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台湾人は誰もが中国語を話せる? 実はそんなことはない。

 若くて台湾での生活体験の少ない日本人はよく台湾の言語について語る時に、台湾では若者を中心に台湾語が話せない人は多いけど、中国語を話せない人はいない!台湾の住民は全員が中国語を話せる!と言い切る。しかし、実際には中国語を話せない人はまだまだ存在する。

 台湾には中国語が話せない人はいないと言う人は台北市で生まれ育ち、台湾語や客家語、原住民諸語などの台湾本土言語が話せない若者しか知らないのだろう。台北市内でも70歳代の特に台湾中南部出身の女性で小学校へ行けなかった人達は中国語があまり話せないし、文盲である人達がいる。80歳代後半や90歳代だと中国語が話せない人もいる。台湾人と結婚して、配偶者の実家の生活を知り、地方に住む台湾人の親戚達とも交流していれば、台北市に住んでいても、こういった中国語が話せない、文字の読み書きができない人と知り合うことは割と普通にある。

 また台湾での生活体験の少ない日本人はよほど旅行好きで、時間に余裕のある人でない限り、台湾の田舎や山の中へ行ったことがないから、中国語がほとんど話せなくて、ほぼ台湾語や客家語、原住民語だけで生活しているような年配者に会ったこともないのだろう。

 台湾の小学校ではこういった小学校へ行けなかった年配者、或いは外国から移民してきた人のために漢字の書き方、読み方、中国語を学んでもらうために小学校夜間部がある。小学生が国語の授業で使っている現行の国語の教科書を使って漢字と中国語を学ぶのだ。(台湾では国家語言発展法の中で、中国語は台湾華語という名称で、台湾台語や台湾客語、馬祖語、台湾原住民諸語、台湾手話などと同じく国家言語の1つであるという扱いにされ、公用語ではないが、教育機関では昔の名残で未だに国語と呼んでいる)

 実は僕は将来帰化するための準備として、台北市内の小学校夜間部へ3年通った。受験料を払って中国語の試験を受けて、合格点に達すれば帰化申請は出せるのだが、試験を受けたくなければ、台湾の教育機関 (小学校〜専門学校、大学、大学院など、どの教育機関でもよい) に籍を置いて学習する必要がある。僕は中国語の試験を受けたくなかったので、小学校夜間部 (学費は無料) へ入学した。本当は夜間部で72時間だけ授業を受けて、その証明書があれば、帰化申請は出せるのだが、楽しかったので3年通い、今年の初夏に卒業 ( 夜間部は3年制 ) した。

 この小学校夜間部でのクラスメートの半分以上が若い頃に台北に越してきた中南部出身の70歳代の女性達だった。そして3分の2が外国籍の女性(主に台湾人と結婚したベトナム人女性)で、僕1人が日本人で男性だった。担任の先生は20年以上、夜間部で教えた経験のある台湾人男性だったが、先生が教えた男性というのは僕を除いて、過去に1人しかいなかったそうだ。今までに教えた生徒のほとんどが文盲で中国語が話せない台湾人女性だったそうだ。中には自分の名前すら書けない人もけっこういたらしい。

 なぜ、小学校へ行けなかった女性が多いのかというと、台湾は元々非常に男子が尊重される社会であり、息子でなく娘が生まれると教育を受けさせず、家の仕事を手伝わせたし、また、自分の子供として育てず、他人の家の労働力として売ったりする風習(将来はその家の息子の嫁になる約束も交わされた)があった。この風習が特に南部を中心に戦後も根強く残っていたからだ。男性なら仮に家が貧しくて教育を受けられなかったとしても、軍隊に入ったり、社会に出て仕事をしながら中国語を身につけた人も多いのだろう。教育を受けず、ずっと家業の手伝い、家事や子育てをして、家の中にいることが多かった女性は中国語をちゃんと身に付ける機会がなかった。外に出て仕事に就いたとしても、自分と同じような境遇の人が集まる職場なので、中国語ができなくてもさほど問題はなかったのだろう。

 僕の義母も生まれてすぐに他人の家へ引き取られ、その家の娘として、また使用人として育った人だ。外部の人との結婚を許され、義父 (中国の福州出身の外省人だったが、すでに故人) と結婚した。小学校へ行っていないので、当然文盲だ。義父と結婚したので簡単な中国語は聞いてわかるけれど、あまり話せない。義父にも台湾語で話していた。義父は若い頃、ずっと南部にいたので、台湾語は聞いてわかるし、訛りが強いが話すこともできた。義母は自分の子供達、孫達には台湾語でしか話さない。子供達、孫達も義母には台湾語でしか話さない。義母は僕と話す時にも台湾語で話す。

 では、義父のように戦後すぐに中国から台湾へ来た人達、いわゆる外省人の1世達は皆んな中国語が話せるのかと言えば、実はそうでもない。外省人1世の中国語も北京出身者とか共通中国語に近い言語を話す地域の出身者でなければ、中国各地域の地域言語の影響が強く、非常に訛った中国語を話す人が多かった。僕も外省人1世が話す中国語が全く理解できなかった経験が何回もある。
 
 現在の妻(僕の再婚相手)と知り合ったばかりの頃、彼女のお父さんの中国語はよくわからなかった。 福州訛りが強かったからだ。でも彼女は外省人1世にしてはまだましなほうだと言っていた。学生時代の同級生のお父さんの中には台湾人でも全く理解できない中国語 (方言や地域言語ではなく共通中国語) を話す人がけっこういると言っていた。

