絵本でイランの今に触れる~3. ペルシャ語翻訳家「愛甲恵子」さん~
どんなマイナーな言語にも、翻訳家がいらっしゃる。イランで話す言語はペルシャ語。そのペルシャ語を専門に絵本の翻訳をされているのが「愛甲恵子(あいこう けいこ)」さんだ。
愛甲さんとの面識など全くない僕であったが、一緒に行った友人のずば抜けたコミュニケーション能力のおかげで、愛甲さんと直接お話することができた。
待ち合わせ時間にカフェに辿り着くと、友人が知らない人と話し込んでいる。ショートカットに眼鏡をかけた細身の女性。化粧っけはなく洋服もシンプルだがどこか只者ではないオーラを発している。
偶然(それはそれで凄いが)知り合いにでも会ったのだろうかと近づいていくと、僕の存在に気づいた友人はすぐに笑顔でその女性を紹介してくれた。聞けば、この原画展で紹介している数々のイランの絵本を翻訳をされている翻訳家の方というではないか。
「あれ、知り合いだったの?!」
僕は思わず聞いてしまった。
答えはNo。さっき知り合ったばかりだと言う。まるで昔からの知人のように会話を進める友人の積極性に内心舌を巻きながら、僕も会話に混ぜてもらう。
愛甲さんは東京外国語大学大学院の修士課程を修了したペルシャ語のプロだ。僕は大学でウルドゥー語をかじったが、アラビア文字というのは完全に異言語で、日本語が母国語の日本人にとっては学ぶのがとても大変な言語であると思う。
聞けば僕とほぼ同世代。そして彼女の大学のペルシャ語の講師を、僕の大学の恩師がされていたとのことで、共通の知り合い(先生)がいることがわかった。
それに加え、お互いイランのカシュガイ族という遊牧民が織る「ギャベ」という絨毯にも興味があることが判明し、会話リズムが軽くなる。他人同士の壁を一枚超えた感じがした。
余談だが、僕は大学生の頃「ギャベ」を卒業論文のテーマにし、イランのカシュガイ族を訪ねたことがある。サラサラとした砂が稜線を描く砂漠ではなく、ごつごつとした岩や小さな砂利が転がる殺風景な原野にカシュガイ族の一家族が住んでいた。周りの風景にマッチした飾り気のない掘っ立て小屋。水道や電気は通っていなさそうだった。ろくに壁などない小屋の中に、宝物ののように丁寧に手織りのギャベがいくつも畳んでしまわれていた。
ギャベは絵本の一ページのようである。
カシュガイ族の女性が、地平線に沈む夕日や家族同様の家畜、そういった日常のアイテムを絨毯の柄として織り込む。
彼らの生活が芸術として昇華されているのが「ギャベ」なのだ。
ギャベにも絵本にも、生活が溶け込んでいる。そして歴史も流れている。
僕は四半世紀近く前にこの手で触れたイランの手織り絨毯の感触を思い出しながら、目の前のイランの絵本を手に取った。
「翻訳する前に、文章を一度分解して、全体を理解してまた組み立てます」
愛甲さんが言った。
作品の雰囲気を感じ取り、詳細を想像し、日本語へ変換する。
「たとえば、僕や私などの一人称は、ペルシャ語でも言い方がちがうのですか?」
「同じなので、作品によって僕にしたり私にしたり呼び方を変えます」
なるほど。英語でも同じことが言える。別記事のスクールバスの運転手であるボリスさんの言っていることを日本語に訳す時、彼の全体的な雰囲気から、私やオレではなく、僕と訳している。
人はそれぞれ髪型や話し方、それに服装なんかが違って、そこから印象を受け通訳するときの口調を変える。「僕はこの絵本が大好きなのさ」とか「私はこの絵本が大好きなの」と訳しても、元の英語は「This is my favorite book」だったりする。
絵本の翻訳も根本は同じで、絵柄、ストーリー、キャラクターの性格なんかから判断して、一人称や口調を考えるのだろう。
愛甲さんは「サラーム・サラーム」というユニットを組んで、イランの絵本やイラストレーターを紹介する展覧会などを開催されているそうだ。このカフェで展示会を行うのも9回目とのこと。イランにも定期的に訪れて、最新の情報を自ら現地から得てきているとのことだった。
静かなる「能力x継続」のパワーを感じるお方であった。