見出し画像

NECRO4:市役所へ行こう!(3)

【あらすじ】
・不死者たちの暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。

【登場人物紹介】
ネクロ:死なずのネクロ。自分勝手な乱暴者。
・プラクタ:鼬のプラクタ。軽口を叩きがち。
・ヒパティ:ぶっとい右腕のヒパティ。気は優しくて力持ち。
・タマムシ:ネクロの恋人。市役所職員。市内災害拡大振興部 部長。
・ウォリア:市役所職員。暗黒管理社会実現部 部長。
・ネアバス:市役所職員。暗黒管理社会実現部 課長。
・ユキミ:無限のユキミ。反抗期。
その他のネクロの恋人たち:ゲレンデ、キイロ、ユビキ、ミィなど。
・その他の市役所職員たち:フラスタ、センシィ、パラニドなど。

【(2)より】

■■■

 喋り方で誤解されがちだが、ヒパティの知能は低くない。少なくともネクロとプラクタよりは。ただ当の本人が能力を低く見積もられることを好んでいるため、その誤解が解けることは少なかった。バカは失望されない。ヒパティは不死者の中では珍しく、生者に近しい共感能力を持ち、自我の多くを共感能力に依っていた。それは臓腐ぞうふ市において極めて稀な純な善性であり、愚鈍と誤解される原因でもあった。

「ダメですねぇ。所詮は起き上がりだ。肉体の質が違いすぎる」

 だが、その職員が下した評価は適切だった。職員……第4課長パラニドは、引きちぎったヒパティの右腕を眺めた後、自分の胴体よりも太いそれを押し潰してジュースに変えた。ヒパティは新たに生やした右腕を振りかぶり、5度目の攻撃を試みる。パラニドはもう躱そうともしなかった。ぺったりと潰れた髪型が、風圧でそよぐ。巨大な拳が胴体部に突きささり、肉と肉が衝突する音が鳴る。

「チカラは強いんですけどねぇ」

 鉄筋すらも捻じ曲げる屍材20体分の巨拳の上で、パラニドは平然と寝そべっていた。ヒパティは瞬時に拳を引き、宙に残された黒スーツへ頭突きを繰り出す。手ごたえはない。スカされた。右肩を掴まれた感触があり、気づけば投げ飛ばされている。自重分の大きな衝撃。おまけのように顔面を蹴り飛ばされる。

 頸椎がまわった。構わず床の上で拳を突き出す。肉を打つ感触はあるが、やはり潰れも折れもしない。ゴムでできた薄いシートを殴ったように、へばりつくだけで手ごたえがない。筋肉の構造が特異だ。格子状の改造筋繊維が人型に成型されており、その中には恐らく内臓も骨もない。力比べではヒパティに多少分があるが、肉質の強靭さと柔軟さの点で全ての有利がひっくり返されている。

「さすがは市役所課長、さすがは特注の体だ。惜しみなく屍材技術がつぎ込まれている。ヒパティは、それがよくわかる」

「光栄です。女米木めめぎの社員に褒められたと聞いたら、屍活部の職員もきっと喜ぶでしょう。……あなたの肉体も決してヤスモノではない」

 身を起こそうとした瞬間、足払いをかけられる。胴体部と比べてアンバランスに小さいヒパティの頭部は、転んでも床に届かない。

「ハイヴ企業墓庫のA級品をさらによりすぐって20体。肉の由来を同じくすることで、レコードとしてもある程度均一で、質の高い統合に成功している。屍材業トップシェアの技術は伊達ではありませんねぇ。ヒパティさん。あなたは、素晴らしい製品です。ですが……」

 パラニドが申し訳なさそうな表情を浮かべ、脚を振り上げる。ふくらはぎの改造筋繊維が膨張し、網目の隙間を広げる。振り下ろされる際、その隙間を通る空気が笛のような音を鳴らす。強烈なストンピングが、ヒパティの分厚すぎる胸板に風穴を開けた。

「ただ、わかるでしょう?回復に優れた起き上がりの肉体に改造の手を入れるのは難しい。我々、黄泉帰りと違ってね」

「わがッでいる」

 肺が潰されたため、うまく声が出ない。ヒパティは筋肉を圧縮しポンプのように空気を送り出すことで無理やり声帯を震わせた。

「ヒバディは鋭い。一目でわがッだ。4人の中ではバラニドが1番だ。だからヒバディが引ぎ受けだンだ」

「1番弱いあなたが? どうして?」

「話がじやすい」

 ふーん? とパラニドは首をかしげ、突き刺さった脚を引き抜いた。ヒパティは潰れた臓器を回復させ、身を起こした。今度は足払いをかけられることはなかった。ヒパティは自分の風貌に何度目かの感謝する。わかりやすい巨体、わかりやすい力自慢。それを下した時、相手には満足感と余裕が生まれる。嫌いな暴力を打ち止め、話し合う余地ができる。

