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ドーナツの穴

「あの、ここですか?未来が見える穴のドーナツのお店って」
「未来が?穴から?ドーナツの?確かにドーナツはありますがここはただのコーヒー屋ですよ」

そのコーヒー屋さんは4丁目のビルの隙間に時々現れるコーヒーとドーナツだけの小さなお店だった。
いつの頃からだろうか、噂を耳にするようになった。そのお店のドーナツの穴から未来が見えるのだと。
「ま、そんな噂もあるようですけどね。僕はただコーヒーとドーナツを販売しているだけですよ」
「でも、聞いたんです。友達が見たって…」
「そうですか…。中にはそんな方もいらっしゃったのかもしれませんね」
「私も見たいんですけど…」
「そう言われましても、、僕はただのコーヒー屋です。…見たいんですか?未来が」
「やっぱり見えるんですか?」
「いえ、僕はただコーヒーとドーナツを作ってお出ししているだけですから…」
「そうですか…」
「はい。いかがなさいますか?コーヒーは」
「ください。コーヒーを1杯…あ、ドーナツも」
「はい。かしこまりました」
ま、考えてみればわかることだ。この世に未来が見えるものなんか、あるわけないのに、ね。

「おまたせいたしました。ホットコーヒーとドーナツでございます。本日のおすすめのレモンの酸味が爽やかな檸檬ドーナツです。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
明日香の目の前に檸檬ドーナツと温かいコーヒーが置かれた。
「やっぱりただの噂か。そうだよね…。ドーナツの穴から未来なんて見えるわけないよね」
そうつぶやきながらコーヒーをひとくち飲んで、明日香は左手の人差し指と親指でドーナツをつかんでかざし、穴をみつめた。

明日香は赤ちゃんを抱いていた。
隣にはレジカゴを乗せたショッピングカートを押す男性がいた。
「誰だろう…。顔が見えないなぁ」
明日香は目を閉じて頭のてっぺんに意識を集中させてその中の風景をみつめた。
「あ、潤也だ。私の隣にいるのは、潤也なんだ。そうか、そうなのかぁ…」
明日香はぶつぶつとつぶやいていた。

「いかがですか?檸檬ドーナツは」
「あ、見えました!私の未来が、見えました!」
「そうですか。見えましたか。で、どうでした?」
「なかなかしあわせそうでした」
「それは素敵ですねぇ」
「ありがとうございます。実は迷っていたんですけど、気持ちがまとまりました」
「そうですか」
「やっぱり見えるんですね。ここのドーナツの穴からは未来が」
「時々そんなことをおっしゃる方がみえますが、それはみなさん自身が心に決めたことが見えているのだと思いますよ。ここはただのコーヒー屋ですから…」

どうぞおしあわせに。

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