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【本誌110話】隘キ部屋ニテ 其の陸 感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
ヤングエース2023年10月号のネタバレを含みます。

[23.09.04感想]

だはー。カラーページが異彩を放っている!
35先生は本当にパリコレに参加したほうがいい。世界が驚愕する圧倒的な美的センスに「ブラボー!」の拍手が鳴りやまないランウェイ。新進気鋭のジャパニーズデザイナーとして一世を風靡すること間違いなし!
気高くも独創的で細部まで調和がとれた五人組の御姿。天人をも超越しながら退廃的な気配を纏い、強烈な個性が無色という色合いの中で見事に溶け合っている。世俗から逸脱した者たちがもたらす衰退。天人五衰の持つ意味合いのすべてが、圧巻の表現力によってここに描き出されている!

って福地さんがつけてるお面、カフカ先生のやつじゃない?
このお面によって急に現実に呼び戻される。
そして24巻発売中!の宣伝に使われてるシーンと台詞がなんというか…23巻のときから気になってたけど、これ決めてるのカフカ先生なんですかね?こういうことするの原作者しかいない気が。もしかして編集さんもこういう趣味の方なのかな?

ページ数少ないのは定期。むしろ前2カ月の供給量が例外だったような。アニメに追いつくために先生たちがんばったんだねきっと。しかも単行本24巻に修正まで入った。まじであの修正なにごと?
今月の感想は110話の分を書きつつ、24巻修正部分をもとに109話を再検討します。

■不幸な想いの重なり合い
文ちゃんが自分を責めてしまわないようにずっと庇うような言葉をかけ続けているブラム。
10歳で世界の命運という重荷を背負わされて、それがもし「失敗」という形に終わったら、世界は自分のせいで、自分の力不足のせいで、闇に傾いてしまったと一生自分を責め続けることになるのだろう。
偶然降って来た役割、真面目に向き合うには不条理すぎるゲーム、だとしたら勝敗を決めるのだって「コントロール不可能」な側面が原因でなくては、割に合わない。うまくいかない原因は文ちゃん自身の何かではない、ただ偶然の女神が味方をしなかっただけなのだ、そう文ちゃんに言い聞かせようとブラムが頑張ってる。
文ちゃんが正義の味方になることを諦めてしまわないよう、自分で自分を許せるよう、一生懸命守ろうとしてあげてるのとても胸にくる。
顔つきがやたら冷めてるところにブラムの諦めのような、耐え忍ぼうとする苦しさのようなものが少しだけ滲み出てるような?

「世界はどうでもいいが貴方のためなら」と文ちゃんの望みをかなえてあげようとしたブラム。「自分はどうでもいいが世界のためなら」と命を投げ捨てようとする文ちゃん。
このふたりの糸のもつれが、もどかしく切なくも甘い。
正反対の二人がそれぞれに自分の大切にしたいものをひたすらに守ろうとした、純粋な想いの重なり合いから生じる悲劇。
己の幸福よりも誰かのために。その想いが一体いくつ重なり合えば、世界は救われるというのだろう。
10歳の子供の命の犠牲によって救われる世界など、一体だれが欲しいというのだろう。

願わくば、文ちゃんの重量によって聖剣が抜けたあかつきにはブラムの手足がにょきーーんと生えて、一目散にかけつけたブラムがお姫様だっこで文ちゃんを救出する、そんなダークヒーロー王子様の御姿を拝みたいもんでございます。

最近になって気づいたのですが、共喰いも五衰編もドスくんがシナリオを描いているだけあって、話の展開がドストエフスキーなのですよね。このあたりの考察はまた別途書けたらいいなと思ってます。

■進行開始の「正しさ」
人口三千万の都市にミサイルを撃ち込もうとする福地。なにしてくれとんじゃあああ!と福地を問い詰めたくなる気持ちを脇においてみたら、敦くんなにしとんねん!の気持ちが湧いてきた。
敦くんは、ひとつの都市とそこの住人が一斉に吹き飛ぶことを「正しいことかもしれない」と思っている。だから迷ってる。一体どんな正しさがあれば、このような事態さえも容認できてしまえるのだろう?

より良き世界を実現するための必要悪と、文ちゃんを殺せなかったかすかな良心。
福地の中に渦巻くふたつの想いが世界を揺らがせているようなそんな気がする。正しさか、罪悪感か、押し勝つのは一体どちらなのでしょう。

■血の量、増やします普通?
24巻、太宰さんのおでこから血がぶちゃあああ!してたよ。こりゃもうだめだね。一応葬式をあげる準備として祈祷文はすでに用意してあるんだけど、不謹慎だからまだ公表するのはやめておこうかな。
あれだけ出血してるんだったら、異能無効化で~というのは説明つかないので、きっとそれなりに撃たれたんでしょうね、ほんとに。
そんで太宰さんは異能を無効化しちゃうので、中也に咬まれたとしても吸血種になれずに普通に死ぬ。
太宰さん側の描写だけみると、やっぱりアウトなんだよなあ…
だけど、ドスくんは「さようなら」を告げているのでたぶん死んでないことを見抜いている。そうじゃなきゃ祈りのひとつやふたつ捧げてあげてほしいもんだ。
ということはドスくんには我々が全然考え付かないようなトリックが見えているのではないかと。読者を超越してこそ我らがドスくん。一生ひざまずいてついていきます。

