見出し画像

第五十二話「時間の問題ではない」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

(読了目安時間 8分 3981字)
前話へ
第一話へ

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「トモさん、無事でよかったわ」

 サリーさんのことを思い出し、もう少しで泣きそうになったとき、美雨ちゃんがホッとした様子で小さく息を吐いて、ベッドに腰掛けました。

「トモさん、SNSもメッセージアプリもアカウントが消えているし、電話番号は聞いていなかったから連絡手段がなくて、とても心配してたのよ。アカウントは、あの変態に消されたの?」
「いいえ。私が自分で消しました」
「自分で消したですって? 何故?」
「ほかの人の情報が入ると自信がなくなってしまって、それで……」
「バカじゃないの? なら、アカウントを消さなくても他人の情報を見なきゃいいだけでしょ」
「そ、そうなんですけど、なんかあの時はユヅルさんの言葉でリセットしたくなって……じゃなくて、私が逃げたからです。自分の弱さから」
「よかったわ」
「え?」
「ここでトモさんがあの変態のせいだけにしていたら、躊躇なく蹴りを入れているところだったわ」
「け、蹴りですか? それはいやだ……」
「それと、トモさんに嫌われていなくてよかったわ」
「ええっ?」
「一度ショッピングに一緒に行ったとき、トモさん全然楽しそうじゃなかったから。私だけが友達だと思っているのかしらって、正直不安だったの。だから、留学のことも伝えたって迷惑かなって思ったのよ」

 美雨ちゃんは恥ずかしそうにして、少し顔を赤らめています。留学を知らされていなかったのは、そういうことだったんだ――。

「ごめんなさい。あのときは、お仕事の件とか色々あって少し気分が落ち込んでいました。あと、私も同じく美雨ちゃんに対しては、自分だけが友達だと思っていたのかなって、そう不安になっていました」
「そうなの?」
「はい。だから、まさか海外から私を連れ出しに来るなんて思いもよらなかったです。あの、どうして美雨ちゃんは、そこまで私のことを大切に想ってくれているのですか? 私達そこまで一緒にいる時間があったわけでもないのに」
「……トモさん。少なくとも私にとっては、時間の問題ではないのよ」

 美雨ちゃんはスッとベッドから立ち上がり、私の目を真っすぐに見てきました。牛乳をかけられ、ポニーテールを包丁で切り落としたあとでも、やっぱり美雨ちゃんは誰よりも美しい。その美貌には、彼女の内面も現れているのかもしれません。

「トモさん、私はこの美しさによって、それはそれは凄まじい嫉妬を受けてきたのよ」
「お、おお……。そうでしょうねえ……」
「それに私は地元では裕福なほうなんだけど、地元を出れば上には上がいるから、見下されてもきたのよ」
「へ、へえ~」
「妬みもマウントも、もうたくさんなのよ! 友達を作ろうとしても私のこの性格じゃ浮いちゃって。無理して輪の中に入っても、遠回しにどっちが上とか下とか、そんな会話ばっかりだし。そんな人間ばっかり見てきたから、今この人は私を妬んでいるな、とか、見下しているな、とか、何となく感じ取ってしまうようになったの」
「妬みと、マウントですか……」
「だけど、トモさんは違った。私のことを妬んだり見下したりしていなかった。それに、どれだけ私が水虫らいすマン愛を語っても気持ち悪そうにしなかった。だから私は、トモさんと友達でいたいと思ったし、もしトモさんからビクビクされなくなったら、きっともっといい関係になれるだろうなって思っていたの」
「そうだったのですか……」

 それで私に『ビクビクされると相手も気を使う』って言ったのか……。そんなことも知らずに、私は少し責められているように感じてしまっていました。
 ふと視線を床に落とすと、美雨ちゃんの藍色のパンプスはボロボロになっていて、特にヒール部分なんて色が剥げているところがあります。

「そんなふうに想ってくれていたとは、全然気付きませんでした。ごめんなさい」
「謝る必要なんてないわよ」
「美雨ちゃんはやっぱり、地に足が着いていて強いですね」
「強い? そんなことないわ。私は全然強くない」
「どうしてですか? ユヅルさんの前でも強気だったじゃないですか。私だったら絶対、泣いています」
「紅白シャワー浴びせた人が何を言っているのよ。悔しいけど、あの変態の言う通り、私は結局パパに頼りっきりなの。大嫌いなパパのお金と、それに柏木達の協力があったからトモさんを連れ出せたの。一人じゃ何も出来なかったわ。だから、私は弱いのよ」
「そんなことないですよ。美雨ちゃんは、弱くないと思います」
「そう……? ありがとう、嬉しいわ。あのね、トモさん、実は私……前は音楽教師になるって言っていたのだけど、やっぱり夢を追いかけてみることにしたの」
「夢? ピアニストですか?」
「いいえ。音楽で人々の可能性を引き出せるような会社を設立するの。そして、いつかパパを超えるの」
「ええっ!? じゃあ、前に言ってた美雨ちゃんの勝ちたい人って……」

