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文スト25巻の感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
単行本最新巻25巻のネタバレを含みます。

■各話の感想・考察はこちら

【本誌110話】隘キ部屋ニテ 其の陸 感想&考察
【本誌110.5話】隘キ部屋ニテ 其の陸 後篇 感想&考察
【本誌111話】君では私を殺せない 前篇 感想&考察
【本誌111.5話】君では私を殺せない 後篇 感想&考察
【本誌112話】 何ぞ我を見捨て給うや 感想&考察
【本誌113話】世界平和 感想&考察
【本誌114話】resurrectio 感想&考察
【本誌114.5話】resurrectio 後篇 感想&考察

■25巻感想・考察まとめ

絶句、絶句、絶句——。
秘儀『手のひらがえし』が大発動し、ひと山終えたあとにやっと本番が始まるというカフカ先生の十八番が存分にふるまわれた一冊でした。
本誌勢にとっては前半がゆったりお休み気分だった(展開をアニメで知っていた)だけに、休み明け早々の容赦ない冷や水に心の底から震えあがり戦々恐々としたものです。
ということで、主な考察をまとめておきます。いつも本誌感想と感想追記を読んで下さってる方にとっては、内容がほぼ重複しています。

1.Night から Knightへ【111.5話】

五衰編の目玉のひとつにブラムの華麗な変化というのがあるのではないでしょうか。
世界を暗黒に包む本質を持っていながら、その本質にさえ疲れ果てて興味を持てなかったブラム。だから福地に「噛め」と言われても断っていたし、音楽を聴きながら寝ることしか関心がなくて全部がどうでもよかった。
それなのに、ひとりの少女のひたむきな姿勢に心が揺らいで、忘れていた色んなことを思い出していく。領民を守ろうとしたかつての想いとか、娘を慈しんだかつての愛情とか、時間の中に埋もれちゃったものをブラムはもう一度取り戻していった。その先で、何かを守りたいというあたたかな情熱が再び湧き上がる。
文の覚悟を決めたまっすぐな眼差しが、途方もない年月のあいだブラムの中に降り積もってきた塵を鮮やかに吹き飛ばしていったのが実に爽快で、時間も年齢も立場も超えて影響を及ぼしていった文ちゃんの劇的な活躍に、大人の自分でも気づかされたことが多かったなあと感じます。

2.ムルソー劇場終幕【112話】

「さようなら太宰くん」と言ったドスくんに呼応するかのように「さよならドストエフスキー」と告げる太宰。
似た者同士で双子みたいで片割れみたいで、この世に存在する数少ない理解者たる存在の死を見届けるのはやはり太宰と言えど胸に来るものがあるのだろうか。
二人の言葉の掛け合いや反復する言動に、どこかしら深い親愛のようなものが感じられるし、太宰にとってちゃんと「さよなら」を告げたい相手の一人だったのだと思うと切ない。
役割のために痛みや孤独を自分の手で選びとって引き受けていくことの悲痛さがじわりと滲み出ているような感じがする。

そのかたわらで、ゴーゴリが感情を隠しもせずにぼとぼとと漏らす。
偽物だらけで、道化だらけで、全部が芝居じみていて、ほんとくそったれだったムルソー劇場。
でもその最後に、ゴーゴリの感情が、道化でも芝居でもない、抗うことのできないどうしようもないほどの友を想う感情が、ドシンとのしかかって幕が閉じられていくのは、非常に印象的で深く記憶に残りました。

3.自己犠牲/自己実現【113話】

福地の行動は美しい自己犠牲にも見えるし、究極のエゴイズムにも見える。人類全員から「どうかお願いします」と乞われてやったのならともかく、今回の件は福地の独断だった。

文ストのキャラたちはいつも「誰かのため」や「何かのため」に戦うことのできる気高い精神を持っているけれど、「誰かのため」「何かのため」の維持継続って本当はとても難しいことで、純然たる奉仕を何の見返りも求めずに長い期間継続できるのなんてほんの一握りの聖人だけではないかなと思ったりする。
普通の人が「誰かのため」「何かのため」を無理なく継続させるためには、「自己実現」というバックボーンがきっと必要で、「誰かのため」というのは「なりたい自分になるため」という目的と一致したときにだけ成功する事業なのかもしれない。だから背骨の部分には「自分らしさを叶えるため」というある種の自分勝手さが見え隠れする。
敦だって自分を犠牲にするときには「自分以外の人を守りたい」という想いと同じくらい強く「生きる許可を勝ち取るため」というエゴがあった感じがする。
結局は「自己実現のため」に「誰かのためという選択肢」を選んでいるのであって、その究極の目的は「他者救済」ではなく「自己救済」なのだとなんとなく感じています。

