NECRO4:地獄くんだり(1)
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配達された新聞を受け取るのがタキビの役目だというのは、ネクロとの2人暮らしの中で自然と決まっていったルールの1つだった。ネクロが家に帰ってこなくなってからそのルールに意味はなくなったわけだが、「新聞を受け取る」という行為自体が、あの忌々しい男との共同生活を思い出させるものでありストレスになる。だが、紙面上で踊る「〈死なずのネクロ〉、行方不明」の見出しは、タキビにとって胸のすくものであり、その字面だけでも十分なおつりになった。
あの晩、臓腐市全土を瓦礫の山に変えたネクロは、目的である恋人ユビキの殺害を成し遂げ、そのまま帰ってこなかった。全長13kmの巨大すぎる恋人を殺すため、何万人もの市民を自分を体に迎え入れ続けた結果、全身を破裂させ、空高く吹き飛ばされたのだ。そのまま宇宙空間に投げ出されたか。市の外に放り出されて帰ってこれなくなったか。最初の内は騒ぎ立てていた報道も、街の復興リソースを巡る市役所での議論や、最近活発化している苦痛主義の活動へと興味を移してゆき、その失踪の扱いは徐々に小さくなっていった。
そして、今。タキビが玄関で受け取った新聞から、ついにネクロの文字がなくなっていた。それはあの男の完全消滅を意味しているようで、たまらなく痛快だった。部屋が広くなり、空気が清潔になったように感じる。実際は2人の時よりも同居人の数が増えていて、室内はむしろ手狭になっているのだけれど……。姉が奪い取ったマンションの3階の角部屋。床面積の広い物件とはいえ、5人で住むのはなかなかの無茶だ。だが、ネクロと暮らすよりはよっぽとマシである。「俺はサザンカの恋人だから、ここは俺の家だ」と言い張るあの傲慢な態度。あの男がこのマンション付近を瓦礫に変えなかったのも、その思い上がった意識があったためだろうか。
「ああ、タキビさん。新聞ということは、もう朝ですか」
「夕刊です」
同居人の1人、グンジが目をしょぼつかせながら新聞を受け取った。街の人たちとは違って、彼女は未だにネクロの行方を追うことを諦めてはいなかった。他の同居人であるプラクタ、ヒパティ、カット、そしてこの部屋の本来の主であるタキビの姉・サザンカの力を借りて、未だに市中を駆けずり回っている。タキビからしてみれば、万が一にも見つけて欲しくはなかったが、だからといって彼女らに探すのをやめろという訳にもいかない。
「相変わらず手がかりもなしですか」
半ば社交辞令として、半ば肯定を期待して放った言葉だったが、返ってきたのは意外にも否だった。
「昨日、可能性のある場所を全て洗い終わりまして、消去法で特定ができたんです。随分時間がかかってしまいましたが、間違いない」
「へぇ。じゃあ、明日からはそこを探すんですね。あっそう」
「なんだか不満げですね、タキビさん」
指紋でべたべたに曇った丸メガネ越しに、グンジはタキビの目を見た。いや別に、とタキビは真顔でとぼけてみせる。
「……まあ、いいです。残念ながら捜索は不可能です。ネクロさんが落ちたのは、恐らく痔獄町ですから」
「痔獄って確か、ミィさんの……?」
臓腐市臓腐区痔獄町。ネクロの13人の恋人の1人にして、法なきこの街で特例的に犯罪者と認定されている不死の災害……〈死のミィ〉の居住地。特殊な起き上がりである彼女の影響下にあるその町では、彼女由来の特殊な細菌によって有機物は一瞬で分解され、形を保てない。なるほど、見つからないわけだ、とタキビは納得する。調査メンバーの立ち入りがそもそも不可能な地域であるし、ラジオ・ケーブル伝いにサザンカがハックしようにも姉の肉体の一部である神経肢は町内に通らない。
「ってことは、ネクロも分解されちゃったんですかね」
だとしたら、それ以上に喜ばしいことはない。もちろん、不死者の街であるこの臓腐市で、本当の意味での「死」や「消滅」は起こらない。痔獄に落ちたところで回復・蘇生しようとする肉体とそれを阻む細菌の綱引きが起こり、身動きがとれなくなるだけだ。ただ、それでもあの男の顔を、最低1,000年は拝まずに済むはずである。
……でも1,000年、1,000年ぽっちか。
