見出し画像

第五十五話「その絵」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

(読了目安時間 15分 7149字)
前話へ
第一話へ

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「やっほー。二人とも、よく眠れた?」

 私と美雨ちゃんが、定休日のユヅルさんのお店に入ると、彼は軽快な口調で私達を迎え入れました。久しぶりに来たこのダイニングバーには、入口のサイドテーブルに、以前には置かれていなかった花瓶があり、そこに淡いピンクのお花が生けられています。ユヅルさんは「取り敢えず座って~」と言い、私達をカウンター席に座らせました。彼の口元には、小さな絆創膏が貼られています。

「早く要件を言いなさいよ、この変態オシャレ長話野郎!!」

 美雨ちゃんは、席に着くなりユヅルさんに噛みつきましたが、彼はそれを気にしない様子で私達の前にそれぞれ、お水の入ったグラスを置き、彼自身はアイスコーヒーを飲んでいます。

「ユヅルさん、お顔どうされたんですか? その絆創膏……」
「トモさん! 変態の顔のことなんて心配しなくてもいいわよ!!」
「これ? 亮介にやられた。『顔はやめろ』って言ったのに、あいつ……」
「亮介さんに!?」
「純朴元ヤン野郎に!?」

 私と美雨ちゃんは声を揃えて驚き、ユヅルさんは、「痛っ」と言ってみぞおちあたりを手で押さえ、そして、またコーヒーを飲みました。よく見ると、ユヅルさんの両手首には、何かで縛られたような赤い痕があり、左の手首に限っては、亮介さんがいつも身に着けていた草色のブレスレットがつけられています。

「そう。あいつ、今朝の六時くらいに、『いいモン持ってきたけぇ、ツラ貸せや!』って言って、いきなりスーツで俺の部屋に乗り込んできたんだ。そして、俺の手首をネクタイで縛り、俺の口に目いっぱい漬物を詰めたあと、『男なら自分の心臓にケジメつけんなせえ!』と言って、新手のお仕置きプレイを強引に行使してきた。それで、俺が『もっとやって』と言ったら、より激しくなってさ。正直殺されるかと思ったよ……。さすがの俺も、あんなに凄いプレイは初めてだった」
「それで心臓のあたりに愛の鞭をくらったってわけね。自業自得よ」

 こ、怖え~。亮介さん、絶対に敵にしたくねえですわ。
 ユヅルさんが亮介さんからされたことを想像すると恐ろしくて、私は黙って差し出されたお水を飲むしか出来ません。

「それでさ、亮介は次に手首を縛られたままの俺を、玄関前の廊下の冷たい床に正座させ、約一時間にわたって説教プレイを行使してきた。玄関のドアは破壊されてるから、外から見える状態のままでな。朝からすげえ刺激的だと思わないか? そしてあいつは『取引先への謝罪に遅れる』と言って、スーツに俺の血を付けたまま出ていった。それは、あいつなりの俺への愛の証だろうな」
「ええ……。亮介さん、そんなことまで……」

 ユヅルさんは、手首の赤い痕をうっとりとした目で見つめています。

「ふーん。でも、自力で立っていられるのなら、まだよかったわね。柏木のやり方より随分とマシだわ」
「亮介は優しいからな。そういや、あいつノーネクタイのまま謝罪に向かったけど大丈夫なのか? 亮介のネクタイで縛られるなんて最高だと思ったから、『手首はそのままにしておいてくれ』なんて頼んでしまったけど、今思えば申し訳ないことをした」
「ユヅルさん、ネクタイはコンビニでも買えますから、きっと大丈夫ですよ」

 私がそう言うと、ユヅルさんは「そっか。よかった」と言って、安心したような顔になり、そのあと斜め下を向いて何やらモジモジし始めました。

「それで……まあ……亮介に言われたんだ。お前ら二人にちゃんと面と向かって謝れって。ドアの件で朝からマンションの管理会社とか、その他諸々の業者の相手してたら、こんな時間になってしまったけど、その……色々と悪かったな。ごめんなさい」

 目の前で頭を下げるユヅルさんを見て、私は持っていたグラスを落としそうになってしまいました。まさか謝られるとは。驚愕。これなら美雨ちゃんも、彼のことを変なあだ名で呼ばなくなるでし……

「え? 何? 社会人の謝罪って相手を強引に呼び出した上で、長い前置きが必要になるものなの?」

 前言撤回。このお嬢様は、まだ牛乳ぶっかけられたことを根に持っている。
 ユヅルさんは「はあ~!?」と言って顔を上げました。必死で感情を抑えようとプルプルしているけど、顔が明らかにイラついている! 