そういう意味では、福地は他者救済と自己救済のふたつが同じくらいの強さで主張してくるので、読者の見方によって自己犠牲的に見えたり自分勝手すぎるように見えたり感じ方が変化しやすいのかもしれない。だけどそれが案外、自己実現の在り方としてはとても自然なことで、「誰かのため」と「自分のため」は紙一重なんだなということを印象付けられます。

そんな中で、燁子の決断は究極の他者救済だった。
本物の英雄は福地であって福沢ではないことを誰よりも知っている燁子が、最後に選んだものは「隊長の想いに寄り添う」というただひとつのこと。燁子の中にあるなにもかもすべてを隊長を救うために捨てちゃった。
その瞬間は、本物の究極の自己犠牲で、愛によってしか超えられない一線を、このときに燁子さんは超えたのでしょうね。
自死を選択をする隊長も含めて、すべてを愛してしまっていたのかもしれない。愛が到達できる臨界点に立ち会ったような気分になるし、深い覚悟を伴ったひとつの愛の完成形として、自分の中に重くのしかかって刻み込まれていきます。

ところで。愛する人を愛するが故に殺すというのはまさに大倉燁子の『魂の喘ぎ』。
『魂の喘ぎ』は、ある母親が、人を騙したり金品を盗んだりする「巧妙な、先天的の不良」だった愛息子のことで思い煩って、人様にさらに大きな迷惑をかける前に自分の手で息子を始末してやろうとして、息子を屋上から突き落とす話。突然ドンと突き落として、それでも母親の髪にひっつかまって落ちまいとしていた我が息子の胸元を更にドンと突いて落下死させる話なんです。
愛ゆえの残虐さ。あるいは愛ゆえに正義を選ぶ。そういった大倉燁子らしさが全面に出ていた結末だったなと感じました。

4.空虚な英雄の心を埋めるもの【113話】

福地は部下や仲間たちを救いたくて戦場に行き、その戦場で仲間を守るために敵を殺しまくり、それでも仲間を守り切れずに看取っていった。そんな中、死にゆく部下からは「こんな虫けらのごとく死ぬなんていやです、どうか仇襲を…!」と言われていた。

大切な人を救えなかったのに英雄として称えられていく虚しさ。敵兵を皆殺しにし女子供を拷問した己の残虐さ。戦場で深く傷ついた福地は「英雄」を便利な武器あるいは利用できる地位として使うことはあれど、英雄としての自分を受け入れたことはもしかしたら一度もなかったのかもしれない。
過去の苦しみから逃れられず、自己否定的なものを抱えていたからこそ、福地は福沢のほうがより英雄にふさわしいと考えて、福沢にバトンを渡したとも捉えられます。
だけどそれは結果として「空虚な英雄」という受け入れがたい葛藤も一緒にバトンとして渡してしまうことになる。

福沢は「福地という悪を倒した英雄」として文に称えられてしまったが、大切な親友を倒して英雄になるなんて一体どれだけ虚しいことだろうか。
福沢が「自分は英雄じゃない」と否定すれば友から命がけで渡されたものを否定することになるし、かといって今のまま「英雄だ」と受け入れることだって当然できなくて、唯一の救済の道といえば、友のために本物の英雄に変わっていく、ということしか私には思い浮かばないでいる。

自分の正義が見極められないとき、迷ったとき、そういうときに頼りにするべきものは、自分にとって大切な人の正義はなにかってことだったり、自分の大切な人はなにを大切にしているのかってことだったり、案外そういうシンプルなことだったりするのかもしれない。

己の正義を見極めよ!っていうのが五衰編のテーマのひとつでもあったと思うけれど、己の正義よりも友の正義を優先する!って考えそうなキャラも文ストにはいっぱいいるはず。
二福がもう一度道を重ね合わせることがあるならば、その合流地点というのは、己の正しさを捨て去り、友の正しさを尊重して選び取っていった先にあるのかもしれないなあとも感じます。