臓腐市の中でもとりわけ若く、数百年しか生きていないタキビにとって、桁1つ上のスケールは長く感じる。しかし、これからも永遠の生が続くのだとすると、実際のところそれはとても短い期間だろう。なんとかこのままネクロを永遠に葬り去ることができないものか。
「で、グンジさんたちはこれからどうするつもりなんです」
「……おそらくですが、現在のネクロさんは無機物で構成されているアイサさんの肉体だけが残り、自我を彼女に乗っ取られている状態です。魂がネクロさんであることは変わりませんが、自我を個人の定義とするこの街の価値観に則っても、肉体情報という物理的な事実としても、『〈死なずのネクロ〉は、〈皆殺しのアイサ〉になった』 とみなすのが妥当でしょう。アイサさんならば、起き上がり次第、痔獄町から出てくるでしょう」
「痔獄から出た途端、ネクロの肉体が復活して蘇るってことですか」
「ネクロさんが起き上がりならそうなったでしょうが……彼は化け戻りであり、『肉体と魂をヒト1人分にまとめる』という特性に従って回復・蘇生しています。アイサさんという『1人分』のまとまりができてしまっている以上、ネクロさんの自我が戻らない限り、復活はありえません。そして、ネクロさんの自我は、おそらく今、魂のレイヤー上で意識を持っているはずです。比喩的に言うならば『成仏してあの世に居る』ということです」
話はよくわからないが、どうやら想定以上に自分にとって都合のいい展開になっていることにタキビは感づいた。魂だかなんだか知らないが、見た目も性格も他人になったなら、あのネクロは死んだも同然だ。
「……そして、魂のレイヤーは、ネクロさんの恋人の1人である〈夢の中のハヤシ〉の住処です。彼女は独占欲が強い。おそらく、ネクロさんの自我を返してはくれないでしょう。そして、物理のレイヤーの住民である我々に、それに干渉する手立てはほぼありません」
「つまり?」
「詰みですね。〈死なずのネクロ〉は死んだ。復活はハヤシさんの気まぐれを待つしかありません」
やった、とタキビは思わず口に出して言ってしまった。嬉しそうですね、と嫌味っぽくため息を落とすグンジを無視し、ガッツポーズをする。あの憎たらしく、忌々しく、姉をたぶらかした不愉快極まりない男は死んだのだ。魂のレイヤーがどんなところかは知らないが、そこがせいぜい苦しくつらい場所であることを、タキビは祈る。あんな男、地獄に落ちて当然なのだ。
【NECRO4:地獄くんだり】
「ようこそ地獄へ、ネクロ」
化粧をしていない透きとおるような肌に、薄桃の唇。白いワンピースに、麦わら帽子。あまりにも「それらしい」、あつらえたようなその外見を誇るようにハヤシは胸をそらし、そう言った。鮮やかな淡色が多くを占めるデザインの中、開いた口の中だけが赤黒く、生々しい肉の質感がある。
なるほど、地獄とはうまく言ったものだ。俺は感心して周囲を見回す。針の山、血の池、亡者を責め苛む拷問器具の数々。地面は赤茶けて汚らしく、空は夕陽では決して見れない不吉な赤色が雲を引き散らかし渦巻いている。おんおんおんとサイレンのように鳴り響くうなりは、亡者共の悲鳴と嘆きのようだ。亡者共は人型にわだかまった影のような姿をしており、どうにもとらえがたい。こんな陰気な連中は、確かに鬼に鞭打たれても仕方がないだろう。
ただ、この地獄に鬼はいないようだった。正確に言うと、全員が死体になっていた。虎のパンツを履いた半裸赤肌の巨躯が、獣に食い散らかされたような状態で床一面に散らかされているのは、なんとも悪いジョークめいている。ハヤシは、それらを見下ろすように、地獄の裁判官が座る巨大な机、その上のこれまた巨大な帳面の上で偉そうにあぐらをかいている。その左手には尺が、その右手にはその机と帳面と尺の本来の持ち主の生首が握られている。
「随分と、それっぽい地獄じゃねぇか」
「よくできてるだろ?」
ハヤシは口角を上げ、閻魔の生首を握りつぶした。彼女の掌は閻魔の巨大な生首よりはるかに小さく、握りつぶせるはずなどないのだが、そういった物理的な制約はこの場所ではあまり意味がない。形而上のライブラリ。全てはイメージと観念であり、床一面に転がる鬼どもの死体の山も、実のところただのそういう情報に過ぎない。鬼が全滅しているにも関わらず、それに責めたてられる亡者共の声が聞こえてくるのも、ハヤシがそういうBGMを設定しているというだけの話だった。
