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「シェアメイト」から「介護者へ」。みっともなくなる自分の心。のぞき見体験note番外編

たけしとの共同生活をしてから1年間が経った。https://note.com/53617110/n/n768d8cce8e72

共同生活をきっかけに夜勤でたけしの生活支援をするようになった。ここ最近では週1くらいに支援に入る頻度が増えている。介助者になってからの変化について書いてみたいと思う。

行動がより予測できるようになった

介助者として働くようになると、当たり前だが知らないふるまいに対して困るようになった。そして、なるべく既知の行動パターンを取ってくれることを強く願うようになった。シェアメイトの時は余裕があって面白がることもできていた想定外のふるまいを、介助者になると苛々して「やめてくれ」と思うようになる。すると「どうしたら思い通りに動いてくれるだろう」と、たけしをコントロールをしたくなる視点が生まれた。このコンロールしたくなる視点については次の項目できちんと触れたい内容なのだが、利点としてはたけしに対してのより『正確な』観察眼を養ってくれた。例えば、表情やふるまいから怒っている時や楽しい時を確信をもって読み取るようになった。ただ、もちろん以前noteに書いた通りたけしに気持ちを確認したわけでもなく本当のところはわからない。他のヘルパーさんの意見と自分の考えを擦り合わせたり、仮説検証を繰り返したりするうちにわかる気になってきたのだと思う。まだまだ未熟な観察眼だと思うのだが、今はそれでもいいと思っている。人間関係において「繋がっている感じ」を強く求める今の自分にとっては、たけしの感情がわかった気になることは心地よく働くためには大事なことであるからだ。程よく勘違いをしながら介助を続けていけたらと思う。

たけしに甘えすぎるようになった

シェアメイトとして暮らしていた時よりもたけしに甘えるようになった。自分の至らなさに苦しく感じることがあった時にたけしの支援が入ることがあった。その時、めっちゃ癒された。周りの目もあまり気にしなくなってきた時で、たけしの背中にガッツリ泣きついてしまった。その時、たけしは自分のことを気にせず石遊びをしていた。何もアドバイスをすることもなく見下す素振りもないたけしは、自分に恥ずかしい想いをさせずに受け止めてくれた。その距離感が自分にとってちょうどよかった。
それから、少しスキンシップが増えた気がする。つい触りたくなる。心の中で「お互い様だよね」と言い訳をしている。介助をさせてもらっているから、気兼ねなく泣き付くことができる。たけしは、自分のカウンセラーになってしまっている。

倫理感の弱さに気づかされた

こちらのnoteで自分が危惧していた内容を実際に経験した。自分の倫理観のかなりの割合が人の目によって支えられていることに気がついた。例えば、たけしは就寝前に眠れるための薬を飲むのだが、その飲むタイミングをたけしの事情ではなく自分の都合を優先したくなったことがあった。先輩スタッフからはたけしが落ち着いてきたタイミングで薬を服用するようにと言われていたが、その時はたけしが落ち着かず服用のタイミングが取れずにいた。働き始めたばかりで周りから信頼を得ることばかり考えていたその頃は、服用のタイミングが遅いとたけしを落ち着かせるためのフォローをさぼっていると周りに思われるのではないか等と不安に感じた。そして、少しでも落ち着いた風のふるまいが見えたら、元気になってしまう前にすぐ薬を飲ませようと身構えた。

アルバイトとして夜勤で働くと、自分1人でたけしの介助をすることになる。業務時間中にたくさんサボろうと思えばできるし、逆にめちゃくちゃ頑張っても、数字として結果が出るわけではない。その環境下においては、「どうしたら自分が楽ができるか」の問いがよく浮かぶ。そのために自分の都合がいい状況にたけしが動いてくれるようにコントロールしようとする考え方が強くなる。たけしが大好きな飴活は、後片付けが大変でさせたくないと考える。音楽を弾いてほしいと要求があっても、テンション上がって寝る時間が遅くなると考える。そんな風にたけしは喜んでくれることがわかっていながらも、当たり前のようにこちらの都合を優先することが時々ある。
たしかに、全てたけしの要望に応えるわけにもいかない。当たり前と言えば当たり前だが、たけし以外の自分や他のスタッフさんの都合のことも考えて、それぞれのバランスをとることが大事なのはわかっている。しかし、そのバランスは曖昧だ。曖昧だから、たけしの都合は一時的に自分が握ることができる。そして、『自分好みのバランス』で判断を下すことがある。

介護者になると、ダメな奴に。

「シェアメイト」としてたけしと関わっていた時と比べると、ずいぶんと自分が至らぬ人物になったように見える。たけしを許しにくくなる。たけしの喜びをピュアに考えられなくなる。たけしをコントロールしたくなる。もしかしたらたけしは、「こんな残念な人物だったのか」と自分に落胆をしているのかもしれない。介護者に変わって背負った立場や1年経って生まれた執着や甘えが、たけしから見た時の自分像を変えた。ちゃんとしないといけないと思う。しかし、最近そんな自分になるのは当然だと受け止めてみてもいいのではと考える機会があった。
家族で旅行にいくことがあった。その時、昔の母に対しての見方を思い出した。母は外ではとてもやさしく、頼りになる人物に見えていた。一方で、家の中では、とてもきびしく、頼りになるとは言えない人物であった。そのギャップに少し不満を持ったものだ。今思えば、外に出ると母が「奥様」という立場を背負ったり、近所の複数人と関わっていたりしたから、立ち現れた人格だったのだろう。旅行中の家庭の外にいる母が、後者のしっかりしていない母であった様子を見て「やっぱりそうだったのかもしれない」と思った。
それから、もう少し押し広げて人間性が変わることについて考えてみた。彼氏になった男友達。同僚になった友人。総理になった議員さん。こういった立場の変化に際し「あの人は変わってしまった」という言葉が度々あてがわれる。自分も例外ではない。「いい人だと思っていたのに」と怒ってしまったことがある。その時は、なんだか騙されたような気持ちにもなった。そう感じると、傷つくことを避けるために、以前のような温かな関わり方ができなくなる。こうして心が離れ離れになっていく。悲しい離れ方だ。なるべく避けられるものなら避けたい。このようなことを避けるために、自分を含めて人が立場によって変わってしまうことを受け入れてみてもいいかもしれないと考えた。
そこで今回は、自分のたけしから見た人間性の変化をよく心にとめてみることにした。自分自身も立場や環境によって、ある視点からみた人間性が簡単に変わってしまうことを受け入れる。関係性が変われば人間性が変わる前提に立ち切ることが出来れば、自分の好きな人が変わったように見えても深く悲しむことはあるまい。こう考えると、仮にその人が変わってしまったように見えた時も、自分が傷つくことに怯えることなく、その人の背景に想いを寄せることができる。その人の背景に共感できた時、心地のいい関わり方を考える余地が生まれそうだ。望む人間関係を長く続けるために大切な知恵を見つけることができたのかもしれない。
とは言えども、支援を仕事としてする以上、ただ受容しているだけでは現状に甘んじることになってしまうのではないかと思う。何か対策を講じなければいけない。今の環境において、より良い支援ができるようになるためにはどうしたらいいのだろうか?これから色々と試していきたいと思っているのだが、そのうちの1つは今書いているこのブログである。自分の支援の内面的な変化を、許される範囲で第三者に共有することで、気持ちがはずである。今後とも、たけしとの支援の様子をnoteに書いてみようと思う。

今回の劇場

文章/写真:中原誠大

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