「交渉ですか。あなたの仲間のプラクタさんがさっき盛大にシッパイしてましたけど」

「プラクタはいい奴だ。ただ、自分のことしか考えていないから、話が下手だ。ネクロとネアバスがいたのもまずかった」

 市役所職員を指し、ネクロはいつも口汚く罵る。労働奴隷。部品。歯車。生き腐れ。自我が軟弱な腰抜け。頭の悪い優等生と風紀委員の寄せ集め。ネクロの視点は画一的だ。物事を一方的に決めつけすぎる。それはヒパティにとっての憧れでもあるが、やはり間違ってはいるのだろう。職員にも個性があり、気持ちがある。

 ただし、ネアバスに交渉の余地はない。アレは確かに「そういう職員」だと、ヒパティも思う。打ち解けるにはまだ時間がかかる。このパラニドは、そのネアバスと談笑をしていた。話ができる。だからあの場から引き離したのだ。

「メリットを示してください。タマムシ部長の件だけでは足りません」

 我々は我々の部長であればタマムシ部長を倒すことができると考えていますから、とパラニドは倦厭と崇拝の入り混じった表情で言った。

「グンジ室長が、市役所に協力する」

 タマムシの条件を聞いた時点で、こうなることは予想できていた。通信を入れ、既に許可はもらってある。〈腑分けのグンジ〉。ヒパティの尊敬する上司。そして彼女は、ネクロの恋人の1人でもある。

 女米木生研の中枢に絡むグンジは、自社製品を肉体とする不死者を自由に操ることができた。先のユビキ事件で行った試行によって、それが臓腐ぞうふ市全人口の7割近くに及ぶこともわかっていた。この比率は圧倒的だ。市役所職員数、ペイニズムの信者数、〈全てのサザンカ〉の端末数、それらを差し引いた時のシラギク・グループ関連企業の社員数、いずれもを大きく超える。

「なるほど。それは決裁を取った後、効いてくる……」

 パラニドは潰れた髪型をかきあげ、思案した後、胸部の筋繊維を膨張させた。折り重なった肉の格子の奥に、黒い異物が見えた。そしてヒパティにゆっくり殴りかかった。ヒパティは、すぐにその意図を理解し、丸太のような指を隙だらけのパラニドの胸に突っ込んだ。繊維の隙間を力づくで押し広げ、肉を縦に裂いてゆく。職員として、自分からハンコは渡せない。その立場をヒパティは理解した。

「わかってくれますかねぇ……。役所勤めの大変さ」

「もちろんだ」

 街をいつもありがとう。ヒパティがそう言うと、パラニドは真っ二つになった顔面を歪めて笑い、そのまま動かなくなった。

■■■

 室内はひどい有様だった。充満するガスが黄色く染みつき、天井にこびりついた精液がスローモーションで降る雨のように垂れていた。それ以上に無惨なのが、血と汚物にまみれて転がっているプラクタの成れの果てだった。自身の膝蹴りで失った脚の断面はじゅくじゅくと膿み、逆方向に捻じ曲げられた腕と首の関節からはささくれだった骨の折れ目が突きだしている。眼球は虚ろに天井を写し、口からは絞り出された消化物と共に、長い舌がはみ出ている。

 その横にしゃがんでいる小柄な職員……第1課長フラスタはうんざりした様子でその死に顔を覗き込み、白濁色のナイフを遺体の頭部に突きたてた。

「おい。お前の種は割れてるぞ」

『なんだそうか』

 プラクタは飛び起き、新しく右脚を生やしながら童顔を蹴りつけようとした。フラスタは軽蔑がにじんだため息を落とすと、両掌の間に精液のあやとりを渡し、飛んでくる靴裏になすくった。蹴りははずれて、壁に当たる。即座に精液が硬化し、脚が壁から離れなくなる。

「〈鼬のプラクタ〉。起き上がり。一時期は女米木の雑用や〈魔女〉の兵隊もやっていた。基本は無職。不死にあぐらをかき、働きもせず怠けるだけの役立たず。得意技は、死んだふり。愛用の武器は女米木製のジェット・ガスと強化粘性痰弾」

