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司馬遼太郎の何が問題か?【個人崇拝】の古さと危険

 何やら、歴史界隈で司馬遼太郎の話題がホット。炎上に便乗して、三流歴史ライターがnote芸人呼ばわりを目指しているらしい……まぁ、そういう理解で結構ですけど。

 でも一応、真面目な問題提起はしたい。わかりやすく、せやろがいおじさんを踏まえつつ、ちょっと関西弁で入りますね。

まくら「危険な車をどうするか?」

X月X日、ある自動車運転手がギア操作を間違え、大事故が発生。そのメーカーでは……。

「うちのあの車での事故、結構続いてますね」
「アレやろ、今回のはお年寄りや。免許返納しいひんのがあかんのやで」
「ま、そういうことはありますけど。でもこちらの事故は、まだ運転手が30代です。ほんで私、ちょい調べてみたんですけど。ネットでもいろいろ言われとりますわ」
「なんやて?」
「うちの車は、そもそもギア操作がわかりにくい。それに、急発進をするような操作をしたら、止めるような仕組みが必要やと思うんです!」
「あのな、この30代の事故はな、夜勤明けで疲れた時に起きとんねん」
「人間誰しも、万全の状態で運転するとは限らないのです。間違った操作をしたときに、大事故を防ぐ仕組みを作ってこそ、エンジニアちゅうもんやないんですか?」
「お前、めんどくさいやっちゃな〜。注意喚起しとけばええの! きっちり操作して、事故を起こさないようにしよう! ブラックガムでも噛んで、眠くならずに、いつも気を使うようにしよう!」
「根本的解決してへん……」

銃にせよ、危険な動きをする機会にせよ、事故を防ぐ安全装置ついてますやん。動作を失敗したとき、
「油・断・大・敵だぞ♪」
とか言われたところで、何眠たいことぬかしとんねん! ってなりますやん?

歴史小説もほんまはそうやと思います。読者があかん思い込みをせんように、書く側が設定から見直す仕組み考えるべきやないですか!?

えらそうなこと言うてるけどきみ、んなもんあるんか……?

って、あります! はい、あります! ちゅうことでイギリスからまずはいきます!

マルボじゃない、ジェラールだ

「創作と史実を区別して読みましょう」
 では、残念ながら根本的な解決にならない。

 この作品に書いてあることは、フィクションなのだとハッキリわかる仕組みが、英文学ではあります。シェイクスピアまで遡るのは流石に面倒ですし、シェイクスピアはそこのところ無頓着ですので、もっとあとの作家を出します。

 コナン・ドイルです。

 ドイルといえばシャーロック・ホームズが有名です。しかし本人は、重厚な時代小説で売れっ子になりたかったのです。しかし人気という現実を前に、かなり不満と挫折を味わっておりました。それゆえ、ホームズをライヘンバッハの滝から叩き落としたわけですが。

 ドイルの歴史ものは、なかなか面白い。私が読んだものは『勇将ジェラール』もの。これには元となる史料があります。フランスの陸軍将校マルボの回想録です。こんなんむしろマルボ主役でええやん。そう言いたくなるかもしれませんが、ドイルはそこにワンクッションを入れています。

「なんだこれは、マルボはこんなことしてないだろ、嘘こけ!」
「いやだって、マルボじゃないんです。そこはジェラールですからね」
「ぐぬぬ……」

 こういう回避はできる。ドイルは、紋章マニアから散々突っ込みを入れられ苦い経験を味わっていますので、納得はできます。イギリスの歴史ファンは容赦がなく、有名な作家だろうとビシバシと突っ込みますので。

ネルソンじゃない、ホーンブロワーだ

 ナポレオン戦争とは、イギリス人にとって定番人気ジャンルです。インドでの戦い。アヘン戦争……そのあたりだと、どうしたって苦い顔にならざるを得ませんが、ナポレオン戦争は大義名分があるといえばそうなのです。

