手紙 ~自分を受け入れるのは~

 楽しむことを必死で学ぶ?自己矛盾ですか…。
何か、「楽しんではいけない、幸せになってはいけない」という脚本をお持ちですかね…。

 何だか、読んでいてNさんに語りたくなりました。読み流してください。

 これは交流分析の人格適応論なのですが、過度に支配的な養育スタイルだと、受動攻撃型適応タイプになると書いてあります。私は子どものころ、「存在してはいけない」という脚本を持って育ちました。最悪の脚本です…😅

  私のこの脚本は、母親ではなく姉の影響でした。育児放棄的な母親だったので、姉に教育されて育ったものですから…。 
 でもって、その姉に憎まれていたので…😢。

 こんな話が出来るのも、「自分に足るを知る」事が出来るようになったからですが、人間の多くは、きっと何かしらトラウマを抱えているんでしょうね。そして、一人では中々脚本を書き替えられないようです。

 私が脚本を書き替えられたのは、ほんのちょっとした言葉でした。
 精神病院に入院する程こころを病み、それでも、仕事を続けなければ余計精神を病むと信じていた私は、うつ状態のまま苦しみながら6年間働きました。根底には、誰かの役に立つ何者かでなくなった私には、価値が無くなると思っていたのです。そして、どうしても精神を病んだ自分を受け入れられずにいたのです。看護師として、30年以上働き、カウンセリングを学び、精神科にも勤務したいたのに…😅私の大嫌いな精神疾患に対する差別を、私自身もしていたのですね。

 ある日、あまりの辛さに、「仕事やめようかなぁ…。」と夫に呟いたんです。「良いんじゃない?」まるで、何でもない事のように夫が答えました。

 つまらないことです…。

 でも、その言葉で、私は囚われから解放されました。

「良いんだ…。私は、精神を病んでも、何者かでなくても、ただの私でも良いんだ…。」

 理屈ではありません。理屈なら自分で講義をする程学びました。でも、それはただの知識でしかありませんでした。

 「愚者は経験から学ぶ」

 そんな言葉があります。
体験しなくても、腑に落ちる知識は身に付けられるのでしょうか?「体験をこころに落として、経験になる」と先日の講義で教わりました。いずれにしても、私は歴史から学ぶことは出来ない、賢者にはなれないようです。

 長くなりました。要は、つまらない言葉でも、ある人にとっては、厚いこころの防護壁を外す鍵になりうると言うことです。それは、その人にとって、最適な時、最適な場所、最適な人から発せられ、受け取る側のお皿がちゃんと育ったタイミングが必要なのだと思います。


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