 軸足の方に熱が走り、がくんと姿勢が崩れた。膝から下を切断されたのだ。刺されたナイフを返してやろうと、倒れ込みながら頭をまさぐる。触れた瞬間、それはどろりと溶け、手と後頭部を接着する。受け身を取り損ね、貼りついた指ごと後頭部を床に強く打つ。相変わらず何もうまくいかないな、とプラクタは自嘲する。

「不死の生を紛い物呼ばわりし、無差別な殺戮を度々起こす。市役所職員が被害に遭ったことも数度。最悪のケースは、肉肥田にくひだ電波塔での〈死なずのネクロ〉の殺害。これにより12名の犯罪者が開放され、臓腐市は今も大きな被害を受け続けている」

 右足裏からジェット・ガスを放ち、強制的に壁から引きはがす。上半身前面をすりおろしながら、ガスの勢いで床を転がる。そげた鼻を生やしつつ立ち上がり、右掌の銃肛を向ける。噴射の直前、粘液が肛門を塞ぐ感触。行き場を失ったガスによって右腕が炸裂し、飛び散った骨片が顔面に突き刺さる。不死者に痛みはないが、プラクタは反射的に残った左手で顔を抑えた。視界が塞がる。

「お前みたいな適当な奴は、癇に障る。存在が迷惑だ」

 腹部に異物が突き刺さった感触があった。ブレード。精液の。壁に縫い止められた。引き抜こうと左手で掴むと、指が落ち、ぽろぽろこぼれた。吐血をこらえながら、プラクタは自分を串刺しにするフラスタを見た。嫌悪の表情を浮かべている。愉快だ。笑える。視界がかすむ。

『お前……怒ってるな……。この街で、真面目に仕事をしている……』

「真面目も不真面目もあるか。職場のスローガンも信じたことはない。仕事だから、ただしているだけだ。それだけのことができない奴がこの街には多すぎる」

 素敵だ、とプラクタは微笑む。体内で刃の表面が溶け、筋肉や内臓と接着されるのがわかる。フラスタは左足でプラクタの体を壁に押さえつけ、めりめりぶちぶちと、プラクタの中身ごとブレードを引き抜き始める。本気の苛立ち、本気の敵意。適当で雑でいいかげんなこの街で、誰もが本気になれない紛い物まみれのこえだめで、この小男は真面目に何かに取り組んでいる。だから俺に怒ることができるのだ。そんなもの、好きにならないはずがなかった。

「無能が余計な時間を持って、理屈をこねまわす。やることがないからだ。お前のような奴は死ねばいい」

 ブツリ、と肉と筋が切れる音と共に、プラクタの中身が腹から引きずり出された。腐り果てた自分の臓腑など見たくもない。だがそれはフラスタの感情を伴った行動の結果であり、そうあるだけで許せる気持ちになる。血と粘液が照明の光を反射して、きらきらと綺麗だ。その輝きに、プラクタはほんの一瞬、夢を見る。あの最終バスで見た少女ほどでもないし、愛に殉じ恋人を探し回るネクロほどでもないが、それでもマシだ。夢の中でプラクタはそう思っている。床に引きずり倒され、左手のブレードで杭を打たれ、右手五指の陰茎で口を塞がれながらも、そう思っている。

「起き上がりは、この手に限る」

 精液が喉の奥に流し込まれるのがわかる。千切れた気管から中身のなくなった腹の中に、生暖かい粘液が吹きこぼれ貯まり固まってゆく。肺はもうないのに、溺れる感覚だけが脳に走り手足が無意味にバタついた。

「完全に呼吸器を固める。海に沈めるのと同じだ。死に続ける環境に放り込んでやれば、回復・蘇生をしたところで意味はない。構わないだろう。今までの人生とさして変わらない状況のはずだ」

『その通り、構わない』

 フラスタは、驚きの表情を見せた。口を完全に塞いでいるのに何故喋れる? そんなところか。プラクタはおもしろくておもしろくてたまらなくなって笑い、喉の奥の銃肛からジェット・ガスを噴き込んだ。

 バツン!