「君がハイヴの攻略を始めた時点でこうなることは読めていたから、準備しておいたんだ。臓腐市は、臓腐市になる前、異国の人間も多く住む街だったわけだけど、それでも割合は知れている。不死者たちが共有するイメージは、おおよそが日本寄りだ。そこから地獄を再現するとこういう形になるのさ」
無論、死後の世界はなく、当然、地獄なんてものもない。今、俺が立つこの場所はいわゆる魂のレイヤーであり、臓腐市でうだついているバカ共の思考や行動……形を持たないレコードの集積場だ。この世界のただ1人の住民であるハヤシは、それを引き出し、形にすることができる。それは本来、ハヤシ1人に対してしか意味のない視覚的な「翻訳」ではあるが、それは夢として、あるいは無意識として、物理のレイヤーの住人にもある程度の影響を与えているという話だった。
今回、ハヤシは、地獄にまつわるレコードを元に、この光景を組み立てたのだろう。くだらないジャンクの山だと俺は内心吐き捨てる。そういう仕組みである以上仕方はないが、ゴミばかりが分量を増やし、真に意味のあるレコードを圧迫している現状は腐っているとしか言いようがない。裏切りの記録、つまりは、愛の打刻だけが、本来、この地には刻まれるべきなのだ。ここは、それだけのための場所であるべきだ。
「気に食わないみたいだね。地獄ではなく、君の大好きな裏切りのレコードからエッチなホテルでも作ってあげるべきだったかな。まあ、裏切りが愛だと言うのは君個人の偏った解釈であって、単に裏切りのレコードを形にしてもそうはならないと思うけど」
「愛を形に起こしたものがホテルだというのも、随分偏った解釈だと思うがな」
あはは、そうだね、とハヤシは笑った。
「不思議なものだね。臓腐市が不死者の街になって数千年。いや、数万年かな? 生殖や死が喪失したにも関わらず、未だそれらにまつわる概念や思考がアンデッドたちの中に巣食っている。本来、比喩であるはずだった魂という存在は、今や、実物としてここにあり、それが全てを停止させてしまった。レコードの保存。地獄のイメージがここで生きているから未だ地獄という概念が失われていないのか。地獄という概念が失われていないから地獄のイメージがここで生きているのか。双方向参照というエラーを前提に、不死者たちの文化は維持されている。卵が先か、鶏が先かって訳だね。そして、愉快なことに誕生の概念を持つこの喩えすらもが、今となってはその保存の対象だ」
相変わらずよく口のまわる奴だと、感心する。感心するが、あまりまともに取り合うつもりはない。右腕のタマムシから脊椎を引きずり出し、ナイフの刀身とする。それに絡まるキイロとミィの繊維がベルトとなり、13人分416本の歯を音を立て回転させる。魂のレイヤーは、レコードに基づくイメージの世界。未だ取り戻していない女たちも、それがいて当然だという確信が、形をもって翻訳される。
「おやおや、安穏と話していたツケがまわってきたか」
俺は余裕綽々で肩をすくめるハヤシに飛びかかり、チェーンソーナイフをハヤシの小ぶりな頭骨めがけて振り下ろした。殺したという過程を形をもって踏み、文脈を作ることさえできれば、魂のレイヤー上であってもハヤシを迎え入れることができる。ただ、今回は失敗だった。ハヤシは、左手の尺でいともたやすくナイフを止めた。防いだのではなく、言葉通りに「止めた」。抵抗や衝撃を伴わず、防御という行為の結果だけが現れ、俺が振り下ろした右腕は停止していた。
「何を驚いた顔をしているんだネクロ。防がれたのがそんなに意外かい?」
「前回はすんなり受け入れてくれたのに、と思ってな」
懐かしいなあ、とハヤシは口角を上げ、手首を返した。全身が何かに強く引かれ、ひっくりかえり、地面に叩きつけられる。2度、3度。知覚できない腕を作ったのか、それとも単に念力か。ハヤシは腕を組んだまま、視線1つで俺の肉体を振り回しボロボロに叩き崩した。本来、俺の頑丈なからだはこの程度の衝撃では損壊しない。「壊れる」というイメージが、ハヤシによって押し付けられているのだ。
「ざまぁないな、強姦魔」
全身を見えない力で拘束されたまま宙に固定された俺の胸板を、ハヤシはからかうように指でつついた。指の先端は熱を帯びており、触れた箇所の皮膚と肉を黒ずんだ炭に変えた。ハヤシは、クリームをすくいとるようにして、その筆で俺の胴に線を引いていく。
