細川家の刀剣:希首座
忠興の差料の一つである「希首座」について紹介していきます。
綿考輯録より引用。
希首座
ざっくり現代語訳
慶長十一年二月中旬、大徳寺の希首座を仔細ありて御手討ちになされた。
このことにつき、大徳寺の僧衆たちは板倉伊賀守まで訴状を届けたが、伊賀守殿が仰せにならないまでも越中殿の身体をぜひ亡くし申すべしとのことだった。
が、それほどまでに強く思われているなら江戸へも御訴訟するべきだ、大徳寺にかえても越中の身体を潰したいのか、よもや公儀に触れるようなことではないだろうな、と取り付く島もなく自ら泣き寝入りした。
このことにつき、希首座の弟・速水孫兵衛を御成敗仰せつけられた。
仕り手は松山権兵衛と松岡久左衛門である。
江戸城不振の石場である伊豆の国宇佐美にて手討にした。
ざっくり現代語訳
一書によるとこのことは慶長十九年二月のことだという。
しかしながらその頃は忠興君は江戸におられたため、希首座手討ちは江戸ではなく御国にての事だと見受けられる。
ざっくり現代語訳
また、一説によるといつのことだか妙心寺の吉首座と熊本霊雲院の住持になった僧・金西堂が、話しているときに三斎君が信長の刀で吉首座を切って落としたという。(略)
かの吉首座は筑前のほうに密状を遣わした罪と小姓を「かうだいつめのたはふれ」にした罪があったという。
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