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細川興元の洗礼名について


細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
義理の姉が戦国時代のキリシタンとして有名な細川ガラシャです。
その影響もあってか、興元も1594年の夏にキリシタンの洗礼を受けています。

丹後の国の雄々しいキリシタンであるガラシャの改宗のことは、過ぎた年々に詳しく報告されたことであるが、彼女は非常な熱心とりっぱな模範とをもって人々に先じている。
彼女は夫に知らせずに、ひそかに一人の息子(興秋)に洗礼を授けた。
この息子を彼女の義弟にあたる、すなわち彼女の夫の弟が養子にした。
この子供の洗礼のお恵みは深く養父(興元)の肝に銘じて彼(興元)をキリシタンにしたように思われる。
彼(興元)は、この子供を通じて、自らガラシャに一書送り、その書簡に自分がキリシタンになったこと、また世の中にこれにまさる善いことはないから、ガラシャも子供たちもろとも、同じくキリシタンになる準備をするように、ということを書いている。                  
また、一番先にキリシタンにならなければならないのは、自分の養子である。
自分はガラシャやその子供たちや、子供たちを育てた人々がキリシタンであるか否か知らないが、この子が眠りながら幾度もゼズス・マリアの聖名を呼びかけたことを、子供たちを育てた人が自分に話してくれた。」
(1595年9月30日付オルガンティーノ書簡)

キリシタンとなった興元は洗礼名を「ジョアン」と定めたことが同じ
1595年2月付のオルガンティーノ書簡に記されています。

…が、このジョアンという洗礼名、甥っ子の興秋と被ってるんですよね…!!!



洗礼名、なんで被ったんだ?


先述の通り、興元が洗礼を受けた当時、興元は自分の養子である興秋がすでに洗礼を受けてることは知らなかったわけです。

「ジョアン」という洗礼名は戦国時代の洗礼名でいうとメジャー(?)なもの。
そこまで珍しいものではありません。
他にも内藤如安、明石全登、天草久種などジョアンという洗礼名を持つ武将がいます。

にしたって普通、近親者の洗礼名が被るなんてことはあるのか…?という疑問が残ります。

偶然にも被ったのか、わざと被せたのかのいずれか。
前者なら、興元へ洗礼を授けた宣教師も興秋が洗礼をすでに受けている事情を知らずにたまたま被ったということになります。
それだけ秘密裏にされていた事情なのかもしれません。

細川家のキリシタンがどれくらいいるのか知ってたら丸被せすることはしなさそうですしね。



戦国武将の洗礼名ってどうやって決まってるんだろう


そもそも、戦国時代に洗礼を受けた人たちの洗礼名はどうやって決まっていたのでしょうね?

現代では、洗礼名の選び方は主に

・祝日や記念日が自分の誕生日や洗礼を受けた日と重なってる聖人
・好きな聖人や縁のある聖人


のようです。
戦国時代も同じような選択基準だったのかと仮定してみると、面白いかもしれません。

▽参考サイト



洗礼名から洗礼の時期を仮定してみる


まず最初に興秋が洗礼を受けた時期を仮定…というか妄想してみます。

1587年11月7日付で、ガラシャはセスペデスへ興秋を洗礼させたことを記しています。
この日付前だと仮定していくと、
聖人カレンダー見てみると8/29、9/13、10/20、10/23にヨハネって名前の聖人がいるみたいです。

1番近況報告として近い10/23の聖ヨハネが由来になっている可能性があるのかな?と思いますが。!
そもそも元々の聖人の名前にあやかった人にゆかりのある日を記念日とするのか?も疑問なんですけれどね…!!

次に興元。
興元については1594年夏に洗礼を受けています。
6/24は本家本元のヨハネの誕生日。8/29はヨハネの殉教日です。
二十四節気で考えると8月はすでに秋の区分になるので、6/24辺りが濃厚かなあと。



あとこれは完全に妄想なんですが、興元が改宗決心したのって興秋の寝言がきっかけなんですよね。

興秋が寝言で何を言ったかまではわかりませんが、「ジョアンが…むにゃむにゃ…」みたいなこと言っていて、乳母からの報告を聞いてから宣教師との話に上がり、それがきっかけで洗礼名が決まった可能性もあるのかな~なんて思いました。

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