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司馬遼太郎の何が問題か?【江湖】を知らずに、どうして笑い飛ばせるのか?

 今まで紹介した作家は、距離や年代的に離れていました。そこで、距離、年代、そして職業と肩書きまで司馬遼太郎に近い作家を考えたいと思います。

 香港の金庸です。今回はまくらはなしで。

中国語文化圏国民的作家といえば? それは金庸

 金庸は中国語文化圏では国民的作家です。その浸透度は、魯迅以上かもしれない。それというのも、十年に一度くらいのペースでドラマ化され、漫画化もされているのです。どの世代だろうと作品名を言うだけで結末を知っているし、どの人物がどんな役割を果たすのか、把握できています。

 金庸作品のドラマ化は、日本の大河ドラマに似ている部分もあります。

「次に小龍女を演じる女優が決定!」

 これだけでニュースになり、自分が若い頃に見たそのキャラクターと比べてどうなのか、ワクワクすることになります。ベテラン俳優が、別の役で再登板する伝統もあります。若い頃森蘭丸を演じた役者が、数十年後の織田信長を演じるようなものです。

 金庸の作品は、中国語圏の方ならば誰でも知っているようなもの。「私は黄蓉(ヒロイン名)じゃない」というポップソングもあるほど。親の世代も、子の世代も、黄蓉がどういう人物像であるか理解していればこその曲です。

 映画『アイスマン 宇宙最速の戦士』(映画の出来そのものはお粗末でした)では、明末から現代にタイムスリップをした主人公が、明が滅亡すると悟り、破滅を避けるべくある本を手に取ります。

「『碧血剣』か……この袁承志を見習わねばなるまい」

 おいっ、主人公(演:ドニー・イェン)、それは金庸の武侠小説だ、袁承志は実在しないから! 思わずそう言いたくもなります。百度で明末について調べる方がいいんじゃない?

 でも、これこそ金庸と読者の関係だと思いました。明末という大流血を避けられない人は大勢いた。たくさんの命が失われた。金庸はそんな時代を生き抜く知恵を、自分がつくりあげた主人公を通して描いたのだから。確かに参考にはなる。実在しない主人公だからこそ、むしろ理想を実現できるのです。

 金庸は、小説を通して人のあるべき姿を問い続けた、実はとても真面目な作家です……強いおっさんや美少女がやたらと出てくるし、変な映像化作品も多いから、なんだか誤解されているけど。 

 金庸は、動乱の時代を見ている。思想や読書経験、そのために生死を彷徨った人がいることを知っている。ならば、筆を握る手に魂や理想をこめるのは当然でしょう。

「エンタメなんて楽しければいいじゃん!」

「思想とか、そういう難しいこといらないんだよね」

 そう言える誰かがいるのであれば、その人は灼けつくような焦燥や衝動とは無縁の、能天気でゴムがゆるんだパンツじみた生き方でもしてきたのでしょう。うらやましい。

 いいんじゃないですか。楽しそうで。その楽しい日々がいつまで続くかわからないからこそ、生き抜く知恵を作品に込めた作り手もいるわけなんですけどね。そんなこと想像もできませんか? それって、そんなに難しいことなんですか?

極めて政治的な金庸の世界

 エンタメと政治や批判は無縁。そういう戯言は中国文学を見ても言えるのでしょうか? そう意地悪に突っ込んでしまいます。現在は確かに中国共産党が締め付けているように思えるかもしれません。それも彼らが筆の力を熟知しているから、ということも考えられませんか?

 金庸について言えば、彼は第二次世界大戦を経験し、香港の新聞記者であった作家です。そう、元新聞記者という経歴まで、司馬遼太郎と一致しています。

 しかも、日本ではGHQが日本史ものの作品を、中国共産党は武侠作品を、上から禁止されていたというのも興味深い。日本も、中国語圏の人々も、自国のチャンバラものを味わいたくてたまらないのに、できない! そんな悩ましい時代が訪れていました。

 どうにかならんだろうか? 1950年代、中国共産党の影響が及ばない中国語圏は考え始めます。香港では、新聞に武侠小説を掲載すると売れる。筆力のある記者にペンネームを名乗らせて、武侠小説をバンバン書かせたらよいのでは? そうと盛り上がるわけです。こうして第二次世界大戦後に生まれたジャンルを、それ以前のものと比較して「新武侠」と称します。

 金庸はそんな「新武侠」でも、トップクラスの作家にのぼりつめます。中国共産党は禁止しているものなのだし、そこは彼の目を通したシャープな中共批判に突っ込んでいきます。