 ん? なんか今、明さんの悲鳴が聞こえたような。今、柏木さんと明さんはどこで何をしているのだろう? 
 気になっていたところで、柏木さんが私達のいる部屋に戻ってきました。

「あの男の子にはお帰りいただきました。美雨様と一日デートがしたいだの、何だのと終始興奮した様子だったので、少々釘を刺しておきましたが何か問題はございますか?」
「あら、寝癖野郎は帰ったのね。色々とありがとう、柏木」

 さっきのは、釘を刺したときの悲鳴だったのか……。ドア前にずっと立っているお世話係の若い女性はまた、気まずそうな顔をしています。
 柏木さんは美雨ちゃんに、彼女のスマホを手渡しました。

「先ほど少しだけ牛乳がかかっていたようですが、中身は問題無いようですよ」
「柏木、助かったわ。向こうに戻ったらまた預かっておいて」
「預かる? 美雨ちゃんのスマホは、いつも柏木さんが持っているのですか?」
「いいえ。海外では海外用のものを用意してもらっているから、それを使っているのよ。だから、向こうにいるあいだ、このスマートフォンは柏木に預けることにしているの」
「へえ~。そういえば美雨ちゃん、海外からわざわざ来ていただいてアレなんですが、ユヅルさんの部屋に私がいなかったら、どうするつもりだったのですか? 私を探し出す別の方法があったのですか?」
「はっ――!!」

 美雨ちゃんは、手で口を押さえて絶句し、そのあと両手で頭を抱えて座り込みました。

「私、代替案なんて頭に無かったわ。それに、今思えば、もっといい方法があったのかもしれない。先に亮介さんに相談してもよかったのかもしれない。そしたら、人ん家のドアを壊すなんて大胆なことをしなくて済んだのかもしれない。計画通り行かなかったときのことなんて……ああ……」
「み、美雨ちゃん、そんな落ち込まずに……」「ねえ、私って何てバカなのかしら! トモさんがいなかった場合のリスクなんて考えてもいなかったわ」
「そのために私がいるのです、美雨様」

 柏木さんは、頭を抱えて座り込む美雨ちゃんの右手を持ち、不安そうな顔になっている彼女をゆっくりと立たせました。

「美雨様、あなたはまだお若いのですから、まずはご自分で考えたように突っ走りなさい。リスクのことは、経験の上で学んでいけば良いのです。本当に危なくなれば、このジジイが動きますので」
「柏木……」
「まあ、それにしても、こんな深夜に『DIY同好会の活動』はないとは思いますがね」
「あああ! 一度上げてから下げるのはやめて、柏木!! ちょっと、あなたも笑わないで!!」

 美雨ちゃんと柏木さんのやり取りを見ていたお世話係の女性が、少しだけ笑みをこぼしています。うん、確かにあの状況で「DIY同好会」はない。

「あああ! トモさん!! 大変!!」
 美雨ちゃんは今度は私に対して、あたふたした様子を見せました。彼女はスマホの画面を見ながら、分かりやすく右往左往しています。

「どうしたのですか?」
「昨日、亮介さんから私のSNSにDMが届いていたわ。私、バタバタしていて気づけなかったの。ごめんなさい!」

 美雨ちゃんが私に見せてきたスマホの画面には、亮介さんから【俺は帰ってきたぞ! トモのメッセージアプリのアカウント消えてるんだけど、なんか知らん?】という言葉があります。

「へえ~。亮介さん、SNSやり始めたのですね……じゃなくて、帰国しているうう!!」
「そうそう。元々アカウントだけはあったみたいなの。それで、もっと色んな楽器の人と交流したいからって投稿もするように……じゃないわよ! 行くわよ、トモさん!!」
「何なんですか、お二人のその不自然な説明口調の会話は……」

 呆れたような顔をしている柏木さんをよそに、美雨ちゃんは私の腕を掴み、走り出しました。この子は本当によく突っ走ります。私が美雨ちゃんに引っ張られて部屋を出るタイミングで柏木さんは、お世話係の女性に「あとはお願いね……」と言って、ベッドに入っていきました。

「美雨ちゃん、行くってどこにですか!?」
「決まってるでしょ? 純朴元ヤン野郎のところよ!」
「それ……もしかして亮介さんのことですか?」
「ええ、そうよ」
「でも今、朝の三時四十分ですよ」
「それが何なのよ!」
「美雨ちゃん、平日勤務の会社員宅に月曜の朝から乗り込んだら、何されるか分かりませんよ?」
「そんなもん知らないわよ! いいから、車を出して!! 早く!!」

 美雨ちゃんは、一緒に走ってついてきたお世話係の女性に向かって、急いだ様子で指示を出しました。

 あーあ。もうどうにでもなれ……。多分、これが“ゾーンに入った”ってやつですね。柏木さん……。


次話へ

とても嬉しいです。ありがとうございます!!