「おい、お嬢様……俺は今謝ったけど、お嬢様に関しては俺も被害者なんだからな……」
「だから、お金を渡したでしょう?」
「金ですべて解決出来たと思っているところが気に入らねえな! 俺は今朝以降、ほかの住人さんから変な目で見られるようになったんだ! どうしてくれる!」
「ユヅルさん、それって解放されたドアの前で亮介さんが説教していたからでは……」
「亮介は悪くねえよ!」
「何よ! 変態が変な目で見られて何が不満なのよ!?」
「黙れ、お嬢様! だいたい、あんな深夜にどこのDIY同好会が活動するんだよ!?」
「柏木と同じこと言わないでよ!!」

 美雨ちゃんは興奮しながらいきなり席から立ち上がり、同じテンションのまま「この変態! お手洗いはどこよ!?」とユヅルさんに聞いて、トイレに向かいました。

「あのテンションでトイレの場所を聞くって、美雨ちゃん……」
「なあ、これでも飲む? トマトジュース」

 私のグラスが空になっていることに気付いたユヅルさんは、グラスを下げ、代わりにトマトジュースが入ったグラスを私の前に置き、隣の美雨ちゃんの席にも同じようにしてそれを用意しました。彼の耳元には今日も、黄土色の折り鶴ピアスが揺れています。

「俺は死んだら墓じゃなくて、そのまま土に還りたい。野生の動物や植物のように」
「は? どうしたんですか、急に」
「別に。花を見たら、何となくそう思った」

 ユヅルさんは一度カウンターの内側から出てきて、入口に置かれた花瓶のお水を変え、また元の位置に戻し、再度カウンターの中に入りました。

「前に、『何で料理が好きなのか?』って、俺に聞いてきたことがあったな」
「え? は、はい……」
「俺は、食材を生まれ変わらせることが好きなのかもしれない」
「生まれ変わらせる?」
「そう。腐らせるのも活かすのも自分次第だから。食材が、いい形に生まれ変わってくれると嬉しくなる。また急にごめん。それだけは、ちゃんと伝えておきたかったから」
「生まれ変わる……ですか。ユヅルさん、人も生まれ変われたりします?」
「知らない。自分次第、あとは、誰と出会うかにもよるだろ。お前、今後はお嬢様のこと大事にしろよ? お嬢様に線を引いた態度とってなかったら、次の“イイ子”として目を付けられてなかったと思うしな。ちなみにサイトウは、お嬢様を最初に見たとき、あの爺さんが世話してる子だって知らなかったらしい」
「へ、へえ~。って、あああ! 今思い出しましたけど、今日の夕方、サイトウさんが私をお迎えに来るって言ってましたよね!? 大丈夫なんですか?」

 って、もう既に夕方になってるけど……。
 ユヅルさんは、グラスに二杯目のアイスコーヒーを注ぎ、それを一口飲んだあと、さっき私の前から下げたグラスを洗い始めました。

「大丈夫。『トモちゃんを渡す話はやっぱり無しで』って、俺からサイトウに言っておいたから。『お嬢様を俺の部屋に連れていく』っていう話と一緒にな」
「ええっ!? それ、いつサイトウさんに言ったのですか?」
「お嬢様が、この店で泣き出したときにこっそり電話で連絡した。そしたら、あの男すげえキレてさ。『話が違う』とか、『僕は柏餅が嫌いだ』とか言って。だから途中で電話切ってやった。俺はあいつの人形じゃないから」
「えええ!?」
「仕方ないだろ? 俺の部屋から出ていくだろうと思ってたお前からメールが届いて、まだ部屋にいると知ったあとに、あんな絶世の美女から『部屋に連れていって』なんて言われたら、もったいなくて断れねえよ。せっかくだから、俺とお嬢様とお前の三人で新しいプレイを楽しもうと思ったんだ。なのに、爺さんとその仲間達までやってきて、ドアを壊された挙句、二回も飲み物を頭からかけられて……とんだ厄日だ」
「ええ……?」

 頭の中に、複数のクエスチョンマークが浮かんできます。三人で新しいプレイって? 絶対違うでしょ。この人、こんなに嘘が下手な人だっけ? それに、どうして――

「あの、どうして、サイトウさんに私を渡さないって言ったのですか?」
「……。急に、お前がカレーしか作れないってことを思い出したんだ」
「はあ? カレー?」
「そんなやつを渡したら後々面倒なんだよ。あいつは食にうるさいから」
「サイトウさんが食にうるさい? 柏餅以外も? ふーん……。まあ、分かりました。じゃあ、もし美雨ちゃんが私を連れ出さなかったら、そのあとはどうするつもりだったのですか? ずっと私と一緒に暮らすことになっても……」
「さあな! もういいんだよ。その絵は未完成で終わらせるから」
「その絵?」
「……。なあ、トモちゃん」
「はい」
「今になって、どうして俺は自分の罪には盲目になっていたんだろうと思うよ」
「……?」
「俺はずっと、身勝手な欲に流されてきた。今だってそうだ。もしかしたらそれは、最も罪深いものなのかもしれない」
「え? ユヅルさん、何を言って――」

