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祈り虫たち【小説】


     ばらばら

 日曜の午後。茶の間から避難して来た由衣(ゆい)は、庭に面した縁側に腰掛けて、足をぶらんぶらんさせている。
「木蓮(もくれん)が咲くのは、春だろ!」
「真一さんはいつもそうだ。私に断り無く、勝手に!」
 お父さんとおばあちゃんの争う声を背中で聞く。さっきまで、ふたりは庭で怒鳴り合っていた。お父さんが、木蓮の枝を切っちゃったからって。お母さんの「せめて、家の中でやって下さい」というお願いで、茶の間になだれ込んできた。由衣は、見たくないけど気になるから、縁側に座っている。九月の終わり。おばあちゃんが植えた、コスモスのピンクや、りんどうの紫がきれい。勝手に切って花瓶に活けたら、おばあちゃんは怒るだろうか。怒らない。由衣だから。でも、同じこと、お父さんがやったら、大激怒なんだよね。
「棗(なつめ)の樹に張り出して、邪魔していたんだ。じきに実を収穫するから、日が良くあたるようにじゃないか」
「まったく! 木蓮をこんなに無様にしてしまって。私がもっと早く気づけば。なんて酷い人なんだろう」
「庭のためにやってんだぞ。いちいち文句ばかり並べやがって」
「この家は、私が建てたんだ。土地も私が」
「いいかげんにしろ!」
 いつもそうだ。お父さんとおばあちゃんが一緒にいると、喧嘩が起こる。お父さんから手を出すことはないけれど、おばあちゃんは、お父さんを蹴っ飛ばす。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
 おばあちゃんの挑発を受けて、お父さんが湯飲みを床に叩きつけた時は怖かった。あの時は、しぶきがおばあちゃんに飛んで「火傷させる気か」と、大騒ぎになった。お母さんは、「やめてやめて」ばかりしか言わない。お母さんは由衣と二人きりの時、「間(あいだ)に入って、いちばん辛いのは私」と、愚痴を言う。やけに大きなため息をつく。おばあちゃんたちが喧嘩した次の日のお母さんは、いらいらしてて、どうでもいいことで由衣を叱る。「ああ、嫌になる」が口癖だ。おばあちゃんは、お母さんのお母さんで、おばあちゃんの言うことには、おばあちゃんが全部用意してあげて、お父さんがムコに来たそうだ。おばあちゃんは、お金持ちらしい。由衣のピアノも買ってくれた。由衣は、おじいちゃんを知らない。おじいちゃんは死んだの? お墓はどこにあるの? と聞いた時、おばあちゃんの顔が、きつねみたいにつり上がった。とても怖かったから、それから二度と聞いていない。
 お休みの日の喧嘩が嫌で嫌で、ぐったりと疲れてしまう。家族全員集合の日は、大嫌い。気がつくと歯ぎしりをして、あごが痛くなっている。由衣がもっと小さい時、月曜になるとよく熱を出して幼稚園を休んだ。日曜を乗り越えると、熱が出るのだ。幼稚園の先生は、「由衣ちゃんは、日曜に遊び過ぎるのかな」って、言ってたっけ。小学三年生の今は、熱は出ない。
 棗(なつめ)──実を採ったら、お母さんが果物ナイフで一個一個むいてくれる。まだ色がついてないのかな。来週かな、再来週かな。ぽそぽそして、甘さのたりない小さな実。だけど、楽しみな実。乗り出して、棗(なつめ)を見る。実の色がよくわからない。立ち上がると、芝生の上に大きな枝ばさみと並んで、小さい植木ばさみが置きっ放しになっているのが見えた。
 庭に下りるくつぬぎ石まで移動する。石の上には、大人用のサンダルと、由衣のサンダルが並んでいる。お父さんがさっき脱いだ運動靴は、足の先を家に向けて地面で転がっていた。自分のサンダルを引き寄せた由衣は、こちらを見上げている緑の虫を発見した。
「かまきり!」
 歓びで小さく叫ぶ。由衣は、かまきりが好きだ。特に、怒ってるのが好きだ。かまきりが怒りだすと、怒れ怒れ、もっと怒れ! と思う。怒るほど、わくわくする。由衣に抵抗したって、絶対無理に決まってるのに。勝ち目がないのに。
「そもそも真一さんは、鈍感なのよ」
 おばあちゃんの声が、やけにゆっくりはっきり聞こえた。そのあと小さくなったので、思わず耳を澄ます。
