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眠りを呼ぶ、私を取り戻す。

昨夜あれほど煌々と輝いていた月が、今夜はその形をすっぽりと雲に隠している。今日は少し欠けた月が見たかった。

完璧なものは怖い。不完全である事を責められている気分になるから。

田舎の夜は闇が深い。しんと静まり返った闇の中で、虫たちの声だけが響いている。
夜に考え事をしてはいけないというのは、経験上かなり正しい。

感情が暴れている。こんな夜は思考や言葉が尖っていく。優しい文書を書きたいと思いながら、表に出すには憚られるような言葉が私の中にはいくつもある。そういう自分を、未だに許容する事が出来ない。息が出来なくなる。

朝になれば、この忌々しい気持ちはいくらか消えていく。これまでもそうやって夜を何度も超えてきたのに、今夜はいつになく眠りが遠い。

今、限りなく自由だ。沢山の選択肢とそれに伴う可能性を持っている。それは母と弟と一切の連絡を絶ってから強く感じるようになった。

望んでいたことなのに、時折この自由がとても恐ろしくなる。

好きなものを買ってもいい。禁じられていた漫画やアニメを好き放題観てもいい。
好きな洋服を着て、どこへでも行っていい。
自分のためにお金を使うことを許されていて、その事に罪悪感を覚える必要もない。
何を信じて、何を信じないかを自分で決めていい。

そういう、自由に選択してもいい環境に身をおきながら、毎週少年ジャンプに手を伸ばす指先は、未だに少しだけ震える。視線に怯えている。もう関係を絶ったはずの母の視線が怖い。

「お母さんが怖い」

もう二児の母親になったというのに、あっという間に幼い頃の私に戻ってしまう。

まるで「ショーシャンクの空に」の中のブルックスやレッドのようだ。
50年刑務所で生きてきたブルックスは、出所後の社会でいつも何かに怯えている。長年看守に許可を得てからトイレに行っていたレッドは、職場の上司の許可を得なければ小便すらうまく出せない。

ブルックスとレッドと、ジャンプが上手く買えない私。

三人とも、自由に縛られている。

大海原の船の上。そこに大の字になって、大きく息をする。波や日差しは穏やかで心地いい。ふと起き上がり、あたりを見渡してみる。延々と続く水平線以外、何もない。突然なんの前触れもなく大きな不安がやってくる。どこに舵をきればいいのかわからない。どこにいるのか、どこへ向かえばいいのか。そして深海に引き摺り込まれるような底知れぬ不安と恐怖がやってくる。そんな感じだ。

「この洋服はダメ」「あのお友達とは遊んではダメ」「家から通えない学校はダメ」「就職先は家から通えるところじゃなきゃダメ」「こんな下着をつけていやらしい」「生理が来たなんて汚らわしい」「お姉ちゃんなんだから弟にきちんと言い聞かせなきゃダメ」「親に反抗したら絶対バチが当たる」

「あんたはお母さんがいなきゃ生きていけないんだから」

母は私を傷つける天才だ。言葉の暴力は、目に見える所には傷をつけない。

母が私に刻んだ言葉の数々が、今もすぐそばで聞こえる。もううんざりなのだ。馬鹿馬鹿しい、そんなの全部間違っている。わかっていても、縛られて引きずり戻される。

母と離れてからはっきり自覚したことがある。私は母の事が死ぬほど嫌いだ。

母は、私が縁を切ったことを後悔しているはずだと思っている。その証拠に私の誕生日には毎年手紙が来るのだ。縁を切ってから初めての手紙は、私の職場に届いた。恐ろしかった。安全地帯がまたもや奪われる。それでも中身を読んだのは、誠心誠意の謝罪が書かれてある事をほんの少しだけ期待したからだ。

謝罪など一言も無かった。私が望むような言葉は何一つ書かれていなかった。本当に何ひとつ、だ。私のことを愛していると記された手紙を読んで、体の芯から冷えていった。心に闇が広がる。

明確に感じた。自分の中の抱え切れないほどの怒りと、憎悪。それは殆ど殺意だった。とびきりの不幸を願ってしまう。そんな悍ましい気持ちが、自身の中に潜んでいることが恐ろしい。酷く我が身をな消耗する。

手紙はすぐに受取拒否の手続きをして、住民票も閲覧制限をかけた。



母の息がかかっているものが心底嫌だ。自由の身になるまで私と私を取り巻くものは、殆どは母が形成したものだった。少しずつそれを振り解く毎日の中、どうしたって手放せないものがある。

自分の名前が、とても嫌いだ。到底愛せない。
キラキラネームに片足を突っ込んだような名前をつけたのは母だ。幼少期、病院なんかで名前を呼ばれれば二度見をされたし、アルバイトをすれば「源氏名?」と揶揄された。今でこそ会話や人脈形成のきっかけなってはいるが、そうなったのは私自身の努力だ。今すぐにでもこの名前を剥ぎ取って、別の名前で生活したい。

次男の夜泣きで我にかえる。震える指先で抱きあげて声をかける。

「大丈夫、大丈夫」

跳ね飛ばされた布団を長男にかけ直す。

「大丈夫、大丈夫」

腕の中で次男が寝息を立てる。布団に包まれた長男の頬に触れる。

心に灯が灯る。体温が上がる。震えが止まる。

私は私を取り戻していく。

愛おしい体温達に身を寄せて、眠りが迎えにきてくれるのを待とう。
明日の朝は、夫の淹れる温かいコーヒーの香りで目を醒まそう。

深まる夜を、どうにか今日も超えていく。

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眠れない夜に

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