第四十六話「ただ必死で生きている」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに
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ドキュメンタリーを観ながら、ふと時計を見ると午後二時を過ぎていたので、ユヅルさんに「いつもならお仕事に行っている時間では?」と聞きましたが、彼からは「今日は夕方の開店までに行けばいい」と返ってきました。
【オレと自然と動物と愛と青春】というドキュメンタリーシリーズは、自然の中でたくましく生きる動物達をテーマにしたもので、このDVDはもう二枚目に突入したのに、今のところ愛と青春は全く出てきていません。
「あああ、食べられちゃいます!!」
「お前な、動物の世界なんて、そりゃ喰うか喰われるかだろ」
「さっきは雪崩に巻き込まれて死んじゃってた……。ユヅルさん、やっぱりまた私にショッキングな映像を見せてきて……」
「野生動物が自然やほかの動物によって命を落とすことを、お前はショッキングなことだと感じるんだな」
「あ……いや……」
「怒ってねえよ。俺も正解なんか知らないから。あの動物達はただ必死で生きているのだと、俺は感じる」
「ただ必死で……」
テレビ画面にはまだ肉食動物に喰われる草食動物の映像が流されています。衝撃は強いけど、昨日ユヅルさんから見せられた映像とは違ってトラウマになるような恐怖ではない。でも、心の奥に重く響いてくる。
その理由はきっと、この動物達の姿も、飾られていないなかに必死で生きる命が輝いているからだ。
「あの、ユヅルさん」
「何?」
「ユヅルさんはどうして、お料理が好きなのですか?」
「どうして……? 何だよ、いきなり」
「私は、自分がどうして工場が好きなのか、ずっと分からなかった。時間を置いてからその理由は分かったけれど、今度はちゃんと工場を見ることを放棄しようとした。自分が好きなものの前で自分を否定して、本当に私は馬鹿だった」
「好きなものの前で、否定?」
「飾られていないものに惹かれるのです。私はずっと、自分を飾りたかったから」
「……。そっか」
そうだ。私はずっと自分を飾りたかった。自分を形作る何かが欲しかった。昔から何をやってもパっとしなくて、友達もいなくて、両親も弟ばかり可愛がって、外でも家でも独りだったから。
他人の<無関心>がとても辛かった。
何をやっても出来て、その度に両親から褒められる弟がずっと羨ましかった。彼みたいに私にも何か秀でたものがあれば、<無関心>を向けられる辛さから逃げられると思っていた。
何か自分を形作るものがあれば、誰か私を見つけてくれるだろうって。独りにはならないだろうって。
だけど私は何の努力もしてこなかった。努力をしても思うように実るとは限らない。努力をしたところで、どうやったって敵わない人間がいる。私はそれを受け入れられるような精神を持っていなかった。
だってそれを受け入れることは、他人の存在によって自分の弱さを直視させられるということだから。だから敢えて自分から「自分には何もない」って言ってきた。
人間関係だって、嫌われるのが怖くて、深く関わろうとしてこなかった。自分から線を引いてきた。
そうやって何も行動しないのに、傷つかず失わずで他人の<無関心>から逃げられるよう、自分を形作る<何か>を欲しがってきた。努力が出来ないから、必要なものは全部、他人に用意してもらいたかった。だけどその<何か>は、結局何でもいいものであり、曖昧なものだから、当然いつまでも手に入らない。
その結果、私はいつまでも、<無関心>の辛さに怯えることになり、その辛さを紛らわすために目の前の快楽に飛びついてきた。他人から用意された一時的な快楽に。
とにかくすぐに、<自分の弱さから生まれている辛さ>から逃げたかった。自分の弱さを見せつけられるような都合の悪いものは見たくなかった。自分が今までどれだけ逃げ続けてきたのか、それをすぐに忘れさせてほしかった。
そしてついには、考える力や、意思を完全に失くしてしまいたいとまで思うようになった。考えられなくなって、自分が自分でなくなってしまうことが、もっとも強力で、楽な逃避方法なのだと。結局私は、自分が自分である恐怖から、また逃げようとしている。