「暴君ナポレオンを倒すイギリス軍!」

 イギリス人はシビアなので、そこで「大正義!」と言い切ることは、そうそうありませんけどね。

 そんなナポレオニックもので古典的な名作は、セシル・スコット・フォレスターのホーンブロワーシリーズ。映画化やドラマ化もされています。

 架空の海軍人であるホーンブロワーが、いかにして出世し、戦い抜き、家庭を築き、生きてゆくか。そういう物語が展開されます。

 でも、どうして同じホレイショでも、実在したネルソンではないのでしょう? ネルソンはおもしろい逸話が満載の、魅力的な人物です。ホレイショというファーストネームはイギリスでも有名ではなく、あえてあのネルソンと同じものを使ったことで、そこは意識しているでしょうに。

 理由は想像がつきます。

◆ネルソン柱を見上げても、ネルソンにはなれない

 ネルソンは、かつてのイギリス人にとって崇拝対象、アイコンでした。ネルソンの肖像画を見上げる少年は、典型的な姿であったものです。今でもトラファルガー広場にはネルソン柱がありますね。

 そういう軍神のような存在を崇めても、現実を見れば負ける。トラファルガー海戦で世界の頂点に立った王立海軍は、第一次世界大戦で手痛い敗北を喫しています。

 軍神ネルソンの威光頼りではなく、新時代を見据えていかねば進歩できない。イギリスはそう悟ったのです。

 ネルソンはもちろん偉大です。けれども、どうせならその時代にあった英雄像を求めていかねば!

◆個人崇拝は危険で古い

 ホーンブロワーシリーズは、1930年代から1960年代にかけて執筆されました。この時代ともなると、イギリス人には理解が確立していたのです。すごい英雄を崇拝していれば勝てる? そんなわけはない。

 のみならず、戦争の主役とは自分たちであるとも気付きました。

 二度の世界大戦を経て、貴族の家がいくつも断絶していった。自分たちの先祖も、自分たち自身もそこで戦ったことがわかりきっている。じゃあ、ナポレオン戦争の頃にもいたのではないか? その前も。そうして時代を遡り、考えていく意識改革がそこにはありました。

 それに実在の人物で、子孫がいる方の話を書くと、安易な個人崇拝が現代まで続くからリスクが生じます。創作は自由で無害とは言い切れない。

 二度の世界大戦で、イギリスという国家はかなり変わっています。国民が求める英雄像も、当然変化しました。

◆英雄だけが勝敗を決めない

「ネルソンといえばネルソンタッチ!」
 はい、名前がなまじキャッチーなだけに、日本でもある程度知名度あるみたいですけど。

 ネルソンタッチだけがトラファルガーの勝因ではありません。あの作戦はそもそも、操船技術が相当に高くないとできません。当時最高峰であった王立海軍以外ができたとは思えないのです。操船技術は、ネルソン一人だけのものではもちろんありません。

 将校。水夫。火薬運搬員。ひとりひとりの技術や士気の高さがなければ、実現できません。そういう組織論までふまえないと、勝利は遠ざかるばかりでしょう。

◆「英雄のネームバリューに縋った連中の末路をみろ!」

 イギリス人の書いたナポレオン伝記は、皮肉めいたものがともかく多い。そして反面教師として、ナポレオンが即座に持ち出されることはあります。

 ナポレオンに、フランス人は酷い目にあわされたのですが。喉元過ぎれば何とやら、甥っ子が「3世」として出てくると、なんと選挙を経て彼を皇帝にしてしまいます。

 ナポレオン3世の器量や能力よりも、「同じ名前だからいいかも」と思ったんですかね。それをイギリス人は冷たい目で見ていたわけです。

 英雄一人よりも、強い将兵が集まった方がきっとなんとかできるんだぞ! そういう信念にマッチするのは、英雄を支える層です。

 マルクス史観云々は、そこに関係ないですからね。

◆英雄はアイコンとして悪用されかねない

 祖国の英雄は、愛国心のアイコンとして悪用もされてしまいます。

 イギリスの場合、アルフレッド大王を称える愛国歌「ルール・ブリタニア」が典型例でしょう。BBCの自動車番組『トップ・ギア』では、オーストラリア人相手に狡猾な手段を使うイギリス人の背後で、この歌が高らかに流れました。ブリタニアよ、統治せよ! 一歩間違えれば、最低最悪の帝国主義者です。ふざけんなよ! そんなブリティッシュジョークでした。