「ゆうべ、美佐江が苦しそうな寝息をたてていたのよ。風邪気味かも知れないって、親だからすぐにわかったわ。真一さん、気づいてやらないと」
 お母さんの話をしている。おばあちゃんは、お母さんを味方にしたいのかもしれないけれど、どうせお母さんは、どっちの味方にもならない。
 そっと、かまきりの前に人差し指を近づける。ぎざぎざのかまを揃えて、体を左右に揺らしはじめた。逆三角の顔が、由衣を睨んでいる。
「なんだと!!」
 お父さんの、大きな声。びっくりして指を振り上げると、かまきりは足を踏ん張り、かまを左右に広げて、翅(はね)をを大きく開いた。緑の翅の下から、茶色いレースのような翅があらわれた。
「お義母(かあ)さん。もう、隣の部屋に寝るのはやめてくれ。いいか、わかったか!」
「私の家の、どこに寝ようと──」
 そのあとは、お母さんの声も混じってごにょごにょ。声が大きくなったかと思ったら、また小さくなって、聞き取れなくなった。由衣は、一年生から自分の部屋で寝ている。おばあちゃんは、なんだかんだ言っても、いちばん寂しがり屋なのかもしれない。
 由衣は、もう一度かまきりに手を伸ばした。背中の方からつかみたい。上から手を動かせば、向こうも合わせて首の位置を回転させる。目と目の間でゆらゆらしている細くて長い触覚。小さな牙みたいなのが、もごもごする口。このままでは、背中をつかめない。どうしようかと迷っているうちに、かまきりは短く飛んでくつぬぎ石の近くに着地した。サンダルをつっかけて、そっと後ろにまわる。息を詰めて、がしっと緑の背中をとらえた。とたん、翅を広げてかま足をそらし、指をつかもうとしてくる。もがくもがく。三角の頭をぐりんと振り向かせて睨んでくる。こいつの頭は、真後ろに回るから、首の上の方を持つと噛まれてしまう。
「あきらめなよ」
 由衣は、小枝のような背を右手でつかんだまま、かまきりの正面をくるりと自分の顔に向けた。振り上げるかまが届かぬ所まで、顔を近づける。逆三角のてっぺんの端と端の目は、盛り上がってつやつやしてる。むきたてのそら豆のよう。
「怒れ。もっと怒れ。むだな抵抗だけどね」
 緑の目の中に、小さな黒い点がひとつずつあるのを見つけて、ちよっと怖くなる。
「ねえ。きみの首は、どこまで回るの」
 空いている左手でかまきりの顔をつかむ。
「痛っ」
 親指の先を噛まれ、ぽつりと赤い粒が浮かんだ。
「このっ!」
 ぐるりと回した。ぷっ、という頼りない感触のあと、小さな三角は胴体から離れて左手に移った。
「とれちゃった……」
 右手が、じわじわ震えるのに気づく。頭のとれたかまきりが、動いている。まだ翅を広げて、足を蹴り上げている。怒っている……かまや足の一本ずつが、別々の生き物になって、ばらばらに怒りはじめた。由衣は、ちぎれた頭を体に乗せようと必死になった。
 緑の三角は、地面に落ちて由衣を見上げた。
 胴体を、横に並べ、動かなくなるまで見つめていた。
 茶の間は、静かになったままだ。おばあちゃんとお父さんはしばらく口をきかなくなるのかな。怒鳴り合うふたりも、口をきかないふたりも嫌い。その繰り返し。今日の晩ご飯は、大人三人が由衣にばかり話しかけてくるってパターンだな。
 植木ばさみが転がっているところまで歩いて、はさみを手にして戻って来た。
 かまきりの胴体を持ち上げて、右のかま足をちょきん。左のかま足をちょきん。真ん中の足を二本。後ろ足二本。お腹から上と下。翅。ちょきちょき分けた。ばらばらにした。くつぬぎ石の上の、大人のサンダルを下ろして、石の上を手ではらい、綺麗にした。
 切り分けた部分を少しずつ離して、くつぬぎ石に並べ、かまきりの形にひろげる。最後に、三角の頭を、そっと置く。目がしっかり見上げているように。
「由衣は、どうした?」
お父さんの声がする。お母さんとおばあちゃんの声は聞こえない。急いで玄関に回ると、中に駆け込んで叫んだ。
「ここにいるよ!」 
 ばらばらのかまきりは、誰が最初に見つけてくれるだろう。お父さんかな。おばあちゃんかな。それとも、お母さん。
 誰でもいい。見つけてくれれば。