5.異能の錬金術師【114.5話】

「すべては予定通りです」と言わんばかりにまわりがポカーンとしている間にバキューンと事を進めていく全知全能のぽんぽこドストエフスキー。
DEAD APPLEのときと同じように、本来なら何が起こるか予測できないはずの異能×異能の特異点の作り方をひとりだけ熟知している異能のアルケミストのような男が、揚々たる笑みを浮かべながら未知の現象「三極の特異点」を作り上げてしまった。
2つの異能を掛け合わせてできるものはこれまで数多く存在したが、3つの異能の掛け合わせは前代未聞ではないだろうか。

神が宿る時空剣、異能と人体を融合させる聖十字剣、性能を百倍にする異能、これらが掛け合わさってできるものがアニメ61話の2時間後に出てきた神人だと思われる。
福地の「肉体」が、時空剣に宿った「神」と融合し、そこに性能を百倍にする異能が加わることで、なにかスペシャルな能力が開花しそうな予感。
聖十字剣は、それを刺した人の手の甲に聖紋が刻まれて、剣を刺した人だけの指示に従うようになる、剣を刺した人が刺された側の異能を自由自在に操れるようになるはずなので、ドスくんは特異点によって神人を自由に使役できるようになったのかもしれない。
ドスくんの操り人形ならぬ操り神。神を前にして人間に一体なにができるというのでしょう。

ぽんぽこドストエフスキーの目的はシンプルに考えれば「福地の計画の継続」であり、白紙の裏頁を使って世界をひとつの国家にし独裁体制を作りたい、人類軍総帥の席に神人を置くことで新たなる神による統治を為したい。現実的な考察だとこんなような目的が思い浮かぶ。
しかしシグマは「ドストエフスキーの今後の計画を読み取ってほしい」という依頼を託されている。シグマの活躍が今後の探偵社にとっての一縷の望みとなっていくのかもしれませんね。

6.罪と罰【114.5話】

ドスくんの異能力がついに明らかとなりましたが、この異能のどのあたりが「罪と罰」なのかを考察しておきます。

「罪と罰」というときそこにはおそらく二種類の意味がある。
ひとつは犯罪行為に対する刑事罰という意味での罪と罰。罪は英語にすると色々な訳し方ができ、犯罪行為という意味での罪は"Crime" であり、それに対する罰は懲罰という意味の"Punishment"になります。

ドスくんの異能として明らかになったものは、Crime and Punishmentという意味での異能力だった。自分のことを殺意を持って殺そうとした人に対して死を与えるというのは、殺人行為に対する死刑であるという捉え方ができる。

ドストエフスキーの『罪と罰』も英題にすると"Crime and Punishment"であり、書かれている中身も殺人に対する罰や良心の呵責に関することなので、作中で言われる「罪」というのは犯罪行為としての罪の意味合いを持っている。ドスくんの異能力は『罪と罰』という原作に対して忠実な異能力だったなと感じます。

一方で、罪と罰にはもうひとつの意味合いがある。
それが、原罪とそれに対する裁きとしての終末の最後の審判。ドスくんの語る台詞や彼の目的からはこっちの「罪と罰」の匂いがぷんぷん漂います。

ひとりの人間の犯罪という小さな視点ではなく、人間そのものの始まりと終わりに関する罪と罰。

ドスくんの異能に表れているように、彼が罪に対して罰を与えようとする性質を本質的に持っているのだとすれば、目的のほうにもやはり原罪に対する罰としての最後の審判を自分の手で下したいという欲望を持っているのかもしれない。

7.おまけ

好きなシーンTOP3を選出してみました。

・第3位
「おはようございます(ドスくん)」
こんなありきたりで平凡な言葉にこれほどの衝撃と残虐さを与えられる話というのも早々ないのではないでしょうか。放心。正座。参りました。

・第2位
「斃したんは探偵社の社長や!(文)」
純粋さはときに凶器となるということを痛いほどに感じさせられた強烈な台詞。憧れと希望に満ちた文ちゃんの表情が容赦ないほどに破壊的で、脳裏に焼き付いて離れないひとコマでした。

・第1位
「今はただ……(ゴーゴリ)」
とても美しく切り取られた瞬間。溢れ出してとまらない感情を前にただただ佇むしかなかったゴーゴリ。言葉の背後に漂う空気感が重くも澄んでいる。いつまでもずっと大切にしたいと思うような貴重なワンシーンでした。

おわり。
以上の考察はどれも肥大化した妄想世界の産物ですので、信憑性などは期待しないでください。


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