 極右大好き愛国スピーチといえば、シェイクスピア『ヘンリー5世』の「聖クリスピンの祭日演説」が有名です。勇猛かつ名文。このスピーチに含まれている『バンド・オブ・ブラザース』はドラマや小説のタイトルにもなっています。ともかくよく使われる名文です。本当に素晴らしいのですが、愛国心を煽るため極右も大好きでよく使うのです。

 そういうことをされていくと、ヘンリー5世や作品そのものに極右イメージがこびりつきそうで、疲れ果てます。迂闊に好きとも言えなくなりそう。そういう危険性から実在する人物を守るためにも、架空の人物を主役に据えることは安全です。実在の人物よりも、そちらを目立たせると。

 極右が変なイメージをつけることで、アイコンは消え去りかねません。アメリカの南軍旗、旭日旗が典型例。ハーケンクロイツだって、もとをたどれば無害な吉祥紋でした。

 最近の典型例として、漫画のキャラクター「カエルのぺぺ」騒動もありました。極右がインターネットミームにしすぎて、作者が殺す羽目になったあの問題です。

 それを踏まえますと、SNSで歴史人物なりきりをしているアカウントが差別発言をしているのを見るともう……。そんなに誰かを台無しにしたいのでしょうか。

◆歴史とは、消えてしまった声を聞くこと

 トラファルガーの戦いに、水夫として参加した。身体中には、砲弾に吹き飛ばされた船の木片が入り込み、雨の日の前ともなるとしくしく痛む。そんな哀れな、国ために尽くした老人なのに、道ゆく人は誰も気に留めない。

 ネルソンのことは称えても、その元で戦った哀れな水夫を、誰も助けようとしない……。

 こういう悲哀に、イギリス人は胸を打たれました。そして考えたのです。そういう声なき声を拾ってこそ、歴史には役割があるのではないか?

 ホーンブロワーのような作品には、主人公を支える士官や水夫も描かれています。

 そういうニーズが背景にあるからこそ、ホレイショはネルソンではなく、ホーンブロワーになったとは想像がつきます。そしてこうした措置は、安全装置にもなりました。

「ホーンブロワーがこういう戦術で勝った! 歴史はすごいんだ!」
「ホーンブロワーは実在しないよ」
「そうなの?」
「でも、この場面でホーンブロワーが使った戦術には、モデルがあるんだよね」

 思考が停止しないし、史実と創作の混同が起こりにくいし、議論のテーマにもなるわけです。ちなみにホーンブロワーには「伝記」まで存在します。架空の人物だからこそ、ディテールを細かくしてもよいのです。誰も騙されません。

リチャード・シャープは私生児から将校になった

 ホーンブロワー以来、王立海軍ものは定番ジャンルとして人気を集めました。帆船はロケに予算を取られて映像化が低調でしたが、VFXでカバーができるとよいのですが。

「海軍がありなら、陸軍もよいのではないか?」

 そういう発想の転換をした作家がおります。バーナード・コーンウェルです。彼はミステリも手がけていて、日本だとそちらの知名度が高い頃もありましたが、歴史ものも手がけている小説家です。

 そんなコーンウェルのシャープシリーズは、イギリスでベストセラーとなりました。歩兵のリチャード・シャープが、叩き上げ下士官として半島戦争やワーテルローを戦い抜く物語です。インド駐留時代を描いた前日譚もあります。ならず者として、やむをえず兵士になったシャープが、やがて第95ライフル連隊の少尉となり、キャリアを積み上げてゆくのです。

 この第95ライフル連隊は、連隊ごと人気が出ています。シャープのコスプレではなく、名もなき狙撃兵コスプレ、再現をすることが大人気。ナポレオン戦争を扱ったゲームに、この部隊が登場しないとファンが怒る。そういう人気ものです。そう、個人ではなく、連隊単位で大人気なのです。

