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第四十五話「戻ってきて」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

(読了目安時間 8分 3723字)
※この先の文章には生死に関するセンシティブな表現を含みます。苦手な方は読むのをお控えください。

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 あったかい。ここ、どこだろう。とても心地いい。ずっとここにいたい。

「……モちゃん、可愛い……」

 誰?

「トモちゃん……可愛い……」

 誰ですか?

「戻ってきて……。可愛い可愛いトモちゃん、戻ってきて……聡明な……」

 戻る? いやだ。ここが気持ちいいんです。戻ったってどうせ世界は腐って……

―― この腐った世界では“イイ子”ばかりが壊されていく ――

「あああ!! ユヅルさん!! 私また寝過ごして――!!」
「起きた? トモちゃん」
「え?」
「おはよう。突然叫んで起きるからびっくりした」
「おは……よう?」

 今の自分の状況を把握するのに時間がかかりました。
 どうやら私はユヅルさんと二人、寝室のベッドで眠っていて、たった今、叫んで起きたっぽいです。隣にはユヅルさんがパジャマを着て横になっていて、とても優しい表情で私を見ています。

「トモちゃん、朝ごはん作ってあるけど、食べられる? ここまで持ってこようか?」
「……」
「まだちゃんと喋れないか。やっぱり“イイ子”は可愛い」
「……」

 曜日と日付つきの時計を見ると午前十時過ぎです。今日は日曜日か……。
 昨日よりかは、まだ頭が働くかもしれない。この男が昨日私に何をしたか、全部思い出せるから。昨日あんなにグロテスクな映像を見せられて朝食なんか……

「ううっ」
 私はベッドに横になりながら床に向けて嘔吐しました。昨晩ユヅルさんから与えられた恐怖が体中に蘇ってきて、嘔吐しながら同時に恐ろしいほど体が震えているのが分かります。

「トモちゃん、大丈夫?」
 ユヅルさんはまた、以前ように嘔吐する私の背中をさすってきます。いやだ。この人は昨日、私がとても怖いと感じることをしてきた。怖い、怖い、怖い――!!
 こんなに恐怖を感じるのなら、もういっそ何も考えられなくなればいいのに。自分が何を怖いと感じるかなんて、忘れられればいいのに。どんなに考える力を奪われても、人間だからやっぱりどこかの段階で復活してくることもあるのかもしれない。
 だからこの男は、その度に<躾>を、その大切な手で――

「いやああ!! 違う! 違う!!」
「トモちゃん、どうした!? 落ち着いて!!」
「ユヅルさん。私もう、いらない……」
「え?」
「“自分”なんか、いらない」

 私はまた嘔吐しました。そして、ユヅルさんは今度は私の背中をさすることはせず、私が嘔吐し終わっても、ただ私の顔を見ているだけです。とても冷静な顔つきで。

「そういうことは、サイトウに言え。明日の夕方、あいつがお前に会いにくる。あいつなら、上手くソレを奪ってくれるだろうから」
「ゆき……ひと……でしょう?」
「お前がその名前で呼ぶな。いいから、食事はちゃんととれよ。少しでもいい」

 ユヅルさんはそう言って、ベッドの上で横たわって動けない私の口をティッシュで拭き、床を掃除したあと、キッチンから朝食を運んできました。彼は私の体を起こし、フォークを使ってバナナやリンゴを私の口の前まで持ってきましたが、私はこの男が怖くて、とても何かを口にする気になどなれません。

「なあ、果物も入らないのか?」
「ユヅルさん、亮介さんは“イイ子”にしないで……」
「亮介は俺の趣味じゃない。あいつは、綺麗だから」
「よかった……」
「固形物がダメならお粥にする? 今すぐ作るから、待ってて」
「どうして? 何で食べなきゃいけないのですか?」
「生命維持すらやる気失くされたら、こっちも困る」
「そうですか。でも私は、もう死にたい」
「死にたい? どうやって?」
「飛び降ります。こんなふうになってしまった自分の愚かさにケジメをつけるため、私はもう、ここから飛び降りて散ります」
「意味分かんねえな」
「え?」
「俺の部屋から飛び降りて命を散らせることが“ケジメ”だと? お前は自分の最期まで、他人を巻き込んででも美しく在りたいなどという欲に流されるのか? “ケジメ”なんてカッコいい言葉を使って」
「あ……」

 何て言葉を返せばいいのか、分からない。

「いや……ごめん。俺の感情が暴走した。お前のその言葉の背景をちゃんと知ろうともせずに、悪かったよ」
「……? い、いえ……」

 ユヅルさんは「お粥作ってくる」と言い、寝室を出ていきました。ベッドの横にあるパソコン机の上には、私が一口も食べていない朝食が置かれています。
 ご飯、焼き鮭、味付け海苔、バナナとリンゴ、運ばれてきたときには湯気を立てていたお味噌汁と緑茶は、もう冷めてしまったのだろうな。