「ちょっと!! どうしてトイレの壁がアニメのポスターだらけなのよ!!」

 美雨ちゃんはトイレから戻ってきてもまだ、興奮した様子でユヅルさんに噛みつきます。彼女はお化粧も直してきたようで、オレンジ系の口紅がよく似合っています。ここのトイレ、以前はポスターなんて貼ってなかったのですが。
 アニメの、ということは、もしかしてユヅルさんの推しキャラ、レトリーヌのポスターでしょうか?

「別にいいだろ? たとえ失恋しても、愛したヒトのことは忘れられないんだよ」
「……と言うことは、レトリーヌのポスターですね? ユヅルさん」
「お店の雰囲気と全然違うからビックリするじゃない」
「結構ビッシリ貼られていたのですか? 美雨ちゃん」

「おい! ユヅルおるか!? 出てこいや!!」

 突然の大声とともに、お店のドアが開き、驚いてドアのほうを見ると、なんと亮介さんがいました。それも、血だらけのスーツを着て。何で……?

「亮介!?」
「おい、ユヅル……取り敢えず、茶ァ出さんかい。こちとら全力で走ってきたんだわ」
「走ってきた? 亮介、突然どうしたんだよ?」
「ああ? そんなもんユヅルがちゃんと二人に謝ったかどうか確認しに来たんだわ。美雨から、『今から変態の店に行く』って連絡あったけぇの」
「亮介さん、私達はちゃんとユヅルさんから謝ってもらいましたよ。それより、スーツが血だらけ……そしてノーネクタイ……」
「純朴野郎、この変態のために仕事中に抜け出してきたのね」
「そうじゃい! 何か文句あるか!?」

 亮介さんは息を切らしながら、ワイシャツのボタンを一つ外しました。

「はい、亮介だけの特別な緑茶だよ。どうぞ」

 ユヅルさんは、席に座らず立ったままの亮介さんに、グラスに入った緑茶を差し出し、そのあと亮介さんのワイシャツの胸の部分を撫でるようにして、執拗に触りだしました。

「亮介、朝よりも服に付いた血の量が増えているじゃないか。一体どうしたんだ?」
「口調が変わっているわよ、変態」
「美雨ちゃんも最初に会ったときとは、口調が違っていますよ……」
「なあに、心配すんな。一悶着あっただけじゃ。まあ、おかげで先方との絆が深まったから良かったわ」
「一悶着? もしかして亮介さんが朝、謝罪に行った企業さんとですか? それでこんなに血だらけになって、結果企業さんとの絆が深まったと?」
「その通りじゃ、トモ。まあ、ユヅルが謝ったんなら、そんでええわ。俺ァ仕事に戻る」
「もう戻るの? 慌ただしいわね、純朴野郎」
「亮介、あのさ、また……」
「おぉユヅル、おめぇが精神鍛えられるって言うんなら、またいつでも俺のネクタイで縛ってやるからよぉ。おめぇは自分のハアトにケジメつけんなせえ。分かったな?」
「分かったよ、亮介。ありがとう」

 亮介さんは、三分ほど登場したあとに急いだ様子でこの場を去っていきました。前々から凄く忙しい人なのだろうとは思っていましたが、まさかここまで分刻みの男だったとは。

「嵐が来たみたいでしたね……」
「変態、あなた自分から純朴野郎に『ネクタイで縛って』って言ったのね? それも精神を鍛えるため、なんて言って。そんな理由、嘘でしょう?」
「悪いか? 劣情を楽しむには、嘘が必要だ」
「はあ~? どうせ、劣情以外も嘘だらけなんでしょう?」
「うるせえな。俺だって偽りのない感情くらい……」
「ユヅルさん! このトマトジュース、美味しいですね!!」

 私はユヅルさんに向かって大きな声を出したあと、トマトジュースを勢いよく飲みました。ユヅルさんから「劣情」という言葉が出た瞬間、以前に私が美雨ちゃんに対して欲情してしまったことを思い出し、急に罪悪感を覚え、そのことから目を逸らしたい気分になったのです。ジュースを飲んだ後、思わず隣に座る彼女とは反対の方向に顔を向けてしまいました。

「トモさん、急に向こうを向いて、どうしたの?」
「い、いえ……」

 また、自分から目を逸らすの?