 1980年代から2000年代まで、原作が執筆されております。実はハリー・ポッターシリーズ以前、イギリスの中学生が読んでいる定番シリーズ王者が、このシャープシリーズでした。おもしろいし、文体が簡潔で読みやすいのです。

 海軍でなくて、陸軍なら、ロケ費用がかからない! このシリーズの人気を定着させたのが、1990年代のドラマ化でした。ショーン・ビーンが「全イギリス人の恋人」になったのは、タイトルロールを演じたから。連続ものなので、あのショーン・ビーンであろうと惨殺されないので、安心できますね。

 ちなみにこのタイトルロールは、ドラマ版ホーンブロワーシリーズで、ブッシュを演じたポール・マッギャンが演じるはずだったものの、怪我で降板したという余談もあります。

 シャープは、海軍が陸軍になっただけではなく、当時のイギリス人の心に響くような要素も盛り込まれています。

 ホーンブロワーのような王立海軍ものは、貴族の次男坊以下であるとか、アッパーミドルとか。それなりによい家の出身が多かったものです。それがシャープは、社会の底辺層出身でした。娼婦の私生児であり、父親が誰かもわからない。”Son of a bi***”そのものです。

 イギリスにおける庶子差別は、極めて厳しいものがありました。娼婦の息子で、読み書きもろくにできない無骨な男。そんなシャープが、度胸と勇気で立ち向かう姿に、イギリス人は夢中になったのです。実際カッコいいし!

 コーンウェルは社会情勢や、価値観の変化を作風に取り込むことに意欲的な作家です。アーサー王伝説に、ケルト人としての苦悩や、キリスト教伝来をからめた『神の敵アーサー』シリーズはじめ、傑作揃いなのです。それなのに邦訳が低調なのが悩ましいところですが。

 ちなみにコーンウェルの『アジンコート』の主役は、ヘンリー5世ではなく、ニック・フックという長弓兵が主人公となります。あの戦いを、ヘンリー5世目線の物語で描いても、シェイクスピアの焼き直しにしかなりかねませんし、古いのです。

そしてナポレオン戦争に空軍参戦!

 ちなみに、ナポレオニックものは新たなる局面を迎えています。ナオミ・ノヴィク『テメレア戦記』シリーズです。

 この作品は、ナポレオン戦争時代に【空軍】があったという設定です。空軍といっても、飛行機はまだありません。生きているドラゴンを戦艦として乗りこなす設定です。

 ドラゴンとの相性のため、このシリーズには女性士官が登場します。そこにいたはずなのに、いなかったことにされた女性や少数民族をどう描くのか? そこがこれからの歴史創作が直面する大きなポイント。

 ドラゴンを出すことにより、ジェンダー観やアジアへの目線も取り入れた、意欲的なシリーズです。スコット・ウエスターフェルド 『リヴァイアサン』三部作も、スチームパンクに新たなジェンダー観を取り入れた意欲作です。ナポレオニックより一世紀ほど後の設定になりますが。

 日本では、ドラゴンが出てくるだけで、子ども向きのファンタジーやライトノベルと小馬鹿にされがちです。ファンタジーやスチームパンクを読んでいるというだけで、いい歳こいた大人のすることではないという目線もつきまといます。そしてこうなりかねない。

「あなた、歴史好きなんでしょ? そんなドラゴンが出てくる子ども向けの本でなくて、『竜馬がゆく』あたりでも読んでみなくちゃ!」

 あー、はい……余計なお世話なんですけど。

個人崇拝史観は、まだまだ現役のようで

 海外のフィクションでは、ファンタジーやSFの要素は、ジェンダー比や観の見直す要素として機能します。SFドラマ『宇宙空母ギャラクティカ』のリメイク版では、凄腕パイロット・スターバックが女性にされています。リーダーとして皆を率いる大統領も女性です。

 これだけ技術や社会が進歩しているのに、ジェンダー観がいつまでも同じだったらヤバいぜ! そういう見直しは、海外のフィクションでは適宜入ります。2020年、Amazonプライムのドラマ『ザ・ボーイズ』では、原作では男性だったストームフロントを女性にしました。ポリコレだなんだの騒ぐ奴は、無理して見なくてええんやで……製作側がそう言い切っております。

