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竜とそばかすの姫感想 ~細田映画は子どもの夢から中年ヲタクの灰皿の中へ~

※一部ネタバレを含みます

 僕は自称として、細田信者を名乗っている。

 中学生の頃、映画館で観た「サマーウォーズ」の感動は今でも忘れない。あれこそ、それこそ、自分が薄汚いヲタクと成り果てた今日までの中でも、最高に面白かったアニメだと言える。
 当時は「行政の手続きも一つのインターネットアプリでできるなんて突拍子もない発想だ」と子どもながらに一蹴したものだが、技術の進歩とは恐ろしいものだ。ともあれ、迫り来るインターネットの未来を予想し、まさに「近未来エンタメ」を描き切った細田監督の手腕は、特筆すべきものがあるだろう。

 「おおかみこどもの雨と雪」も良かった。前作とのギャップに驚き、受け入れられなかったという声もよく聞いたものだが、自分にはとても刺さった。人間のコミュニティの中で生きられなかった三人が、成長を通じてそれぞれの居場所を見つける。姉弟がそれぞれの道に向かって歩き出す中で、一人母親だけが取り残される。なんと悲しい運命であろうか。しかし、これはまさに現実なのだ。

 異変を感じたのは「バケモノの子」あたりからだろうか。周りの細田信者からもどうも批判が目立つ。僕も観てみたは良いものの、どうも今までと毛色が違う。当時はど違うのかについて説明できる能もなかったので、ただ自分の心に芽生えたゲジゲジみたいな違和感を追い払ってやろうと、何度も映画館に足を運んだ。結論としては、やはり面白かった。「サマーウォーズ」に次いで面白かったと言っても過言ではない。

 違和感が決定的になったのは、「未来のミライ」だろう。2回ほど映画館に足を運んだのだが、正直内容もあまり憶えていない。10年前に観たサマーウォーズは今でも鮮明に内容を憶えているというのに。

 だが、それでも僕は細田を信じていた。あのサマーウォーズの感動を、きっと細田ならもう一度創りあげてくれると、サンタを待ち焦がれる少年のように祈り続けていたのだ。細田の映画は波がある。良不良不(実際はおおかみこどもの雨と雪を不作だなんて思ってもいないが)とくれば、次は良作がくるに違いないと渇望していた。

 待望の新作発表。タイトルとコンセプトを観たとき、僕の背中に冷や汗が走った。これは、まずいのではないか…?どうにも嫌な予感がして抜けない。それでも待ちに待った新作だ。僕の心が躍り上がったのは間違いない。在宅で疲れ切った精神にも熱が入る。観にいく直前の仕事はとてつもない捗り様だった。

 さて、それが先週の日曜日の話。映画館を出て、僕がTwitterに呟いたのはたった一言
 「細田は死んだ。」

 まず最初に断っておくと(とはいえ、もう語り始めてからしばらく経つが)、本作は非常に挑戦的で、且つ挑戦に対して一定の成功を収めている作品であること、アニメ映画ならではの武器を存分に活かし切った作品であるということは評価している。
 既に現実となりつつあるような次世代のインターネット社会を想像し、そこから生まれる物語を描くのは「サマーウォーズ」と一緒のコンセプトである。インターネット上の匿名性を「変身」と紐付け、そこから野獣の呪いに話を派生させる発想から、新しい美女と野獣を表現する発想は類稀なるものである。そしてその発想より、「ディズニー」作品を自分に取り込んでしまおうという恐ろしく大胆な挑戦は、日本のアニメ界に一つ開拓地を作ったと言っても過言ではあるまい。
 アニメ映画の強みを活かしている点、これは映像美と音楽の素晴らしさに尽きる。細田のアクション映画の魅力の一つである、3DCGのファンタジー表現と2Dの人間描写のバランスは今作でも健在だ。巨大インターネットSNS「U」の世界を、映画館のスクリーンの描写限界を使う勢いの細やかさと迫力で、とても魅力的に表現している。今作をもし観るのなら、間違いなく映画館で視聴することをお勧めしよう。
 「竜とそばかすの姫」は、今までインターネットを肯定的に描いてきた細田にとって、初めておおっぴらにそのマイナス面を描いた作品であるとも言える。匿名という名の変身は、誰しもをベルにも野獣にも、ガストンにも変えてしまう。しかし一旦インターネットから離れてみたとき、人は自分の手の届く範囲でしか世界を変えられないことに気づく。まさに我々の生きる世界でもその通りだ。
 多くを紹介するのは割愛するが、要するに「竜とそばかすの姫」とは、次世代の繋がり、インターネットの変身性を基礎に、新しい美女と野獣を描く、というコンセプトを見事に成立させている、細田映画の新境地とも言える作品なのだ。