「君たちがあの街でずっと暮らしているように、私もこの場所でずっと暮らしているんだ。レコードの引き出し方も、イメージの作り方も年季が違う。たとえ、ゲレンデやタマムシであったとしても、ここでは私には勝てないよ。この前、君の裏切りがどうだというでっちあげに乗って殺されてあげたのは、ほんのひとときの物見遊山さ」
上下左右、俺の胴部を焼き焦がしながらハヤシは言う。
「私は1人でいることに苦痛を感じないタイプだけれど、さすがに飽きてきたもんでね。で、その遠足ももう終わりってわけ……ほらできた、男前」
ハヤシLOVE。人の体でふざけた習字を終えたハヤシは、それを平手で叩き、満足したように笑った。急に拘束が解け、閻魔の机の上に落下する。うめきながら身を起こすと、ハヤシは麦わら帽子を押さえて、こちらにくるりと背を向けた。
「だから今、君に殺されてやる筋合いはない」
「知るか。ハヤシ、お前は俺を裏切った。だから俺はお前を殺す」
「その定型文もそろそろ聞き飽きてきたよ……でもまあ、条件次第では、君の殺意を受け入れてあげてもいい。私は1人でいることは平気だけどさ、それでもまあ、君と一緒にあの街で大暴れするのは……うん、悪くなかったからさ」
「だったら」
再び右腕にナイフを手にした俺だったが、今度はそれを振るうことすら許されなかった。ナイフを中心に右手の肉が収縮し、10cm四方の小さな立方体となって、その場に落ちた。
「焦らないでよ。条件つきだって言ったでしょ」
ハヤシはこちらに背を向けたまま、指を鳴らした。途端、俺の右腕でできた立方体がむくむくと膨れ上がり、針金のように細い人型となった。粘土の表面に切れ込みを入れるように造詣の精度が増し、喪服のようなスーツとそこに紅を挿すネクタイを浮かび上がらせる。特徴的なメガネと、その下の真っ黒な隈が顔の部分にできたことで、俺はそれが誰だかわかった。
「メガネ野郎」
「……ネクロさん。ここは一体」
メガネ野郎は驚いたように辺りを見回した。真面目ぶった面に困惑の陰が差しているのは愉快だったが、24時間365日の無間労働の果てに地獄に落ちたと考えると気の毒な話とも言える。まあ、市役所の連中は好き好んで働いているわけで、同情を寄せる必要なんざまるでないんだが。
「紹介するまでもなく、覚えていたみたいだね。そう、臓腐市役所暗黒管理社会実現部のネアバスくんだ。どうやら彼は君の体に最後までひっついていたみたいでね。君が痔獄に落ちるのとほぼ同時に吐き出されたせいか、君に巻き込まれて自我がこっちに来てしまっていた。ちょうどいいから、捕まえさせてもらったよ。彼は助手役だ」
「助手役?」
「君に殺されてやる条件の話さ。今から私が君に問題を1つ出す。それに君が答えることができたなら、私は黙って殺されよう。できなかったら……そうだね、君にはずっとここで暮らしてもらう。ネアバスくんもおまけに仲間に入れてあげてもいい」
ハヤシは未だこちらに背を向けたまま言った。大きな麦わら帽子の後ろ側には、非現実的なまでに鮮やかな赤のリボンがついており、喋る度にそれが上下する。その赤色は、白いワンピースを含め、現在のハヤシの華奢で淡いデザインのアクセントになっている。
「……繰り返すけど、私は1人でいることに苦痛は感じないタイプだ。だからこれは、純粋に君へのデメリットとして課す条件だと認識して欲しい。どうだ、受けるか?」
「受ける」
「OK」
ハヤシは、くるりとこちらを振り向いた。心なしか、表情が嬉し気に見える。彼女は右手を上げると再び指を大きく鳴らした。それに合わせ、周囲の光景は恐るべき勢いで収縮し、裏返った。完成した折り紙を一度開き、裏返して再度折り直す過程を紙の内部から見上げているような光景だった。閻魔の巨大すぎる机は瞬く間に常識的なサイズの教壇に、拷問器具の数々は複数並んだ机と椅子に変じていった。赤茶けた地面は白く滑らかな床となり、亡者共のうめき声は練り混ざり、どこかノスタルジックな蝉の声とチャイムの音に分解された。
広い広い法廷は、いつの間にか小さな1室になっていた。30組ばかり整然と並んだ椅子と机。亡者たちはいつの間にか制服を着込み、それらに配置されている。教壇の上、白いワンピースのハヤシだけがデザインを変じることなく、相変わらず偉そうな態度で腰を下ろしている。その後ろでは、1人だけ私服を来た亡者がやはりおぼつかない輪郭を揺らしながら、何やら室内の全員に向けて話しかけている。大きく取られた窓からは真っ赤な光が差し込んでいた。先ほどハヤシだけが変わらないと言ったが、それは誤りで、その赤色は明らかに夕陽のものではなく、元の地獄の空のままだった。