[23.09.06追記]

今回の追記は、文ちゃんの命の犠牲についてです。
「文ちゃんの命と引き換えに救われる世界」という展開になってきましたが、この構図は、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いた哲学的・宗教的な問いとも関連性があるかなと思いますので、そのあたりにも触れようと思います。

文ちゃんは母親と姉を回想したときに「死んだ人間の完璧さには誰も勝てない」と言っています。
つまり文ちゃんの中にはおそらく「美しいまま死ねた人への羨望」がある。母親と姉の後を追って「美しい完璧な死」を実現しようとする衝動。そうすれば父親は是が非でも自分を認めることになるだろう、というかすかな期待。
「英雄の少女」として世界から称えられれば、今まで押し付けられてきた女性像への永遠の反抗となる。
父親に認めてほしい気持ち、あるいは復讐心と言い換えてもいいかもしれませんが、そういった気持ちが文ちゃんの決断の背景にまったくないとは言い切れないのではないでしょうか。
人を死なせたくないという尊く純粋な想いと、親への見せしめという衝動的で素直な感情。
文ちゃんが抱えている感情は大人のそれよりもずっと単純で穢れのないものかもしれませんが、それでも両義的な感情を同時に抱えることができる人間の普遍的な特性は、10歳の文ちゃんの中にも横たわっているように感じます。

さて、ドストエフスキーの作品の中にはいたるところに小説のメインどころとも言える哲学的・宗教学的な問いが散りばめられています。そして『カラマーゾフの兄弟』の中に含まれるいくつかの重要な問いのひとつに「少女の犠牲の上に成り立つ世界は是か否か」というものがあります。

この問答のやりとりをするのは、先日「ドスくんのモデルとカラマーゾフの兄弟について」で紹介した次男のイワンと彼の弟のアリョーシャなのですが、イワンは小さな子供のいたいけな涙が報われないのならば、調和の世界などいらない、という思想の持主でした。イワンは一世一代の想いでアリョーシャに自分の思想をすべて吐露した後に、告白の締めくくりとして、アリョーシャにこう問いかけます。

いいかい。仮りにだね、おまえが最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとしたら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を――例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、この子供のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかえ? さあ、偽らずに言ってくれ!」
「いいえ、承諾するわけにはいきません」と、アリョーシャは小声で答えた。
「それからね、世界の人間が、いたいけな受難者のなんのいわれもない血潮の上に打ち建てられたような幸福に甘んじて、永久に幸福を享受するだろうなんかというような考えを、おまえは平気で認めることができるかい?」
「いや、できません」

『カラマーゾフの兄弟』 中山 省三郎訳

無垢な少女の犠牲の上に成り立つ調和など実現してはならない、それがイワンとアリョーシャの答えであり、おそらくこれらはドストエフスキー自身の問いと答えでもあったのではないでしょうか。

この問いが描き出されたのが今月の本誌であり(おそらくこれがドスくんの狙いでもあり)、また同時に我々読者への哲学的な問いとしての機能を果たしているものだとも思います。

ドストエフスキーと今月の本誌が問いかけたかったことってきっとこういうことですよね。
例えば30分後に世界が破滅する。その破滅を回避するためにひとりの無垢な少女の命の犠牲が要請されるとしたら、あなたはその少女に犠牲になってもらうことを選びますか?
その少女が「偶然」「不条理的」に選ばれていて何の業もない罪もない少女だったとしてもそれでも彼女の命を犠牲にできますか?
そうして救われた後の世界で、笑って毎日を過ごしていけますか?

少女の命を犠牲にするくらいだったら、世界なんか破滅してしまったほうがいい、平和も調和もくそくらえだ、闇に包まれてしまえ。そう感じる人も多いのでしょうね。
犠牲になった少女の英雄性・神聖さの対極に照らし出されるのは、家畜のごとき愚鈍な人間の心と、他者に対する冷淡な無関心さなのではないかなと感じます。
もし犠牲を払ってもらうことを選択する場合、人類がひとつの殺人の共犯となるわけですが、その罪は裁かれなくていいのか、あるいはその罪は誰によって赦されるのか、論点は尽きません。

文ちゃんの命を誰か助けてほしい、なにか方法はないのか?そう考えて何かにすがりたくなるけれども、世界は時に残酷な選択を突き付けてくるのも事実。
もし「文ちゃんの命」か「文スト世界の平和」か、それらが天秤にかけられていて究極の選択を迫られているのだとしたら、一体どちらを選ぶべきなのか。文ちゃんの命はこの場合、本当にやむを得ない犠牲として失われてしかるべきなのか。
大人の都合で始めた汚らしい騒ぎの清算を、たったひとりの穢れなき無実の少女になすりつけることの恐ろしさ。

カラマーゾフの兄弟を読んで考えさせられることを、文ストを読んで考えさせられる。この時点で我々読者はドスくんの術中に嵌っているものと思われますが、文豪ストレイドッグスに"文学が果たす役割を代替するような機能"があるように感じるのも、こういうところに理由があるのかなあと思ったりしました。

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