、変わり映えのしない連中が変わり映えのしない話題で盛り上がっている。涙で滲む視界の中で、各々の行動が溶ける。

 どこからか引っ張り出してきたホワイトボードの前で、プラクタが捜索結果を報告している。それを聞きながら、グンジはしかめっ面を浮かべてペンを噛み、ラジオ越しにタキビの姉・サザンカと言葉を交わしている。ヒパティは悲し気に大きすぎる体を震わせ、カットは爪でできた全身を組み換えて伸びたり縮んだりしている。ネクロが行方不明になって随分時間が経ったが、彼女たちが捜索を諦める気配はない。

「あ~……つまり、プラクタ、バスで見つけたハヤシの副次体は殺してしまったんですね」

 ペンでこめかみを叩き、どろりと濁った眼をしょぼつかせながら、グンジがプラクタに尋ねた。

『そうだ。どういった経緯で生者がこの街に迷い込んだのかと思ったら、そういう理屈だったのか。ははは、本物の正体が養殖品だったとはとんだ皮肉だ。いや、紛い物である我々の紛い物なんだから、ひっくり返って本物で当然か。室長、どう思う』

「元上司として何かコメントしてあげたいところですが、特にどうも思いません。それより、これでネクロを追う手立てが完全に失われたのが問題です。強いて挙げるなら、副次体の再発生を待って捕獲するくらいですかね」

『だが、彼女は何も知らなそうだったぞ。〈夢の中のハヤシ〉との繋がりを自覚している様子も全く見られなかった』

「それは当然で、そもそも繋がりがないからです。肉体と魂がハヤシの存在が原因で発生したというだけであって、言ってみれば全く別個の存在ですからね」

『だったら、捕まえたところで手がかりにはならないだろう』

 それはそうなんですが、とグンジは頷き、またぺらぺらとよくわからないことを話し始めた。小難しい単語を並べたてて無意味に時間を浪費するのは彼女の悪い癖だとタキビは思う。彼女がこのモードに入った時、タキビはその丸メガネに意識の焦点をあわせることにしている。トークの盛り上がりに呼応して、メガネの上下運動が激しくなり、くるくる反射光をふりまいてゆく様子はどこかユーモラスでおもしろい。

 しかし、どうしてあんな男にみんなが夢中になるのかわからない。グンジやプラクタはまだわかる。理由があるからだ。不死者でありながら誰よりも死を恐れているグンジは〈死なずのネクロ〉から「死なない」ノウハウを学ぼうとしているのだろうし、プラクタはネクロの恋愛哲学に(タキビからすれば、正気を疑うとしか言いようがないが)感銘を受けている。だが、ヒパティは。ましてや自分の姉、サザンカは。

 タキビは、先日姉とした大喧嘩を思い出す。「あんな男のどこがいいの?」 姉のそれに対する回答は、「あんな男のどこがよくないの?」というものだった。タキビはその度にムキになって自分勝手だ独善的だ暴力野郎だと思いつく限りの悪罵を並べ立てるのだが、姉は「全くもってその通りね、私もそう思う」と、タキビの悪口を全て肯定し、笑って話を終わらせてしまった。自分も理由なく嫌っているのだから、理由なく好くことにいちゃもんをつける道理は確かにない。だけど、気持ちが納得できない。自分の中では「ネクロは嫌い」が絶対に正しいのだから仕方ない。

「ねえ、カットもそう思うよね」

 「……!」

 突然話しかけられたカットは、驚いたように細く伸びた。全身が爪でできている彼女に声を発する術はなく、やりとりは爪をこすりあわせる音を通じてしかできない。こちらの喋っていることが理解できているかも正直微妙だ。だが、タキビは彼女のことが好きだった。言葉を交わせないとは言え、その仕草の節々から自我の善良さは読み取ることができたし、何より、自分と同じ年齢が1,000歳以下の「若者」は、この街ではめったに出会うことができない。

