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最近読んだアレやコレ(2024.05.05)

 GWは珍しく旅行に出ていました。職業上、遠征・外泊はとても多いのですが、プライベートでアウトドアをすることはほとんどありません。スーパーと喫茶店しか経験のなかった我が愛車も、高速道路を走らされてさぞ驚いたことでしょう。観光にはあまり興味がなく、温泉に入れればそれでよかったので、温泉宿で3日間、ほぼ外出することなく呆けていました。ぼんやりと本を読み、ふらふらと町を散歩し、適当な中華屋に入り、気が向いたら温泉に浸かるなどを繰り返すだけでしたが、とても心地よく、あと1日くらいは滞在してもよかったかな、という気分です。ただ、その程度の旅行でも疲労はしたようで、その後のGWはゆるゆる眠って過ごしています。本も読め過ぎてしまい、まるまる1記事分アレコレが追い付いていません。

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何故エリーズは語らなかったのか?/森博嗣

 著名な研究者エリーズ・ギャロワが姿を消した。生活がヴァーチャルにシフトしたこの時代、肉体の死は消滅を意味しない。しかし、彼女の姿はヴァーチャルでも見つからなかった。残されたのは「究極の恵み」と呼ばれる大きな成果。ただ、その在処を知る者もいなかった。WWシリーズ第8作。

 作中で物語を牽引してゆく謎……たとえば本作であれば、失踪したギャロワ博士の居所や、その手段と真意、そして「究極の恵み」の正体……が必ずしも、題された問いと一致しません。しかし、本を読み終わればその問いかけが物語の中心にあり、作中で提示されていた謎と本質を同じくすることが理解できます。ぶれているように見えた題と中身の重心が、キャリブレーションをかけるように一致してゆくその過程こそがこのシリーズの妙味であり、本作はまさにその代表格と呼べるものでした。「君が見たのは誰の夢?」……新しく生まれ来る知性への問いかけであった前作を経て、次に投げかけるその問いは、前作のそれを遥か遠くに延長し、終点間際で発されたものでした。「何故エリーズは語らなかったのか?」……問いには「エリーズは語るはずだ」という前提があり、その前提に基づいて問いかけが行われたことに重みを感じます……つまり、裏返し、「何故、あなたは語るのか?」を問われなければなりません。重要なのは答えではなく、その問いそのもの、そして、問いかけるという行為自体です。本作を読んだ上で、私が実践するのであれば、それは「何故○○は問わなかったのか?」になりますか。何の主語を代入すべきかは、再読時の宿題にしたく思います。


ぼくらは回収しない/真門浩平

 ぼくは他人よりも人間観察に長けている。中学3年生の秋、同級生からとある頼みごとをされたのも、その能力を頼られてのことだった。それは、SNSで炎上した姉を助けてほしいというもので……「街頭インタビュー」。日常の中に潜む推理小説、その効用と副作用。全5編収録の短編集。

 小説の中に推理を持ち込むタイミング、あるいは、フォーマット上で焦点を当てる部分。つまりは、時点と座標の置き所に独自色が感じられる5編であり、様々な形での「ああ、そこなんだ」が味わえました。その点において、白眉は「街頭インタビュー」です。「SNSで炎上したニュース動画から、擁護できる点を考える」という筋書きに、推理小説の文法を持ち込むこと自体が新鮮ですし、それが某有名作の本歌取りとして花開いてゆくのには、「今、自分は新しい小説を読んでいる」という感動を伴いました。「追想の家」は、推理小説らしからぬ主観的な切り口の下で、コンセプトが過不足なく結実している強度の高さが素晴らしく、「速水士郎を追いかけて」は、麻耶雄嵩めいた変則推理が、冷徹な思考実験ではなく、瑞々しい青春物語の延長として持ち出されているのが鮮烈です。また、事実上の標題作は「ルナティック・レトリーバー」でしょうが、手触りが生っぽく、地に足がついている「カエル殺し」の方が私は好みです。褪せてゆく青春の道行に、カエルの死骸が転がっているという無残なイメージがたまらない。いずれの短編も「推理小説」に向ける視線が自分とは明確にずれており、それに由来する切り口の新しさに痺れました。Amazonのオススメに出てきて、きまぐれに買ったのですが、大当たりでした。ありがとうAmazon……。


鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの汲めども尽きぬ随筆という題名の小説/西尾維新

 鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは、複雑な事情から脳外科医・犬走キャットウォーク先生のペットシッターを勤めることとなる。面倒を見るのは、先生が飼っている面構えの無い猫。比喩や注釈の混じる余地なく、その猫は本当に面構えがなく、その他にもいくつかの秘密を持っていた。長編小説。

 内実を伴わないままに表面だけで空転する、西尾作品の語彙、言葉遣い。本来それを用いて綴られるべき、その語彙にしか語り得ない「おとぎばなし」を排し、表層の言葉だけを蒸留したのが、本作です。あるテキストを記述した後に、それに対する修飾、言換、比喩、補完、注釈が書き連ねられ、さらにその後にそれ自体に対しても再度同様の処理が行われ……。それ単体では意味と価値を持たない皮相の奥に、原典はみるみる埋もれてゆき、あたり一面に重なった空っぽの言葉で視界は埋め尽くされる。それは空気の上に薄皮だけを何層も重ねて作ったお菓子のようで、食感はさくさくと軽く、そしてその食感だけを残し、味蕾をすり抜けるように溶けて消えてしまいます。西尾維新による「西尾維新」の実験的な突き詰め。自身の言葉の耐久試験。一方で、その空虚な言葉によって組み立てられたフラクタルの奥底から、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌという人間の輪郭がぼや浮かぶ錯覚こそが、本作の隠された実であり、中身なのだと思います。三人称に思えた小説が、一人称の随筆として立ち上がってゆく……その立ち上がりを実感し、体験し、経験する読書と執筆の内に、この随筆と題された小説の実験的経験(Experimental experience)があるのだと思います。得難い1冊でした。


湖底のまつり/泡坂妻夫

 傷心旅行で訪れた山中、香島紀子は増水した川で溺れ、付近の村人に助けられる。彼の名は、埴田晃二。一夜を共にした翌朝、男は姿を消していた。村祭の喧騒の中にも彼はなく、紀子は「晃二」はひと月前に毒殺されたのだと知らされる。湖底に沈む村を舞台にした二重の逢瀬。長編推理小説。

 「ひと夜を共にした男は死者だった」というロマンティックな幕開けは、序章に過ぎず。本作が放つ真の妖しさは、その謎をいったんプロローグに留め、当の死者の視点によって、再度、同じ物語を演じ直すところから始まります。やがてはダムに沈むことが約束された村の、限られたはずの時間の内に、全く同じ出来事が、演ずる人物だけを変えて折りたたまれている問題編の異様。そして、読者の視界の上だけに生じたその歪が、作中人物たちの抱える謎と結びつき、ゆるゆるとほどけ真相を露わにしてゆくもうひとつの異様……。いちど脳の内で組みあがった視界が、ぷつぷつと接続を挿し変えられる解決編は、不安と快楽を表裏にして、妖しく嗅覚をくすぐります。また、パズルめいた構造美を持つテキスト体でありながら、組み立てにきゅうきゅうとするさまは全くなく、豊かな余白を備えているのも凄味がありました。読み進める内に重みを増してゆく演劇要素、そして言うまでもなく主役を入れ替えながら延々と続いてゆく「湖底のまつり」の光景が、組み上げられた構造とぴたり一致する。その妙技が、仕掛けをその場のひと笑いに留めず、立ち止まって鑑賞せざるをえない騙し絵として完成させています。


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