 ここで何かを思いだした方もおられますよね、はい、『銀河英雄伝説』だ。ジェンダーで燃えているから、てっきり士官の男女比を見直すべきだとか、その手の話かと思ったら、家事分担の話でした。ん? SFなのに人力で料理を作っているのか。しかも士官なのに、使用人がいないんだ! そこに突っ込むとキリがないので、やめておきますが。

 司馬遼太郎ファンだけでも手強いのに、提案だけでも首を取れと大騒ぎするあの界隈に突っ込むって、もう地雷原横断にもほどがある……ってかんじですけど。でもまあ、柳生十兵衛精神で乗り切ってみせますよ!

 ちなみに私は『銀河英雄伝説』のファンかって? そもそも読んでいないのでよくわかりません。何度もいろいろな人から勧められたのですけれども。好きそうだとも言われましたけど。士官構成のジェンダー比になんとなく嫌な予感を感じたり。自分に合わない兆候を感じたので、そっと断るようにしてきました。

 あの論争を見ていて、似たようなSFでも、ジャック・キャンベル『彷徨える艦隊』シリーズあたりを選んでいてよかったんだなと痛感できたわけですが。あの作品には、思えば危うい点があったのだと、あの騒動で気づきました。

「ああ、こんな時代に、ヤン・ウェンリーみたいな政治家がいたら……」
「そうだね、竜堂兄弟が今の世の中を見たら何て言うだろうね」(※同じ作者の主人公のことだそうです)

 あ! これは【個人崇拝】ベースの歴史観ですね。世直しをする英雄が出現するパターンだ。司馬遼太郎でも定番の展開です。

 繰り返しますが、これは危ういし、かつ古いのです。たとえるのであれば、他の国がスマホアプリを使っている一方で、日本がFAX現役でいるくらい、古臭いと思います。

 ヤン・ウェンリーにせよ。四兄弟にせよ。そういう誰かがいたらと妄想する前に、自分が何をできるか考えていく。社会参加をどうするのか? そのへん、『ゲーム・オブ・スローンズ』のエンディングが象徴していたのですけれども。

 誰かを個人崇拝して生殺与奪を預けていると、その誰かが変節した際、座して死を待つだけになる。そういう危険性をもっと意識しないと。ヤン・ウェンリーが何者かよくわかりませんけど、彼は絶対に神聖で民衆の希望を裏切らないと保証されているのでしょうか?

 『銀河英雄伝説』ファンは、司馬遼太郎ファンよりも構成年齢は若いはずですよね? それでもこういう個人崇拝歴史観が根を下ろしているのかと思うと、危険性ばかりを感じます。

 司馬遼太郎だけの問題ではない。司馬遼太郎フォロワーも【個人崇拝】歴史観という、古いOSを日本人の脳裏にインストールしているとしたら?

 危険ですよ!

 Amazonプライムが日本史ドラマを作るうえで、司馬遼太郎あたりの織田信長像ではなく、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』の天正少年使節団を主役にしたのはなぜなのでしょう?

 海外では信長よりも、弥助が注目される理由は?

 映画『1917』には、実在した軍人が出てこないのはなぜなのか? 伝令が主役なのはなぜなのか?

 ナポレオン戦争までの戦争絵画は、名を残した英雄が誰か判別できる。けれども第一次世界大戦あたりからは、名もなき兵士に焦点が当たっているのはなぜでしょう?

 日本のゲームが『信長の野望』というタイトル。歴史人物をカードガチャで集めるものが多い。一方、海外は『シヴィライゼーション』(文明)や『トータル・ウォー』。この違いは?
 