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      オオジガフグリ

 修一さんと公園を散歩していたら、小枝にかまきりの卵をみつけた。
「わ、懐かしい!」
 立ち止まって、手を伸ばすと、
「とっちゃだめだよ」
 私の腕を、そっとつかんだ。
「持ち帰ろうと思ったのに」
「そんなことしてみろ」
「知ってるよ。すごいことになるんだよね」
 小学生の時に、かまきりの卵をとってきて、大変な目にあったことがある。学校から帰ってくると、小さな小さなクリーム色のかまきりが部屋中に散らばっていた。生まれて間もない彼らが、飼育ケースの空気穴から抜け出していたのだ。生まれる瞬間を見逃したのが悔しくて、また川原の横の原っぱに探しに行き、卵をみつけて来た。母親に「いいかげんにしなさい」って捨てられちゃって、けんかになったんだっけ。
「今度こそ、無事に生まれさせてみせる。だから、連れて帰っていい?」
 笑顔を向けると、修一さんは哀しそうな顔をした。私はもっと笑顔をつくる。
「わかった。やめとく」
 ゴールデンウィークが終わったあとの平日に、有休をとった。人混みに行きたくなかったから。私たちは、卵の枝をはさむ形で話し続けた。
「雪が積もる土地だと、もっと高い位置に産むんだよね」
「花奈(かな)ちゃん、良く出来ました。と、言いたいところだが、あの学説は二〇〇八年に間違いであったと──」
 修一さんの蘊蓄が始まった。修一さん──私の旦那さんは、高校の時の生物の先生だった。六十三歳で奥さんと別れて、私と結婚して三年目。六十六歳と三十歳の夫婦は、仲の良い親子に間違われる。修一さんは、父親よりも少し上なのに、ずっと若く見える。白髪は少しあるけど髪はふさふさで、背はスラッと高く姿勢も良い。
「この卵鞘(らんしょう)は、ハラビロカマキリだな。ちょっと角張ってる」
「形でわかるんだ?」
「あと、産む場所。花奈が子どもの時に孵(かえ)しちゃったのは、オオカマキリだな。水の近くの草原(くさはら)で産むから。卵鞘、もっと丸っぽかっただろ」
「どうだったかな。薄茶で硬いスポンジみたいで。ごわごわなんだけど、なんだか愛しいのは同じ」
 くくく、と修一さんが笑った。私の手を取る。
「いい天気だ。も少し歩こう」
 五月に咲く花く樹花は、白が多い。エゴノキ、ニセアカシア、ドウダンツツジ。名前は修一さんに教えてもらわなくても、立て札やプレートに書いてある。歩くと少し汗ばむ陽気。行く先は、なんなく噴水を目指している。繋いだ手をふりながら歩く。
「ねえ。さっき、なんで笑ったの?」
「え? なんだっけ。ああ……花奈の表現が、あまりにも」
 修一さんは、前を向いたまま、ちょっと声を張った。
「オオジガフグリ」
「なんかの呪文?」
「カマキリの卵鞘は、別名オオジガフグリっていうんだ」
「フグリ、ってあの。オオイヌノフグリのフグリ?」
「ピンポン! こっちは犬じゃなくて、老人のふぐり。お爺さんの陰嚢って意味です」
「ギャー」
「あのね。爺さんふぐりはすごいから。ごわごわのしわしわでも、中に二百匹くらい待機してて、もうすぐぞろぞろ飛び出してくるから」