「……!!……!?………?」

「なんでもないなんでもない。ただの独り言。呼んでみただけ」

「………!」

「タキビさん、カットをあまりいじめないでやってください」

 グンジの声に振り向くと、室内の全員がこちらを見ていた。妙に期待のこもった視線に、タキビはどきりとしてしまう。

「……なんですか、みんなして」

「実は1つ、タキビさんにお願いがあります。何度も言っている通り、ネクロさんの肉体と魂は現在、アイサさんに乗っ取られた状態で痔獄にあります。私たちとしては、アイサさんが本格的に起き上がり手がつけられなく前に確保しておきたい。そこで、痔獄じごく町に入っても肉体が分解されることのないタキビさんに、ネクロさんの捜索と回収を……」

「嫌です」

 タキビは反射的に答えた。

「ミィさんを中心とした物理実体の分解は、細菌を足掛かりとした力です。タキビさんの肉体も蝕まれはするでしょうが、我々とは違ってその影響は明らかに小さいはず。サザンカさんからサンプルをもらって試算もしてみましたが、あなたの回復・蘇生が細菌の分解を上回ることはほぼ間違いありません。また、アイサさんも未だ抵抗のできるような状態ではないかと」

「そういう話をしてるんじゃありません!」

 声を張り上げたタキビに対し、グンジは怪訝なまなざしを返した。それが一層、タキビの感情を逆なでする。

「グンジさん、あなただって知ってるじゃないですか。私はあの男が嫌いなんです。できればこのまま帰ってきて欲しくないと思ってるんです」

「はあ。それが?」

「それがって……だから、私はあいつを助けたくないんだって」

『それは理由にならないな』

 プラクタのしゃがれ声が割って入った。

『それはタキビの感情的な問題であって、別に重要ではない。ネクロという貴重な存在に比べれば、好きだの嫌いだの……はは、些末な問題だ』

「それはプラクタさんの価値観でしょう!私を巻き込まないで!」

 2人の身勝手な言い分に、タキビは本気で腹をたてていた。しかし、グンジたちもまた、タキビの反応に対して本気で困惑していることに気がつき、その怒りは水をかけられたように消え失せた。2人は理解できない異物を見る目でこちらを見ていた。理由もわからず壊れた機械を前に、どうすれば正常になるだろうと思案していた。

「……タキビさん」

「うるさい!」

 タキビは、部屋を飛び出し、マンションの階段を駆け下りた。通りの駅に停車している市バスに行き先も確かめないまま飛び込んだ。「共感することへの興味が薄い」。同居生活を通じて薄々気づいてはいたが、グンジとプラクタはそれどころではなかった。語彙を他者と擦り合わせる気の全くない、閉じた系。永遠の生というものはあれ程までに人間を極端にしてしまうものなのだろうか。自分も、あと1,000年、10,000年と生きる中で、雨垂れに打たれ続けた石のように、ああいう形に完成してしまうのだろうか。

 もしかして、間違っているのは自分の方かもしれないとタキビは不安になった。タキビは、自分が特殊な不死者であることを理解していた。年若さが原因の未熟さがグンジたちに迷惑をかけたのかもしれない。不死者とは、本来、ああいう存在なのであって、それを受け入れない自分に問題があるのかも。だが、自分がネクロが嫌いなのも、間違いのない真実だ……。

 大きく息を吐いて、タキビは市バスの座席に腰を下ろした。しばらくあの家には帰る気がしない。市バスが扉を閉め、動き始める。すると窓の1枚が切り開かれ、束ねた爪の塊が車内に滑り込んできた。

「……!!」

 グンジの命令で、自分を捕まえるために追ってきたのかとタキビは一瞬警戒しかけたが、すぐにその認識を改めた。カットはタキビを前にして、困ったように全身の爪をよじり、擦り合わせた。自分の主人たちと喧嘩をした友人のことを気にして、何も考えないままに飛び出してしまったということが、その仕草からはありありと見て取れた。

 ふ、とタキビは笑う。

「ごめんねカット。そうだよね」

「……?……!……!!!」

 永い生はどうしても自我を強く固めてしまってゆくものだけれど、それが閉じる方向になるとも限らない。彼女たちはやはり特殊なのだとタキビは結論づける。特殊すぎて、法なきこの街ですら犯罪者になってしまうほどには。あの2人とはしばらく口をききたくたくはなかったが、少なくともヒパティには後で謝ろうとタキビは思った。