 日本の作品でもこうした【個人崇拝】からの脱却は進んでいないわけでもありません。少数派の作品をあげてみましょう。

 長谷川哲也『ナポレオン』シリーズには、ビクトルという青年が出てきます。元は処刑人の弟子であり、兵士となって戦場を歩き回っています。英雄的な活躍をするわけではなく、むしろ情けなくて、コメディリリーフのようではある。実在の英雄に殴られたり、恨まれたりしてしまう。彼は影の主役であり、英雄ではなく民衆目線で見る役割を果たしています。

 ビクトルはただバカな行動をしているわけではなく、実際に英雄以外の誰かがやらかしたことを再現しています。当時の民衆や兵士目線で歴史をみられるのです。兵士が行軍する厳しさや、恐怖感は、彼の目線でなければ描けない。

 ナポレオン戦争について調べていると、一兵士の記録がかなり残されていて、かつ欠かせないものとして扱われるため、ビクトルを入れることは理にかなっています。ロベスピエール童貞発言だけをネタにされるのは、あまりに惜しいことなんですよね。

英雄だけを見ていては、麒麟も来ない

 2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の、駒も民衆目線で歴史を見る役割を果たしています。この駒にケチをつける感想が毎週あがってきて、私は正直、失望を繰り返しています。歴史に名を残す英雄以外をいらないものとして扱うってどういうことなんでしょう?

 英雄が魚ならば、民衆は水です。水なくして魚が泳げるか! そういう目線に、日本人の歴史観が育ってゆくのはいつになるのでしょうか。昔はもっとマシだったのかも? 駒バッシングのあまりのひどさを見ていると、もう、猶予はないと思えたのです。

 お約束の嫌味をかましますけど。

 本当に歴史が好きなんでしょうか? 自称現代の織田信長、坂本龍馬、ジャンヌ・ダルクとして、アクセサリーに英雄を使いたいわけじゃありませんよね?

 私はたまたま海外の歴史ものを突き進んだおかげか、歴史観がチューニングされたようですけど。ゆえに、日本の歴史ファンとは話が全然噛み合わなくて、もうどうでも良くなってきてはいるのですけれども。言うても野良三流ライターで、研究者でもないわけだし。

 いいんです。海外にはおもしろい、歴史そのものを食べるような極上コンテンツがあります。古代ギリシャやローマの旅行ガイドとか。その時代最低最悪の仕事ガイドとか。おもしろいものは、いろいろあります。そういうものを楽しんでいれば満足できるので、お互い没交渉にしましょうか……と、言いたかったんですけれども。

 コロナの時代に、大きな転換点を迎えているのに。日本だけがいつまでも信長、龍馬、ヤン・ウェンリーの到来を待っていたら、どうにもなりません。

 スゴイ日本の英雄像を海外も見たがるはずだと言い張ったところで、海外が「そんなもの求めてません」とかえってくればそれまでのこと。

 日本人の大多数が見せたい歴史像と、海外が見たい像はかなりずれました。個人崇拝という古い歴史観をインプットした責任を、誰かが取らなくてはいけない。といっても、現役作家を叩くとなると心が痛むわけですし。

 どうせなら、象徴的な像を批判した方がよい。司馬遼太郎の弊害を今見直した方が、よいと信じているからこその蛮行です。彼の作品のせいで、日本の歴史観アップデートに遅れが出ているのであれば、やるべきことは明らかでしょう。

 といっても、別に司馬遼太郎が家にあるなら焼いてしまえとか。埋めてしまえとか。発禁だとか。そんなことを言うつもりは全くありません。

 映画『風とともに去りぬ』と同じ措置です。注釈付きにするのです。私が昔読んだ歴史小説でも、わかりにくい用語や事情にはその手の解説がついていました。現実的な対応だと思います。

 あるいは、一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』の、戦国版、明治版、中国史版を出すとか。いかがでしょう。

 いかに『風とともに去りぬ』が名作であろうとも、黒人奴隷がいる社会を郷愁とともに振り返っては危険です。司馬遼太郎の作品も、そういう危険な名作枠だということです。BLM運動を見ながら、大坂なおみ選手の果敢な言動を見ながら、なおもよくわからん個人崇拝に陥っているのであれば、現実逃避としか思えません。

 さて、今日はここまでとします。どのへんが危険なのか? 次はアメリカに目線を移し、比較しつつ考えます。

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