「──ごめんね」
「何だよ? 何であやまるんだよ。ここ、笑うとこだぞ」
 笑顔をつくろうとして、失敗した。私は修一さんから手を離した。
 先月、二度目の初期流産をした。お医者さんから、今度は心臓が動いています。大丈夫ですよって聞いたばかりだったのに。修一さんは、前の奥さんとの間に子どもがふたりいる。ふたりとも成人した男性で、ひとりは結婚している。私と一緒になった時、俺は男だからまだ子づくり出来るぞと豪快に笑った。なにしろ、花奈ちゃん若いしな。産むのに仕事辞めるなり、産休取るなりお前の好きでいいから、と言ってくれた。修一さんは、六十で定年したあとも再任用枠で去年まで教えてたし、来年から知り合いの塾で働かせてもらうことにしたから大丈夫、と頼もしい。でも、父親の年齢的に、ひとりかな。贅沢言わない。ひとりでいいから、修一さんと私の赤ちゃんを。
 最初の流産も辛かったけど、今回は更に打ちのめされた。テレビをつけると、赤ちゃんのおむつのCMばかり目につく。街を歩けば、妊婦がやたら現れる。以前は気にならなかったCM。妊婦たち。見たくないものが増殖して、視界にねじ込んでくる。私をズタズタにする。お腹を突き出して反っくり返った妊婦は、威張っているように見える。ほら、こんなに大きく育っているのよって。
 噴水まで走って振り向く。修一さんはゆっくり歩いて来て、私と並んだ。丸い人工池の外側から内側に向けて、線状の細い水が等間隔に吹き上げている。
「中央の噴水が上がってないね。つまんないの。前に来た時は、とばっと吹き上げてて、飛沫(しぶき)の中に虹が見えたのに」
「人が少ない日は、経費節減で出さないんだろ。花奈と俺と、それに──」
 真一さんの視線の先をたどる。バギーを押した若い母親が、噴水池の向こうからこっちに来る。
「戻ろうか」
「そうだね」
「どっかで、ケーキでも食べてくか?」
「今日は、帰る」
 もと来た道を、引き返す。
「なあ、花奈」
「あいよ」
「お前のせいじゃないから。あの、勘違いしてたらなんなんで」
やけに明るい声で、一気に喋った。
「確かに男は、七十代とかでも子どもはできる。俺に任せろと言った。が、男も三十五を過ぎたあたりから不妊のリスクがどんどん高くなるんだ。初期流産も男性が歳をとってると確率が増える。だから、えーと」
 そんなことは、とっくに知っている。言おうとして言うのをやめた。私たちには、関係ないと思ってた。実際に孫くらいの子どもを持つパパたちはいるし、私はまだまだ妊娠可能な歳だから。修一さんだって、同じこと、考えているはず。
 冷蔵庫にプリンあるよ。早く帰ろう。と話題を逸らした。戻る道で、オオジガフグリが無事にそこにあるのを目の端でとらえた。修一さんもチラリと見たけれど、互いに黙って通り過ぎた。
「ちょっと寄ってく。待ってて」
 少し先のトイレに洋一さんが消えた。気づくと私は走り出していた。オオジガフグリのもとへ。小枝ごとポキリと折ってトートバッグに突っ込み、上からハンカチで隠した。ダッシュしてトイレの出口へ戻り、息を整えた。

