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才能って何だ?『ピカソになれない私たち』を読みました。

勉強にしてもスポーツにしても、ビリではないけれど、かと言って目立ってよくできるわけでもない。私は全てにおいていつも中途半端だった。だったというより、今だってそうだ。

ふらりと立ち寄った本屋さんで目に留まった表紙。絵の具まみれの女性に少しかぶりながら並んだおかしなフォント。
そのタイトルは『ピカソになれない私たち』。
絵を描くわけではない私はピカソも岡本太郎も村上隆も目指しているわけではないし、青春小説と言われると私にはちょっと違うかな?と思いながらも気になった。
本はジャケ買い派の私はその表紙にピンと来たら「呼ばれている」んだと、かなり本気で信じている。
確認のため、本棚に戻し、店内をぐるりとしてからもう一度その辺りを見るとやっぱり目が合った。そうなったらこれはもう買いです。

表紙の膝を抱えてうつむいた女性と『ピカソになれない私たち』というタイトルに、そこにはこれといった才能もなく、全てにおいて中途半端な私が生きていく上でのちょうどいい言い訳が書かれているんじゃないかという変な期待もあった。
選ばれし者だけが集まる国内唯一の国立美術大学、そんなところに入学できて美術に向き合う。それでもみんなが美術で食べていける訳ではないのだから私なんてこんなもんですよね、と。

東京美術大学油画科。その中でもスパルタで知られる森本ゼミではアカハラと言われてもおかしくないほどの厳しい言葉がいつも学生に浴びせられている。
高校時代に「やる気がないなら帰れ!」と言われ、ハンドボール部のキャプテンだったにもかかわらずそのまま帰り、部活をやめてしまったような私なら間違いなく真っ先にやめてしまうだろうな。

「自分の絵を描け、自分だけの絵を!その気がないなら、今すぐ筆を折れ」

そんな森本教授の言葉はまさにあの時、私が部活の顧問からぶつけられた意味と同じだった。
それなのに不思議とその言葉が嫌じゃなかった。寧ろそう言って欲しかったのかもしれないとすら感じた。今の私には。
本当は“帰らず頑張る”ことを先生が待っている事はわかっていたけれど、ゆるい気持ちでなんとなく入部したものの貧血と膝痛でキャプテンなのにみんなの足を引っ張っている事から解放されたかったあの時とは違う。
必須でとりあえず入部した部活ではなく、するもしないも自分で決めて好きなようにすればいいだけの今。
誰かにほめられるためにだとか誰かの価値に合わせるだとかそういうことを抜きにしてでもやりたいと思えたなら、それは本当に好きなことなのだろう。

私たちはピカソにも岡本太郎にも村上隆にもなれないけれど、ピカソも岡本太郎も村上隆もまた、他の誰にもなれないのだ。
私は私を生きるのだ。

『ピカソになれない私たち』
思った以上に好きな本でした。







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