夢にはばたけ、きょうだいよ。
ニンタの病気が一生治らない、とわかってから、当然私もニンタの将来を案じるようになった。大人になってから、ニンタはどうやって生活していくのだろう。
そんな話題を出すと、自分の知っている例として、身近な障害のある人の話をしてくれた人がいた。
「ご近所の親子で、お母さんに障害があるんだけど、お母さんのきょうだいが手伝いに来てて、それで子育てもできてるみたいだよ。だから、将来は、いっちゃんがそんなふうに手伝ってくれるんじゃないかな」
いや待って。それいい話?私を安心させようと話してくれたのはよくわかったが、私はその場で否定した。
だって自分のことで考えてみて欲しい。勉強だって、仕事だって、自分のことだけでも精一杯ではなかったか?そこに「きょうだい助けたい」もセットでついてくる?そうしたら、やりたいこととか自分に合ってるとかじゃなくて、「きょうだいを助けるゆとりがもてる仕事」が第一条件になってしまわない?
結婚だって、自分の好きになった人が自分を好きになってくれて、結婚までするって、ものすごく奇跡的で、確率低くて、高難易度なのに、「一生、障害のあるきょうだいを助けていきたい」というオプションを提示しなくちゃいけないの、かなり不利だと思うのですが。
結婚は、お互い好きでするんだから、障害のあるきょうだいがいても、気にしないよ、協力するよ、という人はいるだろう。でも、その親や親戚は?結婚って、いまどき本気でそんなこと言うか?と驚くような古い考え方の登場人物が、いきなり出てくる可能性ありますよね、なぜだか。
もちろん、きょうだいが病気だったので、そこから興味を持って看護士になった、とか、障害のあるきょうだいに優しかったから、結婚したいと思った、とか、きょうだいに影響を受けるのは、自然なことだと思う。
でも、それを親が希望するのは違うんじゃないか。
私がそんな疑問をもっていたとき、知人から『しぶたね』という、きょうだい児サポートをしているNPOを教えてもらった。「きょうだい児」という言葉を知ったのも、ここが最初だった。
障害のある子がいると、家はその子を中心にまわらざるを得なくなる。疾患があれば、通院や入院が続く。幼いきょうだいは、その通院に一緒に行くしかないので、多くの時間を、病院の待合室で1人で過ごすのだと言う。
大きくなってくると、親の対応の違いにも気付く。例えば、「私はテストでいい点をとってもたいして誉められない。でも、障害のあるきょうだいは、トイレをしただけで誉められる」。
「私たち、親が死んだあとは、あなたがきょうだいの面倒をみるのよ、よろしくね」と、ストレートに言われた人の話。一生結婚はできないんだな、と覚悟したと言う。
耳が痛い。我が家もニンタを中心にまわっているし、入院も多い。ニンタは出来ないことが多いから、出来ることが増えたときは、喜びも大きい。
私は、この「きょうだい児」の問題は、親の愛があれば大丈夫とか、親の背中でわかってくれるとか、そういう精神論で片付けてはいけないことだと思っている。
自然に任せて生活すれば、障害のある子に比重がかかるのは当たり前だ。だから、もっと冷静に、システムとして、こども時代の不公平感を減らすことが必要だ。
将来に関して言えば、経済的な負担も、時間の制限も、きょうだいになるべくかからないように、親が元気なうちに、福祉とつながっておくとか、制度を勉強するとかして、きちんと整えておくべきだと思う。
一方で、夫は私と同じ考えではない。夫も親の事業が大変だったことから、若いうちからずっときょうだいで協力して家庭を支えてきた。それは夫のやる気やエネルギーにもなったのだろう。そういう苦労があったからこそ、今の夫は自分の能力を最大限に使えたし、そのおかげで、今の仕事にもつけたのかもしれない。
だから、夫はきょうだいは助け合って生きていってほしい、と常々言っている。
父親と母親は、子育て方針や人生観を一致させなくてはいけない、とは思わない。むしろ、違っていた方が、子の選択肢が増える良さもあるだろう。私も夫の考えには一部なるほどな、と思うところもある。
そもそも、障害がある場合、その家族が面倒をみるべき、という社会的な圧力が問題なのだ。もちろん、愛情があるから、自分ができることはやりたいと思う。放っておけない。でも、それはそれぞれの自主性に任せるべきで、例えば「やりたいことが海外にあるので、自分は参加しません」という人がいたとしても、それは責めるべきではない。
偉そうにいろいろ書いたが、私はまだこの「きょうだい児問題」のスタートに立ったばかりで、うちのきょうだいも、見事に「きょうだい児の苦悩」をくらっている。はっきり言って、きょうだいの不公平感をなくすシステムも出来ていない。そのときそのとき、思いついたときにだけ、「あっ!フォローしなきゃ!」という付け焼き刃的な対応が、たまにある程度の家だ。
それは、その、ごめん。
でも、お母さんは考えてるから。考えるのをやめないから。今は雨漏りだらけの家で、あっちが濡れたら穴を塞ぎ、こっちが濡れたら雑巾で拭く、その繰り返ししかできないけど。
もともとが脆い家だから、ピカピカの豪邸にはならないけど、「なんだかんだで、ウチは落ち着くよね~」と言えるくらいのところは目指したい。
先日、いっちゃんの学校から、こどもの成長を祝って親から手紙を書いてみましょう、というお知らせがあった。
私は、あまりうまく伝えられなかったが、こんなことを書いた。「いっちゃんは、得意なことがたくさんあるので、もしかしたら、たくさんの人を助ける力があるかもしれません。でも、いっちゃんの人生はいっちゃんのものです。何か迷ったときは、どちらが自分がやりたいか、楽しいか、で選んでほしいと思っています。いっちゃんの喜びはみんなの喜びです。楽しい人生を」
いっちゃんは「んー、もう少し大きくなったらまた読むね!」と言った。いや、あなた、プリントとか全然整理できてないけど、その手紙なくさないでいられるかしら、と思ったのだけど。
大丈夫、その手紙なくしても、お母さん何度も同じことを言うから。もちろん、今は小さいミコにも。本当に、大切なことなので、何度でも言いますよ。
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