 帰宅して、枝ごと一輪挿しに入れ、リビングのカーテンの後ろに隠した。おやつを食べてまったりしていると、新聞を読んでいた修一さんが、お気に入りの作家の新刊広告を見つけて、近所の本屋へ出かけて行った。こっちも今のうちにオオジガフグリを入れる虫かごを買いに行きたいところだったが、本屋より遠い。結局、うたた寝してしまった。
 目を開けたら、ソファーに小さなクリーム色が動いていた。その先にも、向こうにも。
たどって行くと、カーテンの下あたりにかたまってチラチラ動いている。──生まれてしまった。カーテンとガラスに挟まれて、ぽかぽかと気持ち良く出てきちゃったらしい。公園にいるより、予定日を早めてしまったのではないか。カーテンをめくると、オオジガフグリから、まだ何匹かのカマキリがぶら下がっていた。出生直後の脱皮をした薄皮が、ひっかかってふわふわと震えている。体が乾いたものたちは、フグリの上で互いの体を足場にして這い上がったり、早くも小さなかまを交わして闘うような仕草をしている。ぽかんとしているうちに、かまきりたちはカーテンを伝ってわらわらと散って行く。とんでもない数だ。
 急いでビニール袋をとりに行って、赤ちゃんたちの捕獲にかかった。だが、つまむそばから潰れてしまう。そうっとそうっとつまんでも、頼りない細い糸と化してしまう。なんとか生きたままの子もいたが、袋の中は潰れた糸くずばかりになってしまった。
 知っていたはずだ。覚えていたはずだ。こうなることを。出てきてしまったら、うまく捕まえられないことを。こんなにたくさんの子どもたちが、放出されたのに。必死になって出てきたのに。我れ先へと競っているのに。私は受け止めてあげられない。受け止めて
も殺してしまう。私のせいだ。私の。
 ゴガー。
 突然、背後でモーターが響き、気絶しそうに驚いた。
 修一さんが、ハンドクリーナーを片手に立っている。
「花奈ちゃん、どきな。こういう時は、掃除機だ」
「だめだよ。そんなことしたら、みんな死んじゃう!」
「こっちで捕獲したほうが、生き延びる確率が高い。ダストパックを庭に広げて置いておけば、元気な奴は外に出て行く」
「ほんと?」
「もともと生き残るのは、ほんのわずかだ。わかってるだろ」
「ごめんなさい」
 私はビニール袋の赤ちゃんたちに、手を合わせた。
 
 夕飯のあと、カーテンに一匹の赤ちゃんを見つけた。時間が経過したせいか、さっきの仲間たちより、かまきりのラインがしっかりしている。私がカーテンの上から赤ちゃんにビニール袋を被せて、修一さんがカーテンの裏からチョンと突いて袋の中に落とした。暗い庭に放すのは忍びないので、ベランダの鉢植えの葉っぱの下に袋をふって出した。
「無事に生きられますように」
 ふたりで、祈った。
「かまきりってさ。ものすごくたくさんの方言や、呼び名があるんだけど」
修一さんの蘊蓄も、今夜はありがたい。何か喋っていて欲しい。
「オガミムシっていう呼び方があって。ほら、胸の前でかまを揃えるだろ。拝んでるみたいに。イノリムシとも言われている」
「怒った顔して、ほんとは祈ってる──か」
「あっ!」
 修一さんが立ち上がった。
「そこに、もう一匹いる」
「無事な命、発見! 隊長、慎重に救出しましょう!」
 私たちは、声を揃えて笑った。

