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【2019忍殺再読】「ヘラルド・オブ・イル・フェイト」

ヘラルドの堂々開幕独り相撲劇場

 ニンジャスレイヤーAOMシーズン3、幕間。ヘラルド主役短編。またヘラルドか!ヘラルドはもう以前に語ったのでお腹いっぱいだよ!とヘラルド中毒に陥りそうになりながら再読したのですが、いやはや出てくるわ出てくるわ、噛めば噛むほど味わい深い、ヘラルド成分溢れる描写の数、数、数。倒したニンジャの脇腹に蹴りを入れてるところとか、夢の中でナラクに接続して一人ハッスルしてるところとか、おもしろすぎる。独り相撲の天才かよ。中でも私が特にお気に入りなのは以下のくだりですね。

 ヘラルドのニューロンは憎悪によって速度を与えられ、研ぎ澄まされつつあった。オヒガンにおいて彼は己の感情にブレーキをかけることができなかったし、その必要も一切なかった。

 物理世界のヘラルドくんは感情にブレーキをかけていた。ほんまか? 

「おのれ……ニンジャスレイヤー=サン……! この私に……生まれながらに貴く運命づけられしこの私に、卑しき邪悪なカラテを浴びせ……顔を砕き……以て、私を、私の家を、私の運命を侮辱した……! しかも私の正当なる裁きを拒み……またしても卑劣に逃げおおせるとは……! 許さん……絶対に許さんぞ……!」

 これやぞ。ほんまか?

ヘラルドの義憤激憤空間識失調

 小説『ニンジャスレイヤー』における復讐とは何か。作中において明確に定義されたことはなく、我々はそれをフジキドやマスラダの歩みを個々の語彙によって言語化するしかとらえる術を持ちません。読者の数だけ(忍殺の読み方の数だけ)異なる解を持つこの問いに対し、現在の私ならばこう仮定します。「『ニンジャスレイヤー』における復讐とは、取り戻しえない喪失を、カラテによって取り戻そうとする行為である」 。

 カラテとは、物理的な現実ハッキング手段であり、作用反作用に基づき必然的に発生しうる現象です。ある場所に穴があいたならば、物理的必然によりそれを埋めようとするカラテは発生します。その必然には、「モータルが虐げられる怒り」などの感情的な動機すらも当てはまり、冷徹に計算の俎上に乗せられます。また、特徴的な性質として、カラテによる現実改変はおおむねエゴ通りにはならないというものがあります。フジキドやランペイジのカラテが勝手に心の王国にされていたり、AOMウィーヴくんのカラテが子どもからコミック・ヒーローのように読み取られていたりするのがまさにそれですね。フジキドの「俺がもし、あの時、ああしていたら……!」は、絶対に叶わない(ゆえに、「ザ・リデンプション」はヤバいのですが)。生活は戻らない。復讐は、必ずそのエゴに合致しない結果によって、喪失が埋められることで終わりを告げる。代替物が、デッドコピーが、偽物が、妥協が、「本物」になった時、『ニンジャスレイヤー』の復讐は幕を降ろすのでしょう。

 では、ニンジャスレイヤーへの復讐者であるヘラルドは、一体何を失ったのでしょうか。その失ったものを、一体何によって埋めるのでしょうか。「」。「オナー」。「心臓」。幾度にもわたる再登場の度に、彼はくどくどしく自分が失ったものを懇切丁寧に説明し、いとも簡単に言語化し、我々の前にほらこれだぞ、こんなになくしたんだぞと並びたててくれました。

ザイバツでの居場所」。「得るはずだったイサオシ」。わかった、わかったから、ヘラルドくん。

 ……で、きみは、本当は何を失ったの?