「トイレ行きたい……」

 私は、長時間トイレに行っていないことに気付き、急に尿意を催してきたためベッドから出ました。しかし、床に足を着けて歩こうとしても、バランスを崩してしまって歩けません。それどころか昨日の恐怖によって、そもそも立つことすらも出来なくなってしまったようです。

「うう。しかし、何としてでもトイレに行かないと、漏れる……」

 仕方なく、人生初のほふく前進でトイレに向かうことにします。ほふく前進のまま上半身を起こし、何とか寝室のドアを開け、トイレを目指して廊下を進んでいきます。とてつもなく床が冷たい。十一月に入って十日経っているんだし、そりゃ冷たいか……。

「お前、このタイミングでギャグはやめろよ」

 顔を上げると、ご飯粒が付いた木べらを持ったユヅルさんが私を見下ろしていました。
 そして彼はすぐにリビングに入り、そのあと何も持たずに廊下に出てきて、私の前にしゃがみ、今度は思いっきり呆れた顔で私を見ています。

「ギャグではありません。トイレに行きたいのですが、立てなくて……」
「なら俺を呼べばいいだろ。この後に及んで何の訓練してんだよ?」
「……」

「私がこうなったのは誰のせいですか?」なんて、言いたくても言えません。怖いから。この男が怖いのに、この男の手を借りてトイレに入るしか出来なくて、私は何とか漏らす前に用を足すことが出来ました。そしてまた、私に恐怖を植え付けたこの男に抱えられて寝室のベッドに寝かされる。「触らないで」なんて言えない。下手に逆らったら、また昨日みたいに……

「ユヅルさん、ごめんなさい! もうしませんから!! だからもう、閉じ込めないで、閉じ込めないで!」

 ユヅルさんがパソコン机の上の朝食を片付け、代わりにお粥を持ってきたとき、私はベッドの上で泣き出してしまいました。植え付けられた恐怖というのは何度でも蘇るのです。

「ユヅルさん、ごめんなさい。もうイイ子にしていますから。閉じ込めないで……」

 彼は今、どんな顔をして私を見ているのだろう? きっと笑っているだろうな。バカな女だって。

「ずっと横になってると余計に食欲出ないだろ。リビングで食べよう。もう昼食の時間だ。ああ、でも、その前に風呂だな」
「え……?」
「いつまで昨日の服のまま人のベッドに入っている気だ? ほら、一緒に風呂に入ろう」

 ユヅルさんはまだ上手に動けない私をお風呂に入れ、玄関に置いた私の荷物から黒のワンピースを取り出し、私を着替えさせ、リビングのテレビ前の座布団に座らせました。

 目の前にあるローテーブルには、お粥とマグカップに入った牛乳が置いてあります。これじゃあ、本当にペットみたいだ。

「随分と大人しくなったな。昨日の威勢はどうしたんだ?」

 ユヅルさんは私の横に座り、朝食のときのようにスプーンを使って私の口の前までお粥を持ってきました。もう与えられたそれを無抵抗に食べるしかないのかと思い、食べてみます。すると不思議なことに、一口食べたら次々に食べられるようになってきました。どうしてこんなにもこの人が怖いのに、この人のご飯は美味しく感じるのだろう。

「私、昨日はとても前向きになれた気がしたのに。自分が変われた気がしたのに。とてもじゃないけど、もうあなたに逆らう気などありません。知ってて私をあそこに閉じ込めたのでしょう? すべての感情を支配するのは恋心ではなく、恐怖だと」
「恋心?」
「あなたが私を大人しくさせたのでしょう? お望み通りの結果ですよ。私はもう、自ら“自分”を捨てたいとまで思っているのですから。昨晩の恐怖で上手く動けないし、このまま大人しく飼われ続けるしかない」
「ふーん。そっか。でも本当の恐怖は、気持ちいいものなのかもしれない。これでも観る?」

 ユヅルさんはそう言って、テレビ下のラックからDVDを一枚取り出し、それをレコーダーに入れ、テレビに映像を映しました。
 しばらくすると画面に【オレと自然と動物と愛と青春】というタイトルが出てきて、こんなものを見せられたら、さっき言われた言葉をそのまま返したくなります。

「ユヅルさん、このタイミングでギャグはやめてくださいよ」
「昔、この部屋で一緒に住んでた人が好きだったドキュメンタリーだ。久しぶりに観たくなった」
「は、はあ……」

 もう何でもいいや。大人しくこれを見よう……。

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(※今回の話には生死に関するセンシティブな表現が含まれていますが、思想を強要する意図があるものではありません。)


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