「……!……!!」

「心配してくれてるの? お金は持って出なかったけど、ダイゴウさんの事務所にでも泊めてもらうから大丈夫だよ」

「…………!?………!…!」

「カットも一緒に行く?」

「……!」

 相変わらず何を言っているのかはわからないが、どうやら肯定したらしい。タキビが平常心を取り戻しているのを見て安心したのか、カットは横の座席の上に、器用に体を丸めておさまった。

 市バスは丁度、臓腐ぞうふ区の中心部に向かう便であり、乗り換えの必要はなかった。タキビは窓の桟に肘をつき、ネクロによって瓦礫の山となった街並みを眺めた。怪獣の吐瀉物をぶちまけたような破壊の跡を、市役所の職員たちが忙しそうに歩き回っている。彼らは市内があらかた更地になったこの状況をチャンスと見て、多くの建物を職員を原料としたものに建て替えようとしているらしい。屍材で出来た建材が神経や血管を伸ばして建物を生やしてゆく様は、グロテスクではあるが妙なかわいらしさもあって、市民たちもバラックやテントからその様子を興味深げに見上げている。

 瓦礫を絡めとり有機的に立ち上がってゆく復興の流れは、車窓越しになだらかな曲線を作っていたが、ある地点から先でぱったりと途絶えていた。景観を意識せずに建てられた巨大な金属壁が無遠慮に視界に割り込んでくる。そういえば、とタキビは思い出し、少々罰の悪い気持ちになる。それに追い打ちをかけるように、「次は、痔獄前」とバスが車内にアナウンスを流した。壁は死滅細菌が町の外に漏れだすのを防ぐための防御壁であり、ミィがネクロから解き放たれた後、市役所が元々ミィがいた町から移設したものだ。

 降車ボタンを押す乗客はなく、市バスは痔獄前の駅を通りすぎた。防御壁の周囲に突貫で敷かれた道路は整備が甘く、車体を大きくがたつかせる。「揺れがひどいね」とカットに話しかけようとした時、タキビは、じゅ、と肉が焼ける音を聞いた。目の前が一瞬真っ白になり、まぶたを閉じ、開く。

「え」

 そこにカットはいなかった。それどころか、タキビの座席よりも左側の車体が全てえぐり消えていた。薄い断面図となった市バスはバランスを失って転倒し、タキビを宙に投げ出した。タキビはわけがわからないままに、地面に激突し、皮膚と肉をアスファルトで削りながら肺の中の息を全て吐き出した。引きはがすように顔を上げ、折れた骨を回復しながら立ち上がると、衣服が全てボロクズのように崩れ落ち、灰になって地面に積もった。急に裸になってしまいタキビは慌てたが、理由はすぐにわかった。死滅細菌だ。

 痔獄内外を分断するはずの防御壁に大穴が開いていた。穴の縁は高熱によって焦げており、まん丸のその輪郭はそのまままっすぐ街に向けて直線を引いている。タキビが乗っていたバスは、その何者かが放った熱線の軌道上にあり、運悪く被害を被ったのだ。開いた穴からは死滅細菌が噴き出しているようで、立ち上がりかけていた街並みと、そこに居合わせた市民たちが瓦礫よりもさらに細かいぐずぐずの灰に分解されてゆく。

 阿鼻叫喚の騒動の中で、タキビの肉体だけが無事だった。全身の皮膚を針で刺されているような刺激は感じるが、それでも他の市民たちのような有様にはならない。グンジさんの試算は間違っていなかったのか、とタキビはどうでもいいことに感心し、それどころじゃないと慌てて走り出す。カットの残骸だけを拾い集めてここを離れよう……しかし、それは叶わなかった。鞭状の金属がタキビの右足首に巻きつき、逆向きの棘をくるぶしに食い込ませていた。

「な……」

 状況を理解するよりも前に、タキビは強烈な力で足を引き上げられ宙づりになった。天地が逆さになった視界の中で、頭上に金属鞭の主が見える。それはプラモデルを中途半端に溶かして練り混ぜ固めたようなスクラップの塊だった。ウニのように無数に突き出た凹凸の内、1つだけが放熱によって空気を揺らめかせている。熱線の発射口だと、タキビはすぐに理解した。