 肉が破裂する音。フラスタが飛びのく。呆気にとられたように、血みどろの右手を見る。尿道からガスを吹き込まれ、はじけた陰茎が5本。

『精液が硬化した状態で射精はできない。丁度つっこんでもらって助かった。俺の方が勢いがよかったらしいな』

 腹から手を突っ込み、プラクタは食道と気管に詰まった精液をこそぎ落してえづいた。そんな状態であってもプラクタは喋ることができる。肛門と声帯を入れ替えているからだ。フラスタが残った左手をこちらに向ける。それより早く、プラクタもまた残った左手でガスを撃つ。2人は逆方向に吹き飛ばされ、後頭部を壁に叩きつけて平らにする。死んだか? まだだ。

『頑丈だな、市役所の肉体は』

 歪む視界の中で、もだえるフラスタが見えた。壁にへばりついた頭蓋骨と脳味噌を引きはがし、プラクタはよろよろと歩く。しゃがみ込み、瀕死のフラスタを覗き込む。童顔は右半分が潰れ、眼球がはみ出している。ぼとり、と自分の左腕が落ちた感触があった。フラスタが左手のブレードで肩をそいだのだ。これで銃肛は両腕共ない。もう立ち上がる気力もなく、脚部のものは使えない。だから仕方ない。銃肛はもう1つ、喉にある。

 プラクタは、フラスタの唇に唇を重ねた。困惑で濁る目を間近に見ながら、体内にジェット・ガスを噴きこんでゆく。やはり、ネクロやあの少女と比べるといまいちだ。数秒後の破裂を前にしても、恐怖がない。抵抗がない。所詮は、生を無為に引き延ばした紛い物に過ぎないか。でも、ちょっとは楽しめる、とプラクタは思った。ほどほどの輝きは、暇つぶしに丁度いい。

■■■

 左肘に生暖かい温度が走り、そこから先の腕が千切れ飛ぶ。肩まで引き上げておいたユビキの肉と骨を先端に寄せ、腕の形に固めなおす。拳の中にはチェーンソーナイフ。俺に握りしめられる悦びで、4人の女たちの魂が震え、128本の歯を回す。突き出したナイフは、メガネ野郎の右顔面をかすめ、削げ落とす。マネキンのようなツラが抉れ、耳が落ち、頬から舌と上顎が覗く。

 眼窩下半分を失い零れ落ちた奴の右眼球は、メガネに一度ひっかかかった後、衝撃でピンポン玉のように跳ねとぶ。腹に異物と圧。視線を下げるとスーツの腕。メガネ野郎が、目玉をこぼしながら左拳を俺の腹に叩きこんでいたのだと理解する。掌は筋肉と臓腑を突き抜け、既に俺の脊椎を握っている。

 俺が腕を振り下ろし、奴の右腕を肩から切り落とすよりも早く、握り込まれた脊椎がストローのように潰される。命令系統が断たれる。下半身の一瞬の脱力。意思に従わず膝のバネが緩み、腰が落ちる。その隙をついて、右手首を掴まれる。ナイフを握っている方。手首は即座に握りつぶされ、皮1枚を残してだらんと垂れる。ナイフへが手から離れ、落下する。

 奴の注意が落ちてゆくナイフに向き、ゼロコンマ数秒緩む。俺の女たちの歯は美しい。奴が見惚れるのも当然だ。俺がミィとハヤシの臓器を動かし、腹の中の掌を拘束したことに気がつけなくても仕方がない。メガネ野郎は一瞬遅れ、自由な右手を引き戻す。遅い。頭突きが奴の顔面に突き刺さる。眼鏡が柔らかい顔の肉にうずまる感触。重心が後ろに傾くが、固定された左腕がつっかえ倒れない。

 潰れた脊椎をキイロから補填する。膝と腰に力が戻る。落下途中のナイフを取り、腹の左腕を切り落とす。急に支えを失ったメガネ野郎がたたらを踏む。ぐちゃぐちゃに潰れた顔面の中、残された左眼球の温度はまだ低い。くだらねぇ生き様だが、根性は認めてやろう。俺は奴の頭蓋にナイフを振り下ろし、てっぺんから胸元まで左右に割った。

「もらってくぜ、メガネ野郎」

 鋸の回転を止め、既にヒトの形をしていない奴の眼前に、ナイフの切っ先を突きつける。胸元から引き抜く時に、女たちの歯と筋でひっかけたハンコがそこにはぶら下がっている。メガネ野郎はそれを見て(見えるのか?)、右腕をゆるゆると持ち上げた。左右に垂れた頭部を腕1本で器用に抱え、肩を台にして断面を押し付けた。

「イえ、返してもらイます」

「黄泉帰りの癖に、まだ動くのかよ。てめぇは」

 左腕はなく、顔面は潰れ、脳天から胸元まで裂けている。黄泉帰りに回復・蘇生の力はほぼない。改造肉体の機能として多少の治癒が起きようとも、それは起き上がりや俺のような化け戻りには到底及ばない。