  ……そう……そう、なってしまうんですよね、どうしても。繰り返されるコピーアンドペースト、不必要な冗長性が齎す、言葉の死。あまりにも多く並べ立てられた量産品の「説明」は、本気であり真実であったはずの喪失を、自分に言い聞かせるための虚言のように、変質させてしまう。バラまかれたチャフに覆い隠されて、彼が本当に喪失したものは、見えなくなってしまった。いや、彼が本当に喪失したものは、バラまかれたチャフになってしまった? ぐちゃぐちゃの感情に任せ、言葉によって上へ下へと振り回されたカラテがもたらす空間識失調。自分が喪失したものを、ヘラルドくんは見失い、当然読者もわからない。何もわからないままに、言い訳のように、自己弁護のように発される、怒りと殺意。それは、そもそもの前提にすら疑問符を打ってしまいます。

 ……きみは、本当に、何かを失ったの?

ヘラルドの喪失する復讐を紛失する消失

 失ったに違いありません。失っているに違いません。それはヘラルドだけの真実であり、誰にも疑いの余地を挟む権利の無い、土足で踏み入れるべきではない聖域です。しかし、当のヘラルドすらもがそれを見失ってしまったのならば、その真実は、その復讐は、誰が「本物」だと担保してくれるのでしょうか。「何かを失くしたが、失くしたものが何か思い出せない」。人はそれを気のせいと言うのです。悪い夢を見て、その具体性を忘れてしまったのに、ただ怖い怖いと泣く子供です。主観と客観と切り分けのできていない、自己と世界の分断がなされていない、言葉に足らぬ言葉を無思慮に発し続けたがゆえに起きた、あまりにも無惨な、実を虚に変える自己改変。カラテではなく言葉を発し続けたがゆえに、トリミングされた自己と共感しあってしまった結果がヘラルドです。自己の世界を言葉を出発点にしまったとき、その言語化により切り捨てたREALを拾ってくれる人などどこにもいないのです。その欠落を自分の言葉で都合よく埋めようとする、邪悪はいくらでもいるにも関わらず。

 では、こうまとめてはどうでしょう? 「ヘラルドが喪失したものは、喪失である」。「復讐者であることを奪われた復讐者である」。……そろそろこうしてふざけるのも終わりにするべきでしょう。言葉を言葉だけでもてあそび続けてた果てにこの結末に至ったにも関わらず、未だにレトリックで切り抜けようとするのは無理がある。みっともなさすぎる。インダルジするのもいい加減にするべきです。カラテとは、物理ハッキングによる現実改変であり、しかしおおよその場合、エゴの通りの改変はなされません。そこにはカラテ者の望みとのずれが生じます。ヘラルドは、この「ずれ」を、喪失と勘違いしてしまったのではないでしょうか? それは違うと、ヘラルドはブチぎれるでしょう。おっしゃる通りです。ヘラルドは正しい。私は間違っている。しかし、こうも破綻してしまったならば、最早、そういうことにするしかないじゃないですか。もう、ヘラルドが何なのか、本人も含め誰にもわからないのです。ぐちゃぐちゃなのです。泣くんじゃない。泣きたいのはこっちだ。わからないならば、その首根っこをおさえつけ、わからせるしかない。暴力的に、そういうことにしてしまうしかない。泣いて立ち止まるくらいなら、いっそ腹をくくって、決め込んでしまうしかない。

未来へ……

 改めてこのエピソードを読んだとき、デズデモーナというニンジャが持つ、「ヌーテックらしさ」に驚きました。本作発表時点では、UCA各社の個性はまだ明かされていなかったので、これは再読であるがゆえの楽しみですね。このケース以外にも、ヘラルドの心中や、アケチ一家の真実など、シーズン3は非常に再読性が高い内容になっていると思います。ネザーキョウ、そしてヘラルドに対して、暴力によって「わからせる」ことに執着する彼女は、まあ、間違いなくケイトーやネザーキョウと大差のない、邪悪な凌辱者ではあるのですが、前述の通り、今のヘラルドにとっては、救いになりうる存在だと思います。割れ鍋に綴じ蓋の関係性は、荒療治ではありますが、彼に明確な指針を与えてくれるに違いありません。

 ……いきなり、殺されでもしない限りは。

■note版で再読
■2020年7月30日