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障害の受容

「障害者の親は、前向きで明るく頑張り屋さん」というイメージを持つ人がいるらしいのだけど、それは前向きで明るく頑張っている人が、発信力が強くて目立つからだ。

そして、その人達も、明るく頑張る以外の道がなく、強制的にそうならざるを得なかった、という事情があったりする。

障害の受容というのは、そう簡単なことではない。

うちの2番目の子、ニンタは障害と持病があって、その患者会で「障害受容の段階について」と文献を紹介してもらったことがあった。

研究者によって表現や線引が違うし、個人の性格や症状によっても違うとは思うけれど、例えばこんな風に言うらしい。

①ショック期:自分自身に何が起こったか理解できない状態。

②否認期:自分の障害から、目を背けて認めようとしない時期。

③混乱期:「怒り」・「悲しみ」・「抑うつ」などが現れる時期。

④解決への努力期:様々な事をきっかけにし、病気や障害に負けずに生きようと努力する時期。

⑤受容期:自分の障害をポジティブに前向きに捉えられるようになる時期。

さらに、障害者本人と保護者とでは、段階の踏み方が違うそうだ。

私はどうなのか。保護者として、今、どの段階にいるのか。ニンタの障害に対して抗いたい気持ちはもうさすがにないし、不幸であるとも思わない。なんなら、この病気に愛着すらある。

でも、全てを受け入れられたのかと言えば、決してそうではない。ニンタが成長して、新しい場面に立ち会う度に動揺するし、その度に、「まだこんなことで私は動揺するのか!」と、自分自身に驚く。

前置きが長くなったけれど、ニンタが2年生になり、その動揺を感じた時の話。

ニンタは小学校の支援級に在席していて、国語と算数は支援級、それ以外は交流級で学んでいる。

小学校に入る前、ほとんど読み書きが出来なかったニンタだけれど、先生の辛抱強い指導とニンタのやる気により、一年間でひらがなを全て読み書き出来るようになった。これは予想以上のことで、私も先生と喜びあった。算数に関しては、数の概念がやはり難しいようで、10より小さい数の足し算にとどまっている。

教科書は、みんなと同じものを使い、国語は漢字にフリガナをつけて読んだ。算数も使えるページは使うこともあるのだろうが、基本的にプリントを用意してもらって勉強してきた。

しかし、2年生からは、少し違う。遡ること一年前、入学してすぐ、先生から「2年生の教科書について決めてほしい」という話があった。教科書には、通称「星本」という、☆のマークがついた教科書があって、養護学校や支援級など、その子の進度に合わせて選ぶことができる。その星本と、2年生用に用意されている教科書、どちらを購入するか、前年の6月までに決めないといけないと言う。

「2種類どちらも購入して、星本を使った後に、通常級の教科書を使うこともあります」とのことだし、なにしろ小学校に入学したばかりで、来年の事など見当もつかない。私は「2種類、両方購入」を選んだ。というか、それしか選びようがなかった。

そして、ニンタは読み書きに関しては、一年間で相当の伸びを見せた。しかし、というか、当然、というか、2年生になって初めての懇談会で私に渡された教科書は、「星本」だった。

星本の内容は、一年生で使っていた教科書よりも、数段易しい内容になっている。○、△、□、などの運筆の練習ページなどもある。ニンタは記号を書くのもまだ苦手だから、ニンタに合った、適切な教科書と言える。

だけれども。

一年間でものすごく伸びた(と私からは見える)ニンタが、また後戻りをしてしまったような錯覚。いや、今まで合わない教科書でやってきたのだから、環境がより良くなっただけなのに、なんだ、この動揺は。

私も、まだまだだな。こんなことくらいで動揺するなんて。

私もさすがに、そういう気持ちを見て見ぬ振りはしない。すぐに自分自身で確認して、向き合えるくらいにはなっている。

私はいつも通り、その気持ちをしっかり読み込んで、丁寧にたたんで心にしまった。

でも、話はそれで終わらなかった。ニンタは2年生になったことがとても嬉しいのだ。春休み中「いつ2年生になるの?寝ている間になるの?」と気にしていたくらいで(正確には4/1から2年生扱いなので、春休みの3/31深夜、日付変更と共に寝ている間に2年生になる。ニンタが正解だ)だから、新しい教科書も、とても嬉しいものだった。

「おかーさんっ、見て見てっ!新しい教科書なのっ!あ、いっちゃんも新しい教科書持ってる!いっちゃん何年生になったの!?ニンタはねえっ、2年生なの!おかあさん、算数と国語、どっちの教科書が好き?ニンタはこのヒマワリの方が好き!」

と、たいそうな興奮だ。

私が、動揺してしまった星本を、大喜びで見せてくるニンタ。6年生のいっちゃんは、もちろんその教科書が一般的な2年生のそれではないことを知っている。私といっちゃんは「良かったね、新しい教科書嬉しいね、ヒマワリ、かわいいね」とニンタの言葉を受け止めたが、なんだか二人でニンタを騙しているような気分だった。

支援級に一年間がっちり通って、特別に配慮された教育を受けていながら、教科書ごときで動揺するのかと、理解できない人もいると思う。私も、我ながらくだらないと思う。

でも、いつかニンタが教科書のその☆マークが意味するところを理解したとき、何か劣等感を感じてしまうのではないか、ニンタは障害を受容しているようで、実はまだあの大変な階段の一段目にも立っていないのかもしれない、という不安が襲ってきて、動揺せずにいられなかった。

ニンタは、「自分は少数派なのだ」という認識はしっかり持っていると思う。給食が違う、通う教室が違う、出来ることが違う。でも、それを嘆いたことは一度もない。物心ついた時からそういう環境なのだから、それが当然だと思っているのかもしれない。

でもニンタも少しずつ大きくなっていく。何故自分は周りと違うのか?と疑問に思ったり、疎ましくなったりするかもしれない。生まれ持った障害とはいえ、そのとき、今と同じでいられるのだろうか?

もし、ニンタがその壁にぶつかったとしても、きっと私にしてやれることはほとんどない。ニンタが自分の力で階段を登るしかない。それは、今まで味わったことのない、新しい種類の苦しみだな、と思う。

ニンタは7歳。病名が確定してから3年。わずか3年。

だから、私は「障害の受容が出来ました」なんてことは、とても言えない。これから次々新しい事が起こるのだから。

受け入れてはいるけれど、いちいち動揺はする。それが、今の私です。何段階目にいるのかは、知らない。




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