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閃光花火【3】タナボタの遠吠え

「一点だ、まずは一点。この回、必ず追いつくぞ!」
 阿久津の力強い言葉に、円陣を組んだ全員が大きな声で応える。乾いたグラウンドに汗が流れ落ち、幾つもの染みを作った。
 七月最後の日曜日は、笑えるくらいの快晴だった。試合が始まった午前十一時半の時点で気温はすでに三十度を超えており、正午を過ぎた今はさらに暑さが増している。この暑さと緊張、そし興奮から、先程からやたらと喉が渇く。攻守が入れ替わるタイミングで随時水分補給を行ってはいるものの、かんかん照りの太陽の下ではほとんどが意味を成さない。額に滲んだ汗を拭いながらグラウンドに視線を向けると、陽炎の揺らめきが目を焼いた。
 現在、五回の裏、攻撃の回。相手は県内屈指の野球強豪校で、ついさっきの表の回、とうとう先制点を許してしまった。ここまでの失点はその一点にとどまるものの、依然として不利な状況に変わりはない。正直なところ、ベスト4まで残ることができたのも奇跡に近いし、今だって、格上相手に良くやれているほうだとは思う。しかし、「良くやれている」だけでは駄目なのだ。まだまだこれから、踏ん張らなければならない。
「まずは、一点」
 先程の阿久津の言葉を、繰り返し呟いてみる。ここで負けてしまえば、夏が終わる。夏が終われば、俺以外の家族は引っ越し、俺はばあちゃん家に世話になりながら、今度は大学受験に向けて足掻くことになるだろう。まだだ。夏が終わったあとのことは、まだ考えることができない。
 応援席からは、手拍子と声援が絶えず聞こえてくる。それらを全身で受けながら、バッターボックスに向かう仲間の背中を見つめる。うだるような熱気に包まれながら、数日前のことを思い出す。


「ボールボーイを断ったのは、遠いからだよ」
「遠い?」
「そ。応援席の方がライトに近いだろ?」
 そんな会話を、本来ならこのポジションに立っていたはずのチームメイト、関谷響と交わした。彼は野球をやるためにこの高校に進学し、一年の頃からいきなり四番に抜擢された、いわゆるエースと呼ばれる存在でもあった。過去形なのは、彼が今はもう、エースと呼ばれる立場から遠ざかってしまったからだ。

 俺たちにとって最後の大会でもある今回も、当然のように、四番とライトのポジションは関谷だった――当初は。十日ほど前の二回戦の際、「脚に違和感がある」と言って途中交代し、そしてそのまま、グラウンドに戻ることができなくなってしまった。
疲労骨折だって。…呆れるよなぁ、最後の最後で。どうした、と訊ねかけたこちらの言葉を遮って、関谷は力なく笑っていた。彼がそんな風に笑うのを見たのは初めてのことだった。
 それから程なくして、関谷の代わりに抜擢されたのが、控え選手の一人であった自分だった。関谷は「やっぱり」と言って笑っていた。
「俺がこうなってから、ライトは高宮だな、ってずっと思ってたよ」
 何も言えず黙っていると、関谷は自分が使っていたグローブを差し出した。
「…任せた」
「………おう」
 それを受け取りながら、ようやく頷く。すると関谷は、
「お前、ちゃんと自分のために戦えよ」
と言い放った。あまりにも唐突だったので、思わず口を開けて呆ける。
「どうせ、俺の代わりに、とか俺の分まで、とか考えてただろ」
 図星を突かれたようで、思わず黙り込んでしまった。
 思わぬタナボタは、心底複雑だった。だから何度も考えた。考え出したらキリがないことは承知の上で、それでも、考えないでいるということはできなかった。喜ぶべきなのか悔しがるべきなのかもわからず、ただがむしゃらに戦うしかない。関谷の分まで――それくらいしか、できることはないと思っていたのだ。
「そんなの、全部取り払っていい。何の後ろめたい気持ちもないだろ」
 たしかにそうだ。関谷の疲労骨折も為るべくしてなったことではないし、ましてや自分がその代わりになるなんて思ってもいなかった。どんな風にして回ってきた運命なのか、自分が「ライト」というただひとつのポジションに立つことになった、ただそれだけだ。関谷の言葉が、今日のこの日までずっと、耳元でこだましている。

「前に、自分のために戦え、って言っただろ?」
「うん」
「結局、自分にも同じ言葉が返ってきたんだなって思った。…だから、ボールボーイは断った。俺のために」
 そう言って関谷は表情を引き締めた。ボールボーイを断ったのは、まぎれもなく、自分自身のためだと言う。少しでも自分のいたポジションに近いところから応援するために。…ただそれだけ、だけど、それ以上の理由もない。
「…じゃあさ、」
 気づいたら、言葉が自然と身体の外に出ていた。
 本当なら、ライトを守るのは彼で、自分がそこに立つことはなかった。しかし、どんな風にして回ってきた運命なのか、俺がグラウンドを踏みしめている。だから、自分が後悔しないように、精一杯戦うまでだ。背負うとするならば、彼の思いではなく、この運命だ。
「その近いっていう場所から、見ていてくれ」
 向かい合って、まっすぐな言葉を紡ぐ。関谷は愉しそうに笑った。
「もちろん。…中途半端な気持ちになったら、ぶっ飛ばすぞ」


 わぁ、と歓声が上がり、ハッと我に返る。阿久津の打った白球が、大きな放物線を描きながら青く高い空へと伸びていくところだった。宣言通りのスイングに、さすが主将、と口角を上げる。
中途半端な気持ちになったら、ぶっ飛ばすぞ。
 耳元で、たしかにそう聞こえた、気がした。一塁側の応援席の方を向く。そこには関谷がいるはずだ。ベンチからはかなり距離があって、正直どこにいるのかもわからない。なのに、その鋭い視線を感じたようだった。
「ぶっ飛ばされるのは、勘弁だな」
 苦笑しながら、仲間の名が刻まれたグローブを軽く叩く。ゲームは五回の裏、まだまだこれからだ。高い午後の日差しが、灼熱のグラウンドに色濃く影を焼いていく。

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汗と砂にまみれボールを追う彼ら:高宮治(たかみや・おさむ)