 スクラップはタキビを空中で興味深げに表返し裏返しすると、本体部から棘を伸ばし、その胴を串刺しにした。タキビがそれに対して抵抗するよりも早く、胴の断面と棘との接地部から「枝」が伸び、タキビの体内の肉と骨をずたずたに引き裂いた。タキビは不死者であり、苦痛はない。ただ、コミュニケーションのとれない巨人に、一方的に玩具にされているようなその体験は、とてつもない不快感を伴った。

 体内を突き破りながら、枝はタキビの四肢の末端まで伸び、その肉体を魚のひらきのように宙でつっぱらせた。全裸で血反吐と内容物をまき散らし、みじめったらしく大の字になっている自分をタキビは想像し、死にたくなる。するとそのネガティブな感情に呼応するように、体の内側で棘と枝が振動し、声らしきものをタキビの体内で響かせた。

『あ~、なんで、あの根暗女のバイキンに食われないのかとおもったら、なるほど、からだが特殊な樹脂かなんかでできてるんだ。にしても、珍しい。東妃髄ひがしひずいのガラクタどもですらこの改造率はないだろ。ていうか、むりなんじゃないかなあ。魂がつかねぇだろ、こんなもん』

「が……ぶ……」

 タキビは声を出そうとしたが、喉は液状になった肉と反吐で詰まり、べこべこ鳴るだけだった。こちらの意志を一切くみ取ることなく、体内でぶつぶつと反響する声は、自分がただの物体であることを突きつけてくるようだ。人工的に製造された樹脂製の肉体に偶然発現した新規の魂。自身の特殊な出自について意識はしつつも、コンプレックスは持っていないタキビだったが、一方的に突きつけられるその言葉はヒトとしての尊厳を凌辱されているようで、恐ろしく気分が悪かった。

『……おもいだした。サザンカの妹だ』

 スクラップはそう言うと、脈絡なくタキビを地面に叩きつけた。衝撃で体の前面が平たくなったのがわかった。それで終わりではない。再度空中に振り上げられ、叩きつけられる。もう1度。

『できそこないの人形で家族ごっこしてるのはきいてたけど、ほんものをみるとますますクソで最悪だな。こんなものを妹あつかいしてよろこんでるなんて、ほんとうに救いようがない女だ』

 もう1度。もう1度。タキビは何度も執拗に地面に叩きつけられた。潰れた眼球が零れ、歯が抜け落ちる。明滅する意識の中で、次第に「これ」が何なのか答えが出始める。自分と同じく死滅細菌の影響下にいて分解されない存在。つまりは、一般的な生物の組成と大きく異なる肉体を所有している者。その中で、これだけの悪意と暴力性を備える者。その条件に該当するのは、この臓腐市の中でおそらくただ1人しかいない。

「……いや……だ」

 それは果たして声に出たのか、心中の気持ちだったのか。タキビが漏らした嗚咽を聞き、スクラップは初めて暴力の手を緩めた。『へぇ』と感心したような声色で、初めて自分が掴んでいるものが意思のある生物だということに気づいたように話しかけてくる。

『妹、なかなか上等な神経してんじゃん。なぶろうが痛めつけようがへらへら笑ってるだけのゴミばっかりが増えて、私もいやになってたんだ』

 暴力の応酬こそがこの世の価値であるのだと。全ては不快と苦痛の倍倍ゲームであるべきだと。スクラップは……〈皆殺しのアイサ〉は、そう言って嘲笑い、既に原型をとどめていないタキビの体を引き寄せた。

『おまえ、ネクロが嫌いなんだって? ちょうどいい。今の私の魂と肉体はネクロのものだ。この体で、おまえをむちゃくちゃにしたら、おまえはどんな気分になるだろうな?』

 からだの穴の全てから体内に大量の金属を押し込まれたタキビは、がくがくと痙攣しつつ、2つのことを考える。樹脂製肉体は死滅細菌に耐えうるという目算が正しかった一方で、〈皆殺しのアイサ〉の回復・蘇生の早さについて、グンジは見誤っていたということ。そして、忌々しいことに、彼女とプラクタが望んだ通り、自分がネクロの第1発見者になってしまったということを。