「『学校』だ。不死者たちの街に、子供も大人も既にない。暇つぶしのための学習施設はあっても、子供たちだけを固めて教育を行う施設はない。地獄やエッチなホテルと同じく、これもまた、失われた概念であり、魂のレイヤーに保存されているレコードだ」
ハヤシは、呆然と立ちすくんでいる俺とメガネ野郎を、愉快そうに指差す。
「ここは、3年2組の教室だ。季節は夏。時刻は15時30分、6限目。教師の話を聞かず、ぼんやりと窓の外を見ていた女子生徒が1人いる。5限目はプールであり、彼女は疲れている。眠気を抑えながら、未だに水の中にいるような肩のふわつきを楽しんで、窓の外に目をやっている」
誘導されて、俺とメガネ野郎も窓から外を見る。高さからしてこの教室は4階ぐらいにあるようだった。校庭の外周、学校を学校として区切る塀と校門の向こうには、臓腐市ではまず見られない平穏で穏やかな街並みが広がっている。遠くには海岸線も見えていた。海の色は見覚えのないほどに健康的なものであり、地獄の空と不釣り合いだった。その光景を遮るように、突然、俺の目の前を影が通り過ぎた。上から下へ、落下する人影。
亡者が1人立ち上がる。ハヤシが先ほど紹介した窓の外に目をやっている亡者だった。その女がもやもやと何事かをわめき始め、教室内の亡者たちが全員窓際に集まる。見下ろすと、窓の下、校庭に叩きつけられて、女の亡者が1人潰れていた。上の階から飛び降りたか、突き落とされたんだろう。室内の亡者共全員はそれを見てやかましく騒ぎ立てた。うっとおしくなり、蹴り飛ばそうとしたが、虻の群れをはらったように手応えがない。
「15時33分。女子生徒が、同級生の落下を目撃。クラスの全員が騒ぎ始める。教壇に立っていた教師は授業を一端中断し、生徒たちにここで待っているよう伝えて教室を出る。飛び降りた生徒の死体を確認するためだ。興奮気味の生徒たちは教師の指示を聞かず、全員がその後を追う。15時36分。3年2組の教室は空っぽになる。……ほら、何してるんだ2人共。彼らの後を追うんだ」
ハヤシに急きたてられて、俺とメガネ野郎も教室を出た。せまっ苦しい廊下を通り、階段を下りて建物から外に出る。亡者共の人だかりが、先ほどまでいた部屋の真下にできている。飛び降りた女を取り囲んでいるのだろう。黄泉帰りなら死体は残り、起き上がりならよっぽどとろくさい不死者でない限りはもう蘇生しているはずだ。だが、ここは恐らく、そういうことが起きない時代だろう。
死があり、死体が本当に死体だった頃。雑で適当でいい加減ではなく、厳然としたルールに従って万物が動いていた前世紀。窓の外に見えたあの海の色は、俺の知る腐り果てたそれとはまるで別物で、死者の蘇生という不条理がありえないほどに健全だった。空の色以外の全てがここでは正しい。それならば、飛び降りた女は、何の間違いもなく、死体となってそこに転がっているはずだった。
だが、そこには何もなかった。
死体はおろか、死体をどこかに移した痕跡すらもなかった。血の滴、肉片の1つすらもそこには残されていなかった。何もない空間を取り囲む亡者共は、ただぼんやりとそこに立ちすくみ、自分たちの頭上の教室と、足元を見比べている。俺とメガネ野郎は顔を見合わせ、そして俺たちを追って建物とから出てきたハヤシを見た。
「15時40分。死体消失。ここまでが一連の出来事だ」
白いワンピースが風でひるがえり、細くきめ細やかな彼女の脚を洗っている。大きな麦わら帽子を飛ばされないように、つばを抑えるその手つきは虚構めいており、全てが、少女として、あまりにも完璧にそれっぽくできている。唇の薄桃に縁どられた口内だけが、生々しく、赤い。
「これは謎だ。不条理なき前世期において、あってはならない事態だ。君たちに課す条件はただ1つ。これを解き明かすこと。死、生殖、学校。なるほど、それらと同じく、私たちが喪ったものがまた新しくここにある。死が特別でなくなった我々が、最早効果もないというのに保持し続けている概念がここにある」
地獄の色の空を背負い、ハヤシは言う。
「さあ、探偵小説の時間だ」