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     リリちゃん

「すてきなおうちね」
 エレンちゃんが、体をくるくると回した。
「ありがとう。チョココロネをどうぞ」
 リリちゃんが、はねるように歩いて、白いテーブルにチョココロネを乗せた。
「もぐもぐもぐ。おいしいわ」
「私も。ぱくぱくぱく」
 エレンちゃんとリリちゃんが、向かい合って微笑んでいると、
「わぁぁぁぁ。ブレーキが、きかないぃぃぃ。ちがった。アクセルだったぁぁぁ。ドカーン! バリバリバリ」
 黄色いショベルカーが、エレンちゃんとリリちゃんをなぎ倒し、チョココロネを吹っ飛ばして突っ込んで来た。
「健太っ! 何すんのよ」
 お姉ちゃんが、リリちゃんの片腕をぶら下げて立ち上がった。
 真帆(まほ)ちゃんは、エレンちゃんを両手で抱え、胸に押しつけた。
 すかさず健太は、救急車を出動させる。
「ピーポーピーポー。さあ、乗って下さい」
「ふざけないでよ。あやまれ!」
 お姉ちゃんが、健太の頭をはたいたので、はたき返そうとすると、にらんでいる真帆ちゃんと目が合った。
「けんちゃんなんて、大嫌い」
 ママが、キッチンから飛んで来る。
「何なの? 喧嘩しちゃ駄目でしょう!」
「あのねあのね。違うんだよ。私と真帆ちゃんは悪くないんだよ。健太が、リリちゃんの家にショベルカーで」
 おねえちゃんは、リリちゃんハウスに突っ込んだままのショベルカーを指さした。
「またなの! あんたって子は。一緒に遊ぶなら乱暴しないのよ」
「遊んでないのに、じゃましてきたんだよ。ね、真帆ちゃん」
 おねえちゃんは、鼻の穴をふくらまして真帆ちゃんの隣に立った。 「健太なんて、いらない。あ~あ、亜利沙(ありさ)は、真帆ちゃんが妹だったらよかったなあ」
 真帆ちゃんは、去年、お向かいに引っ越して来た。健太と同じ小一。おねえちゃんは、いっこ年上。真帆ちゃんが越してきたばかりのころは、三人仲良しだったのに、小学校に上がってからは、おねえちゃんとばかり遊ぶようになった。なんだかつまんない。
 ちぇっ。なんだよ。ばーかばーか。おねえちゃんと真帆ちゃんのばーか。と、つぶやきながら、庭に出た。物置小屋からサッカーボールを出し、リフティングしてみたが、ぜんぜん続かない。あっちにこっちに転がってしまう。ボールを追いかけて行って、植木で頬をこすりそうになった。
「あぶねー。なんだよ、この!」
 木にムカついて、キックを入れてやろうとして、かたまった。
「うおっ」
 木の枝に、茶色いかまきりがいる。むしゃむしゃと食べている。かまでがっしりとはさんでいるのは、下から半分になったバッタみたいな虫だ。健太は、じりじりと顔を近づけた。食べることに集中して、堂々としている。横向きの姿勢のまま、頭を細かく動かして、ものすごいスピードで食べている。三角のあごが、もぐもぐするのと一緒に、あごの横から出た牙みたいなやつも、ぱらぱらと動く。
「よくかんで、たべましょう」
 教室に貼ってある「きゅうしょくのときの、おやくそく」を思い出した。
 食べ終わったかまきりが、かまを片方ずつていねいになめとって落ち着くまで、健太はうっとりと見ていた。
「かっけー。超かっけー」
 逃げないうちに、背中をつかんで持ち上げた。
 虫の中では、かまきりがダントツにかっこいいと思う。虫を大きくして怪獣にするなら、かまきりがいちばんだ。パーツもかっこいいけど、ポーズだ。こんなにポーズが決まる虫っていない。──そうだ! 怪獣だ。リリちゃんの家に、怪獣カマゴンが攻めてきたら。うわ、すげー。これって超面白くないか? また怒られちゃうかな。でも、やってみたい。あ~やりたいやりたい。あ、いいこと思いついた。リリちゃんちの屋根から、カマゴンが顔を出すんだ。中に入って、ぐちゃぐちゃにしなきゃいいんだから。
 
「エレンちゃん、髪型かえてあげるね。だって私は、ヘアデザイナー」
「おまかせするわ」
 リリちゃんが、ドレッサーにエレンちゃんを座らせている。
 よかった。まだやってる。健太は、かまきりを隠して、横を通り過ぎた。おねえちゃんも真帆ちゃんも、あっという顔をしてこっちを見たが、健太を無視してつづきを始めた。
「お花のカチューシャをつけましょう」
「まあ、すてき」
 チャンス! 健太は、リリちゃんの家の後ろに回って叫んだ。
「あぶないっ! カマゴンが、すぐそこに!」
 屋根のてっぺんから、かまきりをぐいと出した。つかまれたままのカマゴンの怒りは、頂点に達し、かまを振り上げ、はねをこれでもかと横に広げている。
「キャー」
 おねえちゃんと真帆ちゃんは、リリちゃんとエレンちゃんを置き去りにして逃げ出した。
 健太の手から落ちたかまきりは、家の中に入ってしまい、倒れたリリちゃんの上にいた。手を伸ばすと、三角の顔で見上げて、バンザイするようにかまを高く上げた。
 真帆ちゃんは、「ぜっこうよ」と泣いて帰ってしまったし、ママからはお尻をぶたれた。おねえちゃんには、蹴っ飛ばされた。もしかして、リリちゃんとエレンちゃんが、「たいへん! 逃げましょう」とか、「カマゴンに魔法をかけておとなしくさせるわ」とかで、遊んでくれるかもと思ってたのに。
 おねえちゃんの人形、リリちゃんは、ちょっとたれ目で、くちびるが桃色で、真帆ちゃんに似ている。長い髪の先がくるんとしているところも。真帆ちゃんのエレンちゃんは、ピカピカの金髪で鼻が高くて、真帆ちゃんに似ていない。おねえちゃんは、どっちにも似ていない。真帆ちゃんに、リリちゃんに似てるねと言いたくて、いつも言えない。