■■■

「ミィ、どうやらアイサがまた悪さをしてるみたいだよ」

 電波塔での解放後、ミィが落下した地点の近郊は、動くものはおろか、形あるものすら残っていなかった。細菌による分解という物理的な現象を足掛かりにしているとはいえ、彼女の力の本質はあくまでその特異な不在性によるものであり、タキビの肉体を構成する特殊な樹脂であろうとも、町を取り囲む防御壁であろうとも、長時間接し続けたならば、最終的には同質量の灰に変換されてしまう。

「気の毒な誰かをギブス代わりにして、ここまでやってこようとしてるみたい。誰だろう。ミィの力の下で自由に動けるボディの持ち主、思いつく限りなら、アイサ本人を除いて3人かな」

 しかし、電波塔での事件からの経過時間を考えると、「形あるものすら残っていない」という状況は不自然だった。そもそも、そこには変換されたはずの灰すらもなかった。彼女の力の本質はあくまでその特異な不在性によるものであるとはいえ、細菌による分解という物理的な現象を足掛かりにしている以上、当然、制約は存在していた。たとえば、形あるものを灰に変えることはできても、完全に消滅させることはできなかったし、無機物や特殊な樹脂を分解するには相応の時間が必要だった。

「ゲレンデでしょ、私でしょ、あとは、サザンカの妹の、えっと、タキビちゃん」

 勿論、何もかもが雑で適当でいい加減なこの街で、保存則を語ることほどナンセンスなことはない。不死者たちの肉体は科学的な理屈に対して一切の遠慮を見せることなく、恥知らずにも増え続け、この街の人口密度を上昇させている。そこに守られるべきルールはなかったが……それでも、この街にも、ある程度のバランス感覚は備わっていた。増加し続けるオブジェクトへの抵抗として、物体を消滅させる現象がこの街には発生していた。

「ゲレンデを倒すことなんて、アイサが万全の状態であっても不可能だろうから、タキビちゃんだろうね。気の毒にね」

 その現象は、人の形をとっていた。女性の形をとっていた。極めて小柄な、前世期の尺度で言うところの「子供」の形をとっていた。ピンク主体のフードパーカーと運動靴。ごく当たり前の材質の衣服を、痔獄の中心にいながら糸一本も分解させることのないまま、形あるものとして成り立たせていた。理屈としては単純だった。彼女は周辺の死滅細菌を、全て食らい、消化し、消滅させていた。

「気の毒だけど……ワクワクするね」

 ミィに、つまり、痔獄の中心にある何もない空間に話しかけ続けていた彼女は、そう言うと小さく背伸びをした。彼女は仕事熱心であり、ここ数日はバレエが街中にぶちまけた動物の死骸を平らげるのに忙しくしていた。それがようやく片付き、1番の親友とのおしゃべりに興じようと痔獄に戻ってきたのはつい先ほどのことだ。ネクロの体を乗っ取ったアイサが地面を這いずっているのを見かけたのも、その道中のことだった。

「でね、ミィ、戻ってきてすぐで悪いんだけど、ダメかな?」

 彼女は人間である前に現象だったが、外部から読み取れる性格はとても人間じみていて、見た目相応に子供っぽく、何もかもをおもしろがっていた。興味と好奇心からトラブルに首をつっこみたがり、それが時として不必要な「消滅」を招くこともあった。彼女が原因となって街が壊滅に追い込まれた記録も残っており、それは市民の生活様式を根底から破壊しうるリスクだと、彼女の有用性をよく知る市役所も渋々認めざるをえなかった。

「ごめんね。じゃあ、ちょっと、あいつらにちょっかいかけに行ってくる」

 13人の女の1人。ネクロの恋人、そして犯罪者……強いて分類するならば愉快犯。無限の食欲よりも貪欲な、その好奇心に目を輝かせ、〈底なしのジル〉は、痔獄の底で屈託のない笑顔を見せた。


(3)へ続く