病気と生きる

獨協医科大の銀杏並木

はじめは、股関節唇損傷で通い出した。手術して、杖なしでもあるけるようになった。仕事に復活してしばらくするど背中の痛みがでてきて、不思議なことに、コンビニやスーパーで小銭を落としたり掴めなくなり、へんだな?くらいに考えていた、あまりの痛みが発作のようにおきるので、整形外科のドクターの紹介で同じ大学病院の麻酔科のペインへ初めの先生は不定愁訴での対応するが、2番目の先生になる頃には関節痛や痺れ全身ねつっぱりや、腹痛による迷走神経反射で倒れることが多々あるようになり、様々な検査がされた。でもこれといった病気は見つからず薬での調節が始まっていって、ある時、首に原因があるのではないか?と言うところまで行き着いて、整形の脊椎の先生を紹介され、院内ショッピングがはじまったころ、2番目の先生が東京の病院に行くことが決まってしまい、麻酔科でのドクターショッピングで、薬の副作用が始まったころに、現在私の主治医となるドクターが私がみる!と声をあげ、私の病気を見つけてくれる。2番目のドクターのいった首に後縦靱帯骨化症と言う難病を見つけて、さまさまな症状から脊椎のドクターから、手術が必要だといわれた。母子家庭で、3年前に股関節の手術をしたばかりの私にはお金がないとドクターに話すと難病の手続きをすれば、費用はかからずに手術ができる。手術をしなければ、あと半年後くらいには歩けなくなると宣告され、仕事を続けることができなくなる。そう言われて意を決して手術をする。手術まえ長男はまた15歳の受験生私立の願書作成の時期だった。残酷だと思ったけれど、どうしても話さないわけにはいかないことがあった。祖父母には言えないし、15歳ならきっと理解できるはず。なぜなら長男は、どこかおとなびたところがあり、物事を冷静に考える事ができる子だったから、話をした。
もし、万が一手術が上手くいかなかったとき、延命治療はしないでほしい。植物状態であったときはどんなに苦しんでもそのまま看取ってと必ず言ってほしい。それが、私の強い意志だと。15歳の息子には酷な話だったけれど、命について2人で泣きながら話しをした。ちょうどその頃長男は余命1ヶ月の花嫁という小説を読んでたから話し安かったけれど、はじめは泣きながら首を横にふった、老人ホームで介護福祉士として働いてきた私には植物状態で何年も生かされている人たちを看てきていたからこその話を繰り返しした。家族がそれでも生きていてほしいと思う気持ちはよくわかるけれど、私はそうして生きていく自信も勇気ないと、いつか、あなた達のお荷物になるならとむりやり首をたてに振らさせた。今思えば残酷な話だと自分でも思うけれど、長男は高校卒業後看護学校に入学し、今年、脳動脈瘤の手術をした時に同じ話しをした。キーパーソンも彼、手術の説明も入院のサポートもすべて長男が引き受けてくれた。開頭後、動脈瘤に予定していた状況と違い血管の癒着が酷くクリッピングをすると左麻痺が起きると聞かされていた状況であり、どうするかドクターと長男での話が術中にあり、私の気性での左麻痺は本人が耐えられない、ましてや鬱病を抱えている今は絶望してしまうので、応急処置の筋膜移植で無事手術を終えた。

術後すぐ

長男が無事に終わったよ。大丈夫手も足も動くから頑張ったね。と言われたあとは記憶がない。翌朝は全く眼が開かないほど顔が腫れた。

左目か少し空く程度
管が抜け後

この期間中次男は自分でご飯を炊き、作り置きし冷凍したおかずを持ち、1日も遅刻せずに部活の朝練に行き学校でも変わらず生活していたとあとから先生方にきき、手術後も、担任、部活の顧問に無事手術が終わり、状態安定しています。と伝えていたと聞き成長したんだなぁ。って感動して頑張らないといけない。死にたいとも思った時期があったけれど、生かされた気持ちがつよかった。長男と15歳のあれは残酷だと今でも思うけど、今なら気持ちわかるよ。だから、自分で自分の身の回りのことができない日がきたら、施設に行く約束をした。まだまだ、たくさんの病気と生きていかなければならない。幸いドクターには恵まれて自分の思いに寄り添ってもらえている。鬱病は波があって、まだ頭もいたみやしびれがあったり、転んだり倒れたりして杖をついて歩いているけど、病気と行きていく。
もう、無理はしない。できないことはできないでよしとしていく。子供達にお世話かけちゃうけど
できる範囲で頑張ればよし。本当はあと1年は頑張りたかったんだけどな。。。限界を超えてきすぎたと今は思う。もっと自分を大切にしてきたらよかった。すくわれたのはやはり息子たちがいたからで、私の背中をみてくれていたこと。
だから、この一年は自分を大切にする背中をみせていきたい。仕事は自分を大切にはしてくれないことも、付け加えておきたい。使い捨ての駒だったなって。でも、楽しかったときもあった。オンオフが下手で不器用な私は家族を守る姿を背中でみせたくて突っ走りすぎた結果が使い捨ての駒。笑っちゃうよね。なんの補償もないんだもん。今は事務長と友人とのやりとりしかない。
だから、病気といきようと思えたのかもしれない。

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