 そ ん な も の は 僕 は 細 田 映 画 に 求 め て い な い 。


 細田映画の魅力とはどこか。それは僕は「藤子不二雄作品」に繋がると思っている。
 藤子・F・不二雄先生がSFのことを「少し・不思議」と表したのは有名な話だが、これは藤子作品の魅力の根幹にあるとも考えられる。日常の生活の中に、一つの非日常が入り込んでくる。するとこの作品では、日常と非日常が混在したまま、中途半端なSFが物語として始まるのだ。通常と異常が曖昧になる、もしくは、日常が非日常を飲み込んで歪な日常が誕生する、と言い換えても良い。この独特な世界観は、細田作品の全てに共通すると言える。「インターネット」「化け物」「異種」「時間跳躍」という非日常を内包して、主人公の現実を描くのが細田作品のセオリーだ。

しかし、壮大に見える細田作品も、紐解いていけばその構造は実にシンプルだ。サマーウォーズならば、
・強大な敵(ラブマシーン)に対して、陣内家族の絆をもって、世界を救う話。
 嗚呼、なんと単純明快か。字面だけ見ればあくびが出そうなほどだ。しかしこれが面白い。なぜか。それは単純だからだ。ストーリーや伏線、細かい描写を注意深く観察していかなくても、物語を紐解くことができる。観客がストーリーに集中できる。笑いたい部分で笑い、怒りたい部分で怒る。泣きたい部分では泣ける。視聴者は小難しいことは考えず、細田守の映画を存分に楽しむことができるのだ。そしてなお余力が残った分を、話の世界観を解釈することに割ける。本編で描かれていない世界の傍流を、視聴者が想像することができる。

そして細田作品は、映像の作り込みや音楽に対しての作り込みがすごい。たとえストーリーが単純だとしても、そこが作品を補強してくれるので、何度観ても面白い作品に仕上がる。
 これこそ、新海誠でもない、片渕須直でもない、それこそ宮崎駿でもない、細田守のアニメの強みだと僕は思っていた。特徴的な世界観、面白いストーリー、壮大な映像で素直に殴る「真っ向勝負のエンターテインメント」と表現させて欲しい。

 長くなったが、話を「竜とそばかすの姫」に戻そう。今作を僕は「究極の足し算映画」と表現したい。本作を構成する題材は「次世代のSNS」「匿名性の光と闇」「主人公の過去からの脱却」「主人公たちの青春」「美女と野獣」「つながり」などである。そしてこれらを、あえて馬鹿正直という言葉を使おう、馬鹿正直に詰め込んで創りあげたバベルの塔が、竜そばだ。

 映画の中では、これらの題材を表す大小さまざまな要素が、入れ替わり立ち代わり、隠れもせずにやってくる。観ている我々は、まるで一つの映画の中で二つや三つの別の話が同時に進んでいるような、気持ち悪い感覚を覚える。一体どれが映画の本筋なのかがわからなくなってくるのだ。
 視聴者は必死に、この映画の本流がどこなのかを血眼で探そうとする。見つけたと思ったら突き放され、掴んだと思ったら落とされるの繰り返しだ。竜を救うために東京に出向いたと思えば、すぐに帰ってきて青春の夕焼けを映す。最後は「親子」という究極のつながりを取り戻して終わる。最後まで気の抜けないジェットコースターだ。映画館から出る頃には客の脳は疲れ果てているだろう。

 アニメ映画としてこのやり方が駄目というわけではない。むしろ、挑戦的と褒められることもあると思う。しかし、僕がここまで長文のお気持ちを表した根幹は、先ほど述べた繰り返しになるが、細田映画にそんな小難しい解釈を求めていないということに尽きる。
 そんなものは新海や片渕や宮崎に任せておけばよろしい。

 宮崎駿は、「アニメは子どものものだ」という信念を持ち続けて作品を作り続けたらしい。素晴らしいと僕は思う。そうあるべきだと賛同したい。宮崎駿の作品こそ、物語や映像の中にさまざまな要素を入れて、メッセージを表現していることは既に知られた話ではあるが、宮崎映画の優れた点とは、様々なメッセージ的要素を内包しつつも、子どもが観て楽しめるように創りあげていることにあるかと僕は思う。

 子どもが楽しめる作品とは、通じて大人も楽しめる作品に仕上がる。その先の裏のメッセージやモチーフなどの都市伝説じみた考察は、それこそ僕のような捻くれたヲタクが勝手にやっていればよろしい。

 しかし、「竜とそばかすの姫」を観た子どもが、並行して展開する話の題材を処理して理解し、そこに対して考察を繰り広げられるだろうか。次世代SNSの光と闇について思案し、作品のメッセージ性を紐解いて本作を評価するだろうか。本作には、子どもたちの姿が消え、対照的に、醜く卑屈に育ってしまった我々ヲタクの理屈じみた批評が浮き出てきているように思えてならない。

 かつて細田監督の映画は、間違いなく子どもたちのものだった。しかし今や細田映画は、煙草をふかして批評家じみた論争を繰り広げるヲタクたちのものになってしまった。「竜とそばかすの姫」は、彼らの間に積もる灰皿の灰のようだ。

 僕は細田信者を名乗るのをやめない。いつか彼の映画が再び子どもたちの手に戻ることを信じてやまない。あの日、子どもの僕が観た感動がいつか次の子どもたちにも訪れることを願ってやまない。

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