「屍材課の仕事でス。我々の肉体は多少の無茶はキくように設計されてイて……あ、ア、あ、ア……うまく喋レませんね。舌がずれて接着さレたようです。御聞き苦しイですがご容赦を」

 メガネ野郎は、丸めた鼻紙のようになった顔面から潰れた眼鏡を引き抜くと、指でツルと縁の形を整え、再度肉の山に埋め直した。

「デは」

 精細を欠いた動きで、メガネ野郎がドタバタ突っ込んでくる……はずだった。その時、何かが俺の眼前を高速で通過した。思考が一瞬停止する。肌が粟立ち、寒気が背を登る。それは何千年、何万年前に置き去りしたはずの、「恐怖」の残滓だった。形而上に記録された本能が鳴らす、聞く意味のなくなったアラート……。内外から瞬く間に飛び込んだ大量の情報は、俺の脳髄の中で、巨大なビルがこちらに傾き倒れてくるイメージとして像を結ぶ。遅れて、具体的な情報が手に入る。

 天井に丸く開いた穴。破砕し、けば立つ断面。俺はそれが「落下」なのだと理解した。その軌道上にあったものが消失していた。メガネ野郎の肉体、俺の右腕とチェーンソーナイフ、そして先端にぶらさげたハンコ。床にも天井と同じく丸い穴が開き、そしてその縁には太い指がかかっている。その指の太さは、穴の半径を越えていた。それどころか市庁舎を、いや、おそらくこの街よりも。当然、そんなはずはない。それは視覚と矛盾する。しかしその指1本に集約された密度は、明らかに。錯覚ではなく、実感として。黒光りする金属魂の外見から、その重量感おもさを覚えるように。

「……お前がネクロか」

 指を基点に、臓腐市が、列島が、大陸が、穴の縁から立ち上がった。地平線まで続く大地が90度折れ曲がり、巨大な壁を作ったようだった。その果てしない物体は、市役所職員と揃いのスーツを着ており、定規の上では俺とそう変わらない身長だった。

「なんだ……てめぇは」

「ウォリアだ」

〈星のウォリア〉、とその職員は名乗った。

「名刺は切らしてる。お前がいじめたネアバスのボスだよ。暗黒管理社会実現部の部長。よろしくな」

 肉と皮と骨でできた大陸と、血と脂肪でできた海が、獰猛な笑みを浮かべる。落下しながら奪ったのか、街より広大な指でメガネ野郎のハンコを弄んでいる。アラート、アラート、アラート。右腹が冷え、左手が騒ぐ。震えているのはキイロとユビキの魂だ。キイロは元市役所職員だ。この怪物を知っていてもおかしくない。ユビキは何だ? 接触があったのか? 無理だ。無理だよ。逃げて。逃げよう。勝てない。勝てるわけがない。上ずった女2人の声が俺の中で響く。1人でこの街を滅ぼしうる最悪の『犯罪者』たちが怯えている。ざまあないね。ミィとハヤシの無責任な笑い。ボタンは無言。クソが。どうしてよりによって、こんな代物が今更。

「……おい、そのハンコを、よこせ」

「ん? ああ、安心しろ。俺が俺の分と合わせて押しておく」

 惑星野郎はそう言うと、ハンコを口に放り込み、飲み込んだ。

「部長が直々に部下に話を通したんだ。部外者であるお前がしゃしゃる必要はなくなった。タマムシとの約束は反故。奴はお前に殺されない」

「どういうつもりだ」

「殺されたら困るんだよ」

 クックックッ、と書き言葉をそのまま発したような、コミックキャラクターめいた声を惑星野郎は漏らした。その眼光は、メガネ野郎のそれとはまるで違う。市役所職員の温度とはまったく真逆の、マントルのような高熱でギラついている。

「タマムシも、ゲレンデも、俺が犯罪者だと決めたんだ。ここしばらくはお前に任せていたが、娑婆に出た以上はうちが捕まえる。恋人だかなんだか知らんが、お前は他の女相手に腰を振って満足してろ」

 それとも、と惑星野郎は自分の腹を指さした。ハンコが欲しければ、かっさばいて奪え。そういうことか。クソが。クソッタレが。この星の直径ほどもあるその腹を、ナイフ1本で掘り起こせということか。無論やる。何億年かかっても構わない。俺はそのために不死者であり、永遠を生きている。

 俺の右手に鎖鋸ナイフが握られたのを見て、惑星野郎は地平線の彼方までその口角を持ち上げた。やってやる。やってやるとも。愛のためなら、俺は惑星だって両断してみせる。


最終セクション(4)へ続く