 以前、結婚前に台北市内で1人暮らしをしていた頃、隣の部屋に越してきた老人が湖南省出身者で僕には何を話しているのか全く理解できなかった。このことを大家さんに伝えると、大家さんは「日本人の君には絶対無理だろうね。自分もあの人の中国語は30%程度しか聞き取れないからね!」と言っていた。 僕は隣の部屋のお爺さんの言葉があまりにもわからないので、もしかしたら中国語ではなく、湖南語を話しているのかなと思っていたのだが、大家さんに「あれでも中国語だよ。湖南語だったら私にも全くわからないはずだからね!」と言われた。

 台北生活4年目ぐらいの頃、台湾の時代劇のテレビドラマにセリフのないエキストラとして出演した時に知り合った、 同じくエキストラとして参加していた叔父さんが撮影の合間の休み時間にずっと話しかけてきたけど全くわからなかった。別の若い台湾人エキストラが僕のために全部中国語に通訳してくれた。叔父さんは山東省出身の1世だったので、山東訛りが激しかったのだ。
 
 また、戦前から台湾で暮らしていた台湾人だが年齢や家庭の事情などで日本の植民地時代には日本語習得の機会が得られなく、なおかつ戦後も中国語習得の機会を逃した人も多い。 逆に戦前、国語家庭と呼ばれた家庭内で日本語だけを使い生活することを選択した家庭で育ち、日本語しか話せなかった台湾人も存在した。そして、戦後に慌てて台湾語と中国語を学び始めたという人達もいる。

 僕の前妻(在日台湾人)の両親も戦前の国語家庭の出身だった。お父さんは10代半ばで日本本土に渡り戦後まで日本にいたので、台湾語は話せなくなっていた。逆にお母さんは家庭の事情で東京生まれで、子供の頃に台湾へ戻ったが、ある政治的な事情で学校へ行けず、家庭教師をつけてもらって日本語教育を受けた。しかし台湾語も話せた。お母さんのお父さん、つまり前妻のお祖父さんは5歳から大学卒業まで日本で育ち、台湾語が話せない人だったが、お母さんのお母さん、つまり前妻のお祖母さんは日本語はそんなに達者ではなかったようなので、おそらくお母さんとは台湾語で話すこともあったのだろう。
 
 お母さんは戦後すぐに家庭教師について中国語を習ったので中国語も話せたが、戦後台湾に戻ったばかりのお父さんは日本語しか話せず、台湾語も中国語も話せなかった。そして二人共、中国国民党による台湾統治には嫌気をさしていたので、 幼い子供(前妻と前妻の兄)を連れて日本へ再移住した。
 
 こういうことができたのも家が裕福だったこと、そして国語家庭の出身なので日本人と変わらない日本語が話せたからだ。しかし、こういう台湾人を批判する台湾人も多い。多くの台湾人が海外へ逃げたくても逃げれなく、国民党による恐怖政治に我慢して生きてきたからだと思う。

 前妻のお母さんは子供には将来、台湾の従兄弟達とコミュニケーションを取るために、中国語を身につけさせたほうがいいと思い、子供達を東京中華学校へ入学させたが、妻が小学1年生の時、前妻の兄が3年生の時、お父さんに「自分の子供に中国人の言葉は身につけさせたくない!」と言われ、中華学校を強制的に辞めさせられた。だから二人とも幼い頃に話していた台湾語と中国語は忘れてしまった。

 日本社会では外国人の子供でも日本の学校で教育を受ければ日本語が母語になってしまう。特に親も日本語がちゃんと話せれば...。前妻の兄は早々と日本に帰化していたが、前妻は未だに帰化していない。 帰化してパスポートまで日本になったら自分が台湾人である証明が何も無くなる気がするからだと言っている。

 前妻のお祖父さんは戦前の台湾で1,2を争う大富豪の出身で、5歳くらいの時から親元を離れ東京の日本人宅へ寄宿させられ、大学卒業まで東京で過ごした。その関係で前妻のお母さんは東京で生まれたのだ。お祖父さんは中国語も台湾語も話せなくて、台湾に戻ってからは高校の英語教師をしたそうだ。

 1947年の228事件の時に外省人同僚教師がお祖父さんの自宅にこっそり侵入し隠れた。それを近所の住民に見られ、外省人を匿ったとみなされ、お祖父さんは近所の住民からリンチを受けた。数日後に誤解したお詫びにと宴会に招かれ、食事をしてお酒を飲んだ。しかし、自宅に戻った後に具合が悪くなって急死した。住民はリンチしたことを公表されたり、警察へ知らされるのを恐れ毒殺したのかもしれない。

 僕は前妻のお母さんにその事を警察に知らせたんですか ? と聞いたら、当時は政府も警察も地域住民も信用できなかった。だから泣き寝入りするしかなかったと言っていた。当時、前妻のお祖父さん以外はすべて女性だけの世帯だったので何もできなかったとも言っていた。

 お祖父さんが狙われたのは実家が台中の霧峰林家という先祖代々豪族の家系出身だった関係で、お祖父さんは戦後、中国国民党政府側についているのでは ? という一般住民の疑惑もあったようだ。お祖父さんの一族の中でも特に有名な人物(台湾の歴史書に必ず名前が登場する)は林獻堂(林献堂)で、日本の貴族議員にもなった人だが、228事件後に日本へ亡命していた。

 前妻のお母さんが東京での生活も落ち着き、時間が出来た時に林獻堂さんへ挨拶に行った時には亡くなった直ぐ後だったらしい。亡くなる前にお母さんのお祖父さんの名前を盛んに口にして、会いたい、 また一緒にお酒を飲みたい ! と言っていたとお世話をしていた人に伝えられたそうだ。

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