「トモさん?」

 正直このことは言いにくいけど、このままそこから目を逸らして彼女に隠し続けるなんて、やっぱりいやだ。
 再度、美雨ちゃんのほうに体と顔を向けます。

「美雨ちゃん、ごめんなさい! 私、美雨ちゃんに対して、劣情を抱いていたときがあって……」
「ええっ!?」
「お前、このタイミングで暴露するのか。やるねえ」
「トモさん、どういうこと?」
「美雨ちゃんに対して、汚れた目で見ていた時期があって……。でも、もうそんな感情は無いので安心してください!」

 勇気を出して暴露してみたところ、美雨ちゃんは、キョトンとした顔を私に向けてきました。

「ふーん。別にいいじゃない。全く汚れていない人間なんていないわよ。大事なのは、その自覚があるかないかだと思うわ。気にしないから大丈夫よ」
「美雨ちゃん……」

 美雨ちゃん、やっぱり内面まで美しい! 彼女の総合的な美しさに私は声を失います。彼女を見る今の私のお目目は、きっとキラッキラしているに違いない。ユヅルさんが少しだけ微笑みました。

「おい、そこの芸術コンビ、よろしければこちらをどうぞ」

 ユヅルさんが私と美雨ちゃんの前に、牛乳瓶のような形をした透明の小さいガラス瓶と、それにスプーンを、一セットずつ置きました。

「食べる? 俺が作ったプリン」

 プリンです! しかも、透き通った水色の小さな星形寒天が三個乗ってる! 何かキラキラしてる!! 

「わあ、かわいいプリンですね! いただきます!!」
「ありがとう、変態。いただきます」

 目の前に置かれた見た目も可愛らしいプリンを一口食べると、甘すぎない上品な味で、それでいて懐かしいような……もうこれは神業としか思えない。明さんのプリンも美味しかったけど、やっぱりユヅルさんの作るものはレベルが違う! 

「変態、あなたやっぱり腕は確かなのね! とても美味しいわ!!」
「どうも」
「すごく美味しいです! ユヅルさんの作るものは、世界で一番あったかい味がします」
「ありがとう、トモちゃん。でも一番ではない。俺の味は全部、俺の上司だった人の味だから」
「ユヅルさんの上司の方……」
「そうだよ」
「その人は今、どこか別のお店にいらっしゃるのかしら?」
「美雨ちゃん、それは――!」
「どこにもいない。亡くなったから。ストレスで病気になって壊れていなくなった」
「あ……。ユヅルさん、ごめんなさい。気安く聞いたことを謝るわ」
「……。お嬢様が謝ることじゃない。どれだけたくさんの鶴を折って祈ったって、何をしたって、生きてりゃいつかは死ぬんだ。さあ、お二人さん、次はこれを飲め」

 ユヅルさんはまた少し微笑んで、次に綺麗なオレンジ色の人参ジュースを出してきました。

「ユヅルさん、こちらも美味しいです! 私、人参って実は苦手でしたが、これはどんどん飲めます!!」
「これも美味しいわ! 変態、この際ウチで料理人として働きなさいよ」
「やだよ。俺はこれから全然違う生き方をするんだ。もう、この店も閉業するし」
「え? そうなんですか? ユヅルさん」
「そうだよ。ここを閉めて、そのあとは……暑くない、どこか雪の降る綺麗な場所にでも引っ越して、そこでのんびり暮らす」
「ええ~? せっかくこんなに美味しいものを提供できるのに。もったいないわよ、変態」
「ユヅルさん、それじゃ亮介さんとは、なかなか会えなくなりますよ?」
「いいんだ。もう決めたんだよ。それに、亮介だっていつ転勤になるか……ん?」

 ユヅルさんが話している途中で、着信音が鳴りました。それは彼のスマホから流れているようで、ユヅルさんはスマホを手に取り、画面を見た瞬間に表情を固まらせ、そして「何だよ、こいつ。気持ち悪い」と小さく呟きました。

「え……? ユヅルさん、『気持ち悪い』って、もしかして……」
「そう。一番のお得意様だ」

 ユヅルさんは「はあ~」と大きな溜め息をつき、気持ち悪い“あの人”からの電話に出ます。

「おい、何の用だよ? あ? 今から予約ってお前、俺は今日休みなんだけど!! ああ? 僕の“友人達”も一緒にって、いやいや、だから休みって言って……はあ? ああもう、分かったよ。用意しておけばいいんだろ? 気持ち悪い」

次話へ

とても嬉しいです。ありがとうございます!!