 金庸の小説は、そのイマジネーションを駆使して、社会批判をしています。武侠ドラマを見ていると、還暦を過ぎたおっさんがワイヤーで吊るされて、グルグル回されます。血尿が出ていそうで、見ていて胸が痛む。元気と体力いっぱいのティーン主人公に、こんなおっさんが勝てるわけないでしょうに。それを言うのならば、こんな華奢なヒロインが棒で叩いたところで、悶絶するほど痛いとも思えないし……。

 これは武術ではなくて、現実世界、政治の力関係の反映なのです。長老格で名のあるおっさんが一番偉い。イキのいい若者は、そこまで強くない。よくわからない修行で主人公がパワーアップするのは、人格の成長や昇進なのでしょう。女性だろうと、きっちり実力を示せる人間は、周囲から敬意を集め、実力者となれる。

 そういう興味深さのみならず、金庸世界のおっさんどもは、下劣の極みを見せてきます。君子ぶって偉そうな顔をしながら、裏では陰険な足の引っ張り合いをして、妻子はじめ周囲を絶望に追い込み死なせてでも、権力にしがみつこうとすると。

 金庸は、中国の伝統的な倫理感とは、一味違う世界を示しているのです。目上の人はともかくは敬え。男性ならば特にそうすべきである。そういう枠組みをとっぱらい、尊敬されるべきおっさんの汚らしさに筆誅を加えます。

 美少女だって強くて賢い! 組織の長にもなれる!
 これはただの伝統的な女侠要素や作者の趣味というだけでもなく、『紅楼夢』に通じる価値観の転換も感じます。中国の伝統では、年若い女性は一番軽んじて良いもの。科挙の受験すらできないし、結婚して良妻賢母にでもならなければ駄目。それが武侠ではどうか?

 美少女萌え! それだけでなくて、若い女性の持つ価値を再発見しているのです。見た目がかわいいとか、それだけではない。聡明さや意志の強さもそこにはあります。

 漢人のありようにも、鋭い目線を向けています。
 『天龍八部』蕭峯の扱いが典型的です。漢人がそれ以外の民族を差別してきた、そんな悲しい歴史にも迫る。

 描写が差別的だとされる指摘があると、適宜修正も入れる。「金庸にポリコレを適用されたらどうするつもりか?」という意見を見かけたことがありますが、そこはもう通過済みです。差別を問いかけたい金庸が、そこから逃げるはずがありません。彼自身、改訂版を出してもいます。

 そんな金庸の最高傑作とされる『笑傲江湖』は、社会批判という意味でも強烈なものがあります。

 この作品は明が舞台。最高の武術をマスターするには、自宮(自発的去勢)をするしかない。そんな衝撃的な設定があります。いくら武林(武術家の世界)で頂点に立ちたいからって、ナニを切るかな? これは明という時代への批判でもあるのです。明代は宦官の弊害が最高潮に達しています。科挙合格という難関を経由せずに、自宮で出世した連中がいたことを、武侠小説を通して見せているのです。

 大物のおっさんが見栄っ張りで、しょうもない謀略で足を引っ張り合っているところも、極めて印象的です。この作品がここまでパワーに満ちているのは、発表当時の1960年代後期と言う時代の影も感じます。香港から当時荒れ狂っていた中国の文化大革命を見て、金庸がどれほど失望し、悲しんでいたことか……。

 香港の作家が、ストレートに文化大革命を批判する小説を連載したら、いろいろと大変でしょう。けれども、明代を舞台にして武侠という体裁を取れば可能です。読者の側も、どこか既視感のある醜い争いだと感じたはずです。

 中国は、そんな金庸をどう思っていたのか? 70年代末から粗悪な海賊版が出回ります。80年代の改革開放路線ともなれば、香港から極上のエンタメがドッとなだれ込む時代となります。

 金庸は知名度と人気が爆発的に高まります。「金学」という金庸研究が提唱されるほど。そしてなんと、北京大学が発表した二十世紀を代表する作家第4位に位置づけられたのです。

 えっ……金庸が? あのおっさんが空中浮遊するチャンバラ小説の金庸が? そういうツッコミはもうやめましょう。中国人が低劣なものを好んでいるとか、そういう差別的な話はいいんです。

 痛烈だと思いませんか? 文化大革命を自作で皮肉り、漢人の偽善や悪徳を批判的に描いていた金庸が、中国大陸まで制覇し、代表する作家にまで上り詰める。これぞ、まさしく中国文学の伝統を踏襲し、発展させた大作家だと思うしかありません。彼の作品はめっぽう面白いし!

