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細川家の刀剣:希首座

忠興の差料の一つである「希首座」について紹介していきます。
綿考輯録より引用。

希首座


綿考輯録巻十八

慶長十一年二月中旬、大徳寺の希首座を子細有て御手討被成候、
此事ニ付大徳寺の僧衆、板倉伊賀守殿迄訴状を上候へハ、伊賀守殿仰せニならぬ迄も、越中殿の身体を是非亡し可申と何も被存候哉、
夫ならバ一山江戸へも御訴訟有へし、若又夫程迄強く不被思候ハヽ御分別あるへし、大徳寺ニかへても越中殿の身体を御潰し可被成と、よもや公儀ニ被思召ましきと存候と被仰しニより、自ら泣ねいりに成し也、
此事に付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰付候、仕手ハ松山権兵衛・松岡久左衛門ニて候、江戸御普請の石場伊豆国宇佐美ニての事也、
諸国の者入込にて候間、騒敷無之様ひそかに仕廻可申旨ニて、益田蔵人宿ニ夜中ニ孫兵衛を呼寄候処、間二油火有之を権兵衛飛越手籠ニいたし、久左衛門突申候、

ざっくり現代語訳

慶長十一年二月中旬、大徳寺の希首座を仔細ありて御手討ちになされた。
このことにつき、大徳寺の僧衆たちは板倉伊賀守まで訴状を届けたが、伊賀守殿が仰せにならないまでも越中殿の身体をぜひ亡くし申すべしとのことだった。
が、それほどまでに強く思われているなら江戸へも御訴訟するべきだ、大徳寺にかえても越中の身体を潰したいのか、よもや公儀に触れるようなことではないだろうな、と取り付く島もなく自ら泣き寝入りした。
このことにつき、希首座の弟・速水孫兵衛を御成敗仰せつけられた。
仕り手は松山権兵衛と松岡久左衛門である。
江戸城不振の石場である伊豆の国宇佐美にて手討にした。


考ニ一書、此事慶長十九年二月之所に出(松岡か家記も同之)、乍然其比ハ忠興君御在江戸也、右希座主御手討江戸ニての事ニてハなく、御国ニての事と見へ申候、いつれニ江城御普請之年ニて候間今年なるへきか、
既ニ速見孫兵衛を仕者ニ被仰付候ハ、伊豆国宇佐美石場ニてと有之、諸侯方伊豆より石を被運候事編年集成ニも見へ申候

ざっくり現代語訳

一書によるとこのことは慶長十九年二月のことだという。
しかしながらその頃は忠興君は江戸におられたため、希首座手討ちは江戸ではなく御国にての事だと見受けられる。


又一書、希首座御手討ハ泰巖寺ニ逗留の節也、豊前か肥後か不分明、泰巖寺其時ハ大徳寺か妙心寺かの派也しかとも、此節より曹洞宗ニ成申由と云々、

又一書ニ、いつの比にや妙心寺の吉首座并熊本霊雲院の住持に成し僧金西堂下り御咄の序に、三斎君御刀信長を抜て吉首座を切て落し給ふ(…)彼吉首座ハ筑前の方に密状を遣したる科共いひ、御児扈従衆をかうだいつめのたはふれの科共いふ、

ざっくり現代語訳

また、一説によるといつのことだか妙心寺の吉首座と熊本霊雲院の住持になった僧・金西堂が、話しているときに三斎君が信長の刀で吉首座を切って落としたという。(略)
かの吉首座は筑前のほうに密状を遣わした罪と小姓を「かうだいつめのたはふれ」にした罪があったという。

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