精神科に入院しました①

2021年1月12日、私は都内の某病院に入院した。入院先は精神科、病名は双極性障害Ⅱ型である。そして、3週間で無事退院した。この記事は私が精神科に入院したこと記録しておくために書かれたものであるが、同じように精神疾患をもつ人やこれから入院する人に対して、何か参考になればという期待を込めて書いていこうと思う。この一連の記事では、入院に至った経緯、病院での生活、退院するまでに変化した考えについて書いていく。

まず、入院に至った経緯から書いていく。私は大学1回生、20才の時から精神科に通院している。病名は強迫性障害、うつ病、発達障害とコロコロ変わったが、最終的な診断名は双極性障害II型だった。実家が東京、大学は関西だったので、関西で1人暮らしを始めてから本格的に発症し、その後、病院を転々とし、4年の留年+半年の休学、すなわち8年半をかけて2020年9月に大学を卒業した。卒業後、当然就職するあてもなく、とりあえず実家に戻ることにした。その時は大学院進学を目指しており、自分の道は大学院へ進学したら開けると思いこんでいた。しかし、様々な理由で大学院進学の道が危ういということが分かった。そして、徐々に自分の人生が立ちいかなくなることを感じ、将来に不安を覚えるようになっていった。また、同時期にある人と出会い、人生には何もないということを教えてもらい、余計に人生に希望を持てなくなり、不安は加速した。この状態が一か月間続き、精神科に通う頻度が週1回、2回と増え、毎回泣きながら死にたいと先生に訴えるようになった。年末にいつものように泣きながら死にたいと訴えた時、入院した方がいいと言われた。自分でも通院ではどうにもならないと感じていたため、入院することを決意した。しかし、その診察が12月29日だったため、入院の調整が難しく、年始の1月4日の診察以降にしか入院の準備を整えられないと言われ、この状態で数日は過ごさなければならないと思い、落胆したのを覚えている。また、4日の診察には親を呼んで欲しいと言われ、入院のことは告げずに母にそのことを話したが、母は私が薬を辞めたがっていると思っていたらしく、そのことか?と聞かれた。私が家族の前で絶対に泣かなかったとはいえ、母は精神科医兼臨床心理士なので、娘の変化に全く気づかないことにひどく失望し呆れた。その場はなんとか誤魔化したが、この後も辛さは続いた。12月30日にはドライヤーのコードで首を締めようとしたが、鏡の前で締めたので顔色がみるみる変わっていく様が恐ろしく、その日はやめた。そんな中でも、大学院への進学は諦めていなかったので、勉強だけは続けていた。辛い中でお正月を迎えたが、やることがないので地元のコメダ珈琲で勉強していた。しかし、すぐ泣きそうになったり、そわそわして落ち着かなかったりした。辛さのピークは1月3日だった。この日も勉強をしていたが、途中で勉強を続けられなるほど涙が出てきた。どうしようもなくなったので、唯一の親友に連絡をして、あまり時間はとれないと言いつつも、銀座で会うと言ってくれた。電車の中でもずっと泣いていたが、彼女に会うと不思議と涙が止まった。彼女にも思ってたよりも元気そうだと言われた。医者から入院の話をされたことをまだ親に言っていないことを告げると、すぐ親に言った方がいいと言われ、その場で電話した。母に電話をし、入院のことを告げると全く気づかなかったと驚いていて、やはり失望した。その日の夜にまた辛くなり、今度は残っていた薬を少しだけ多目に飲んで死のうとした。後にドライヤーのコードで首を絞めようとしたことも含めて、単に自分の辛さをわかってほしいという自傷行為だったということが判明するが、それは後で書くことにする。簡単に遺書も書いて、最後に見るのはその当時好きだった人の顔がいいと思い、彼の写真を見ながら眠った。私を日記をつけており、この日も書いていたのだが、彼のことがたくさん書かれており、今では読めないほど恥ずかしい内容になっていた。当然、少し薬を多目に飲んだくらいでは死なず、その日は朝を迎えた。そして、4日の待ちに待った診察の日がきた。父に付き添われ診察を受けたが、すぐに入院とはいかず、まずPCR検査を受けなければならなかった。結果が陰性だと連絡は来ないらしく、検査をして1週間自宅待機をしながら、ドキドキして待っていた。結局連絡は来ず、こうして2021年1月12日に私の入院生活はスタートしたのである。

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