 現在では流石に古く、古典になりつつあるとは感じます。けれども、忘れられたわけではありません。若い世代が書いて、読んでいる武侠もののWeb小説、漫画、そのドラマ化作品は、金庸の世界観や設定を踏襲していると思われるものが多いのです。金庸という20世紀の提言をふまえ、21世紀を生きる私たちはどう変えていくか。そう考える意識を感じます。

 金庸の話が長くなり過ぎましたよね、ええ、わかってます。

 でも、日中の感覚の差がわかりませんか? 金庸の小説は、荒唐無稽で無茶苦茶で、イロモノ扱いをされます。武侠は韓国でも大人気なのですが、日本はいまだにこうです。

「武侠……ですか? 中国史ものならばよいのですが」

 売れないイロモノ、低劣な扱いです。古典ですら『三国志』は扱われても、武侠ものの名作古典『水滸伝』すらあまり読まれなくなって久しいと。

 どうしてでしょう?

 司馬遼太郎の責任をそこで問うのか? そう突っ込まれそうですが、無関係とは言わせませんよ。

日本に金庸のような作家はいるのか?

(山田風太郎、正史に対する稗史の意識はあるかという問いに答えて)
「あるかもしれませんね。稗史の方が好きだという。本当は、正史といったって、何が正史なのかわからないけどね」

 金庸の作風や年代と近い作家として、ここは山田風太郎をあげましょう。彼特有のお色気展開についての話は、後述します。

 山田風太郎は、中国の古典である『金瓶梅』を『妖異金瓶梅』としてミステリにしました。忍法帖は、『水滸伝』の翻案なのです。『金瓶梅』と『水滸伝』の翻案に挑んだ日本人作家は、滝沢馬琴に続いて彼が二人目となります。山田風太郎にはそんな滝沢馬琴にシンパシーがあるのか、滝沢馬琴の創作過程と『八犬伝』のプロットを組み合わせた『八犬伝』という作品もあります。

 では、本題にでも。

 本質的なことを指摘します。両者ともに【江湖】を描いているということです。【江湖】とは、武侠用語と誤解されておりますが、本来は【官(=廟堂)に対する民衆の世界】という意味です。

廟堂の高きに居りては、則ち其の民を憂い、江湖の遠きに処りては、則ち其の君を憂う。(范仲淹『岳陽楼記』)

為政者は、民のことを気にかけねばならない。民は、遠い場所にいようと、常に為政者を気にかけねばならない。

 これはなかなか便利な分類です。
 例えば、Amazonプライムの『ザ・ボーイズ』は、アメリカを仕切る大企業ヴォートなる【廟堂】の住人であるヒーローたちと、ザ・ボーイズという【江湖】の住人の戦いを描いていると定義できますね。

 山田風太郎の忍法帖は、忍者の世界です。武士にもなりきれず、中途半端な忍者。彼らは権力者の道具として使われ、相討ちし、惨殺されてゆきます。

 戦国時代を描いていても、無批判な【廟堂】賛美はしません。豊臣秀吉を主役に据えた『妖説太閤記』では、秀次に殉じて死んでいく女性のことを、一人一人描いてゆきます。彼女らは作品中で名前を得て、また死んでいくのです。この作品は秀吉を賛美するものではなく、権力者の惨さを徹底して描いてゆきます。

 幕末になると、さらに対比が強烈になってゆく。幕末ものは、武士の権力争いに巻き込まれる博徒や、民衆が描かれます。明治維新革命論を壊し、汚れ仕事を押し付けていた欺瞞を暴く、暗い問題提起があります。

 明治ものは、賊軍扱いされた会津藩出身者、囚人、女性……権力から遠ざけられた人々に目線が定まっています。

 最晩年の室町ものでは、【廟堂】側にうつり、権力者を解剖する目線があります。

 私は山田風太郎の作品が、司馬遼太郎に劣るとは思わない。知識にせよ、文体にせよ、両者ともに極めて巧みである。それなのに、山田風太郎はイロモノ、ゲテモノ扱いをされる。読んでいると知られただけで、そんなものやめろと何度言われたことか。苦笑を浮かべつつ、そんなものより司馬遼太郎を読めと言われたことか。これは金庸にせよ、他の作家でもよくあった話ですが。

 誰かにすんなりと、「これを読んだ方がいい」という理由で、本を勧められる。そういう明快な方って、うらやましいとは思う。私は万人に自信を持って薦めたくなるような本は、知りませんので。

 私が司馬遼太郎を読んだことあるかどうか、そこが気になりますか? そんなこと、どうでもいいでしょう? だって、これを読んだ方が賢くなれると私にアドバイスをしてくる司馬遼太郎ファンの皆様は、その点を確認しませんでしたから。彼らにとって、私は愚かでお説教すべき存在だったこと。そこが重要ではありませんか?

 どうして山田風太郎は、バカにされるのか?