*****
ユヅルさんは、シリーズ四枚目のDVDをレコーダーに入れました。正直そろそろ違うやつが観たい。もう夕方の四時なんですけど。そして愛と青春はまだ一回も出てこない……。
「私、ちょっとトイレ行ってきます」
「うん。じゃあ一時停止しておく」
ええ……。既に一時停止してまで観続けたいとも思わなくなってきているのですが。自然と動物だけで四枚目ですよ、三時間経ってますよ。
私がげんなりしながらトイレからリビングに戻ってくると、ユヅルさんは黒いお洋服に着替え、外出の用意をしています。
「ユヅルさん、お仕事に行くのですか?」
「うん。お前ようやく自力で立って歩けるようになったみたいだな」
彼がリビングを出たので、私も話しながら玄関までついていきます。
「歩けるようになったのは、さっきシマウマの赤ちゃんが立ったシーンを観たおかげかもしれません」
「何だよ、それ? まあ何にせよ、歩けない状態のまま明日サイトウのところに行かせることにならずに済んだ。トイレの世話が必要な“イイ子”なんて引き渡したら、俺が文句言われるから」
「明日サイトウさんが来る……。でも今日、ユヅルさんのお店に行けば彼に会えそうですけどね」
「いや、今日サイトウは忙しいから俺の店には来ない。あの気持ち悪い男にだって色々とあるんだよ。着物選びとか」
「着物選び? やっぱり和服の常連さんと同一人物だった。あと、彼の体調不良って嘘ですよね?」
「……。気分を悪くしているのは事実だ。だから、あいつは明日の夕方までは外に出られない」
「ええ? 気持ち悪い人が気持ち悪くなってるんですか……って、あれ? ユヅルさん、いつの間にか色気がなくなっています」
「はあ? 色気? お前、このタイミングでギャグはやめろって」
「ギャグではありません!」
「……分かったよ。じゃあな、トモちゃん」
ユヅルさんは、黒い傘を持って出ていきました。今日は雨が降るのかもしれない。私は玄関からリビングに戻り、四枚目の【オレと自然と動物と愛と青春】の続きを観始めました。
ローテーブルの上に置かれたマグカップの中身の牛乳が空になっていたので、一時停止をせずにそのまま立ち上がって、冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに二杯目を注ぎました。そして、またテレビの前に座ります。ユヅルさんに影響されたのか、私まで牛乳が好きになってしまいました。
「だから、愛と青春はいつ出てくるのですか……?」
どうしてこのドキュメンタリーシリーズには愛と青春のシーンが一切出てこないのに、タイトルに【愛と青春】などとつけられているのでしょう? そもそも愛と青春って曖昧なイメージしかないけど、具体的には何を示すのですか?
大抵の人が中高生くらいのときに経験するものなのでしょうか。だから友達のいない私には分からなくて……
「あ、また……」
私はまたこうやって、自分から「自分は独りぼっちだ」なんて思いたがる。すぐに可哀想な人になりたがる。本当は自分から他人に壁を作ってきたのに。
―― お前が自分から線を引いて遠ざけていたじゃねえか ――
「ごめんなさい」
私はいつだって、何もかもが遅い。
サリーさんと違って、恵まれてきたはずなのに。与えられてきたはずなのに。もっと努力が出来たはずなのに。
それなのに、“自分”を奪われることを自ら求めるようになってしまった。もう、意思を持った人間として生きることが怖いのだ。
今まで、たくさんの色んなものを当たり前のように享受してきて、何も返すことが出来ずに、逃げるのだ。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい」
*****
“トモ、立って歩けるようになって良かったな”
“そうよ、トモ。さあ早くここから出ましょう”
私がリビングのテレビ前に座り、俯いて泣きそうになったとき、また例の声が耳に届きました。
「空太、空子。申し訳ないのですが、私はもう、怖いのです。外で生きることどころか、自分で考え、自分の意思を持つことすらも怖くなったのです。自分が自分である以上は、苦しくなるし、恐怖も感じる……」
“トモ、今日起きたときは立てなかったんじゃないのか?”
「ええ、まあ……」
“でもあなたはまた、立って歩けるようにまでなったじゃない”
「まあ……」
“トモ、お前の足は何のためにあるんだ?”
