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「ある男」と「ヴィレッジ」の共通点

平野啓一郎の同名ベストセラーが映像化された「ある男」と
M・ナイト・シャマランではなく、藤井道人監督の「ヴィレッジ」を鑑賞。

二つの映画にはある共通点がある。
「生まれ変わり」
一つは限られた人間を巻き込んで完全に別人になろうとした。
一つは周囲の協力で別人の様に生き直すことにした。
生まれ変わって本来歩むはずだった人生を取り戻すことで、幸せを掴むはずだった。
というお話。

親の罪。何故その子供まで同じ十字架を背負わなければいけないのだろうか。

一言では済まされない、現実の苦悩と自分が何者かである事の呪縛。
逃げられないと踠くその姿は、少しだけ自分を重ねてしまい見ていて苦しかった。

人は何者かであろうと頑張ったり努力したり、或いは偉そぶって嘘をついたり人を騙したりするのに。
人生スタート地点から躓いている自分は何をしても「どうせアレだから」と自分で自分を閉じ込めてしまう。そんな思考癖に長年囚われていた私は最近ある真実を知った。

これまでの人生、あの家に生まれなかったら良かったのにと何度思ったことだろう。
この狭い町で名前を告げるだけで斜めに構えられる思い。
婚姻で姓が変わった今では旧姓を聞かれても絶対にその名前は口にしないと決めている。
その地元にいながらの苦しみを、真実を知ることによって全て崩すことにした。


出自は被差別部落ではないということ。
薬で何度も逮捕されているヤクザ紛いの人間や、若い頃から何度も補導されいまだにその振る舞いが抜け切れてない人間、地元では絶対に親戚だと口が裂けても言えない。
そして私の人生の邪魔をしてきた両親と兄弟。(母は他界)
これらの人間は、私とは何ら関係の無い者達として、心にけじめをつけ生きて行くことにした。

この何とも言えない気持ちは、映画の登場人物が別人に生まれ変わった瞬間に感じた穏やかで清々しい思いと同じだろうか。
それとも「逃避」なのか。

映画では、生まれ変わった主人公を見て周囲は困惑している。そして真実を知った身近な人間は嘆き悲しむ。
一方私の周りには誰一人としてそれを否定する者はいない。
寧ろそうであって欲しい、その方がいいとお陰様で励まされている。

他人と同じ目線で関わる事の満足感、恋人ができた事への幸福感、家庭を持った事への安心感。
何よりも別人に生まれ変わり初めて味わう充実感。
映画ではその間のシーンがとても尊いものになっている。

私はそれを続けていけるのだろうか。
また何かに頭を叩かれる事があるかもしれない。
まだまだ運命に抗うこと無く我慢の連続なのではないかと被害者面をしながら、少しの不安は残るものの、思考の最後には強くあれと自分に言い聞かす。
その繰り返しかもしれない。


この二つの映画の主人公も
ほんの少しの勇気と強さがあれば‥。と思うばかり。

非常に個人的に考えさせられる映画だった。

(「ヴィレッジ」の能面を被った村人の行列シーンが圧巻です。)




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