 エロいから? それはあるでしょう。山田風太郎はメディア化へのチェックがゆるい。ないに等しい。『忍法帖』はエロ時代劇の定番として定着しました。

 ただ、これは指摘しておきたい。昭和の歴史および時代小説のステルスエロ率は何なのか? 真面目なタイトルと装丁、作品紹介なのに、延々と大名が側室とエロいことをする場面が続く。その手のものは、時間を返してくれと言いたい。そういうBLもあったっけ。それをふまえますと、自作はエロだと言いきって嘘をつかないだけ、山田風太郎は良心的です。

 じゃあ、エロ以外に理由があるか? ええ、そこに気づいてしまった。

【江湖】軽視の結果はどうなるのか

 【江湖】、民衆視点だから「低劣なもの」とされたのではありませんか?

 『麒麟がくる』を見ていて、駒の出番は飛ばすと堂々と語る人。

 朝ドラヒロインが自立を目指すと、「この生意気なバカ女!」と口汚く罵倒し、「こういう良妻賢母になれない女は、社会を困らせるからどうかと思う」と言い出す視聴者。

 労働者でありながら、経営者目線に立って、「困るんだよな」「バカか」とストライキを冷笑する人。

 フラワーデモは「法律を知らないバカがしていることです」と冷笑的なことを書き込む法曹界の人。

 「歴史はただの豆知識」と言い切り、歴史の教訓から否定された非人間的なアイデアを、得意げに語る理工系の賢いらしい人。

 エンタメに政治的な主張や批判的な目線はいらないと、作り手目線でポリコレを罵倒する人。

 ヴィーガンに見せつけるためだけに、焼肉画像をSNSにあげる人。

 献血ポスターへの抗議だけで、強烈な反応をして、皮肉ったフェミニスト批判をずっとSNSに書き込んでいる人。

 人々の声で世界を変えたい。グレタ・トゥーンベリさん、石川優美さん、署名活動を始めた女子高生。そんな人たちを延々と、世間知らずで生意気だと、しつこくずっと叩いている人。

 大坂なおみさんと伊藤詩織さんがTIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたことで、不愉快になっている人。

 「空気読めば」「意識高いね〜」が口癖の人。

 コロナが猛威を振るう現実を前にして、人命より経済だと言い切る人。

 私に対して「なんだこのパヨクがw」と冷笑気取りの人。そう、そこのあなた。左翼もクソもない。私はただずっと【江湖】の住人です。VR【廟堂】住人であるあなた達とは違う。

 何も、彼ら全員が司馬遼太郎ファンだとは言いません。けれども、司馬遼太郎の創作ありきの信長像や竜馬像を元にした作品を、鑑賞なり愛好しているとか。
 親、恩師、上司が司馬遼太郎ファンで、その話を聞いているとしたら?
 ならばこの社会の一員です。現代日本で、司馬遼太郎の影響抜きで生きていくことが可能かどうか? ましてやそれが歴史がらみならば?
 それが社会というものなのです。よほど強固な自我でもないかぎり、かなり難しい話だ。

 社会に溢れる皮肉った笑みに、私は見覚えがある。【江湖】をくだらないと失笑し、【廟堂】にいる権力者の目線でだけ世界なり歴史を語れと言ってくる人に共通する何かが。
 よいもの。売れるもの。みんなが好きなもの。そうしたものは無謬で正しく残量。それを愛好する自分またそうであると、確信を込めた笑みです。
 【廟堂】でなくて、“王道”という言葉の方がよく使われますかね。
「これぞ王道!」
 そう小鼻を膨らませ、自分の好きなモノを勧める人。その自信が、ああ、うらやましい。

 でも、いつまで【江湖】をバカにしているんですか?

 もったいない話です。【江湖】の歴史こそ、教訓の宝庫なのに。
 徴兵制度の是非。権力者だって、民衆の力を動員せねばどうにもならないこと。踏みつけにされた人々の痛み。そこから逃れた痛快な話。為政者の気まぐれで翻弄されるデメリット。為政者側をいかにして打倒し、社会を変えていくか?
 その結果が積み上がっていて、声だってたくさん詰まっているのに。おもしろい話がたくさんあるのに。そこから目を逸らして、偉そうな顔をすると。

 【江湖】を軽視すると、社会はどうなるのでしょう? サンプルはあります。

 時代劇。日本にはかつて、【江湖】を描く大衆向けの民放時代劇がありました。けれどもそれも消えてゆき、【廟堂】を描く大河だけになった。その結果、時代劇そのものが沈没気味です。

 まだまだありますよ! そんなもん妄想でしょって言いますか? まあ、そうなりますよね。ただの妄想で済ませられたら、よかったけど。

 まだ、続きはあります。【江湖】軽視の弊害はまだまだありますとも。

【参考文献】
岡崎由美『漂泊のヒーロー』

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