「何のため?」
―― とにかく足は大事なのよ。何度でも立ち上がるためにも ――
「何度でも立ち上がる、ため……?」
“そうよ、トモ、昨日の夜はユヅルに考える能力を奪われたのに、あなたはこうしてまた考えられているじゃない”
「そうですけど……。でも、また恐怖を感じることがあったらって思うと……。やっぱり私には飼われる生活のほうが合っているのです。大人しく飼われてしまえば喜びはないだろうけど、怖さもない。得るものはないけど、失うものもない。なら私は、怖くないほうを選びたい。失わないほうを選びたい。私は、このままサイトウさんに“自分”を奪われてしまいたい」
そう言って私は、空太、空子との会話を終え、しばらくDVDを観たあと、お夕飯を食べました。
そのあと、リビングを出て、向かいの洋室に入ると、相変わらずこの部屋の棚の上には無造作に手錠や足枷が置いてあって、未だにこの棚の引き出しは空ける勇気がなく、結局そこに何が入っているのか分からないまま、今に至ります。
私はスマホだけを持って、ダブルベッドの脚と左手首を手錠で繋ぎ、床に座って窓の外を眺めました。
「あははっ。まだ安心する」
私の体はまだ、手錠で繋がれていることによって安心感を覚えるみたいです。一度飼われることに慣れてしまった人間は、もう自力では生きられない。何かきっかけがあって途中で“自分”が戻ってきても、結局はこうやってまた、何も考えずに何かに繋がれていることを、自ら求めてしまうのだ。
*****
いつの間にか外は真っ暗になっていて、時計を見ると時刻は夜の十時をまわったところでした。窓の外で雨が静かに降っているのが分かります。頭の中をゆっくりと浄化していくような、穏やかな雨の音。まるであの人の歌声みたい。そしてあの子のピアノの音みたい。透明感のある音。
そういえば、あの広場で石本さんに見つけられたときも雨が降っていたな。私の頬に冷たいものが落ちてきて……
「あ、そうだ」
私はユヅルさんの電話番号宛にショートメッセージを一通送りました。
【あなたにどうしても聞きたいことがあります。今日は絶対に帰ってきてください。お家で待っています】
すぐに開封済みにはなりましたが、ユヅルさんからの返信はありません。お仕事中ですから仕方ないのかもしれませんが、今日は絶対に帰ってきてほしい。私が、明日サイトウさんのところに行く前に。私がまだ、私でいるうちに。
“おい、トモ。今すぐにここを出ようよ”
“そうよ、何やってるの? もう暗くなってるじゃない”
「あなた達また出てきたのですか? 私はもう、外では生きられないって言ったじゃないですか」
“さっきユヅルにショートメッセージを送っていたな。あいつにまだ何か特別な感情でもあるのか?”
「虚像相手に特別な感情などありません。でも、今までなかなか聞きづらかったけど、どうしても一つだけ聞きたいことがあって、それを思い出したのです。これは、どうしてもちゃんと顔を見て聞きたいことだから……」
私はそう言ったあと、ベッドの脚と左手首を手錠で繋いだまま、ベッドを背もたれにし、床に座ってそのまま眠りました。
*****
玄関のドアが開く音と足音が聞こえ、目を覚ますと、時刻は深夜零時半過ぎでした。よかった。ユヅルさん、帰ってきたみたいですね。
ん? なんか、ドアの音がバタンバタンとうるさい。彼は一体、何をやっているのでしょうか?
私がいる洋室のドアが、突然開けられました。
「え? 美雨ちゃん?」
目の前で、美雨ちゃんが涙を流しながら立っています。どういうこと? 海外にいたのでは? そして何故泣いて……?
「美雨ちゃん、どうしてここに?」
「予想通りよ。やりなさい」
美雨ちゃんがそう言った瞬間、玄関のほうで何かが壊れるような大きな音がして、カジュアルな服装の若い男性が十名くらい、部屋に入ってきました。
「え? 美雨ちゃん……? 誰ですか、この人達……?」
美雨ちゃんはハンカチで涙を拭い、急に落ち着いた表情になっています。
「このまま決行するわよ、柏木」
冷静な顔でじっと私を見つめる美雨ちゃんの後ろに、白髪交じりの髪をオールバックにした、スーツの男性が現れました。
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とても嬉しいです。ありがとうございます!!