 真帆ちゃん。もう、遊んでくれないのかな。ずっと? おねえちゃんとママは、今、お風呂に入っている。夕ごはんの時も、ママに怒られた。パパが帰って来たら、いいつけられるのかな。なら、ハパと一緒にお風呂に入りたくない。
 健太は、虫かごの茶色のかまきりを見た。かごの網目に両方のかまをひっかけて、じっとしている。ふっと、リリちゃんの上でバンザイしているカマゴンを思い出した。いけないと思いながら、おねえちゃんのリリちゃんハウスを開けて、リリちゃんをひっぱり出していた。
 リリちゃんを横にして、カマキリをつかんだまま乗っけた。
「もう逃げられないぞ」
「キャー。たすけて」
 ぎざぎざの前足が、リリちゃんの髪にくいこんでぼさぼさにした。ピンクのリボンがとれてしまった。
「やめて~」
 かまきりが、リリちゃんの口を、もぐもぐと攻撃している。バッタを食べている時のあごの動きと同じ──。どきどきして、なんだかおしっこをしたくなった。リリちゃんのぱっちり開いた目が健太を見ている。こわくなって、かまきりをかごに戻した。
「えっ」
 健太は、リリちゃんの口を見てかたまった。ベタベタした茶色い液がついている。あわててティッシュで拭うと、ひろがってとれなくなってしまった。
「どうしよう……水……水。あ、あっ、ああそうだっ!」
 健太は、自分が天才なのではないかと思った。すごくいいことを思いついたのである。ママがマニキュアをとる、あの水。下敷きについたマジックペンの汚れを、あのツンする水で拭いてくれた時。魔法みたいに、きれいにとれてしまった。そうだ、あの水だ。マニキュアセットを取りに、ソファーがある部屋までつま先で歩く。もう、息が止まりそうだ。ソファーの横のかごから、魔法の水のふたを開け、ティッシュにふりかける。じゅうたんにこぼれたれけど、拭いている暇はない。リリちゃんのところへ戻って、口にあて、ごしごしとこすった。

「いつまで泣いてるの。ちっとも反省してないくせに」
 ママが健太に言うと、パパが、
「反省してんだろ。反省したから泣いてんだよな。ほら、健太。リリちゃん、前より可愛くなったぞ。亜利沙もそう思うだろ? 我ながらすごくうまく出来た。ツヤもかけといたからな」
 お姉ちゃんが、くぅ、と変な声を出した。
 リリちゃんのくちびるは、魔法の水で無くなってしまったのだった。桃色のくちびるが全部とれてしまった。口なしになったリリちゃんを呆然と見つめ、健太は泣き出した。お風呂から出て来たママたちが知って、また大騒ぎになった。帰ってきたパパが、プラモデル用の絵の具を混ぜて、くちびるの盛り上がりに合わせて口を描いてくれたのだ。
「乾くまで触るなよ」
 涙が止まらない。喉がひくひくして苦しい。リリちゃんのくちびるは、あんなに赤くなかった。かわいい桃色だった。あんなの、リリちゃんの口じゃない。
 真帆ちゃん。お願いだから、僕とお話しして。


                                                                                           了

「公開時ペンネーム かがわとわ」