見出し画像

第五十四話「今生の別れでも無し」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

(読了目安時間 8分 3779字)
前話へ
第一話へ

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ホテルで目を覚ますと、時刻はお昼の十二時をまわったところで、気が付けばめちゃくちゃお腹が空いています。美雨ちゃんは私よりも先に起きていて、ベッドの上でストレッチをしていました。

「ねえ、トモさん。今から一緒にランチと美容院に行かない?」
「え? 美容院ですか?」

 美雨ちゃんは、ストレッチを終えると、浴室からフェイスタオルを一枚持ってきて、上半身の服を脱ぎ、下着だけになって乾布摩擦を始めました。 

「ええ。私、髪がこんな状態だから整えたいのだけど、美容院って行ったことなくって。どこか連れて行ってもらえないかしら?」
「行ったことない? もしかして専属の美容師さんがいらっしゃるのですか?」
「そうよ。だけど、この機会にトモさんと一緒に美容院に行ってみたいのよ」
「分かりました。そういうことでしたら、どこか探してみますね。気分転換になるので、私も切りに行こうかな……。ちなみに美雨ちゃんは、いつまで日本にいるのですか?」
「今日までよ」
「今日!?」
「ええ。だけど、トモさんと美容院に行きたかったから、柏木に言って飛行機の時間を遅らせてもらったの。だから予定よりは長くいられるわ。本当は今日の夕方五時には出国している予定だったのだけど」
「へえ~。結構カツカツのスケジュールですね」
「そうなの。柏木が『留学中の身で、あまり長く日本に戻っているのは好ましくありません』なんていうものだから」
「そう……ですか……」

 あまり長くいられない――。
 私の脳裏にはサイトウさんと柏木さんの顔が浮かび、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えました。だけど、それを美雨ちゃんには気付かれたくなくて、思わず彼女から目を逸らしてしまいました。


*****


 二人で予約出来る美容院を探したあと、私は美雨ちゃんと一緒にホテルを出て、ホテルの横にあったコンビニに寄り、キャリーケースを六畳アパート宛に送ることにしました。何だか今日は、必要最低限の物以外、何も持ちたくない気分なのです。

 美雨ちゃんは新しい藍色のパンプスに履き替え、コートも同じく藍色で揃えています。彼女が「ランチを食べるのに、お店まで行く時間がもったいないから、このコンビニで何かお弁当を買って、どこかの公園で食べたい」と言ったので、私達はそのままホテル横のコンビニでお弁当と、亮介さんの好きな緑茶シリーズのHOT、『俺様とミドリと温子』を購入しました。
 このシリーズ、もし焙じ茶や玄米茶が出たらどんな女性が俺様につくのだろう? 

 『温子』をちびちびと飲みながら公園で食事を終えたあと、二人で美容院まで行き、美雨ちゃんは「黒髪のまま緩いパーマのショートボブにしたい」と言い、私は「カラーを入れ直して、毛先だけ軽くカールしたい」と美容師さんに希望を伝えました。
 美雨ちゃんを担当することになった若い男性美容師さんは、彼女の美貌にやられたのか、思い切りハサミを持つ手が震えていて、美雨ちゃんは、そんな彼の様子を見て青ざめています。あまり美しすぎるのも、それはそれで大変なのかもしれません。


*****


 私達が美容院から出ると、時刻はもう夕方の四時半。刻一刻と近づく美雨ちゃんとのお別れの時間のことを考えると胸が苦しくなりますが、今生の別れでも無し、悲しんでいる時間があるのなら、出来る限り美雨ちゃんの喜ぶことがしたほうが絶対にいい。
 私は美容院の前の大通りを美雨ちゃんと一緒に歩きながら、寂しさを悟られないようにして、まるで恋人のように彼女と手を繋ぎました。繋いだ瞬間、美雨ちゃんが「ふふっ」と純粋な笑顔を私に向けてきたので、私はつい眩暈を起こしてしまいます。
 か、かわいすぎるんだよ……!!

「うう……ちゃんと立て、私……。あの、美雨ちゃん、次はどこか行きたいところはありますか?」
「うーん、そうねえ。どこか水虫らいすマングッズが置いてあるところ……」
「んんっ!?」

 美雨ちゃんが悩んでいる途中で、私のスマホの着信音が鳴りました。おいおい、誰だよ? こっちは今いいところなんだよ。
 私はせっかく繋いだ美雨ちゃんの手を離し、おそらく彼女にもすぐに分かるような不機嫌な顔をして、バッグからスマホを取り出しました。

「ええ~? もう。こんなときに誰ですかね? えっ――」

 スマホの画面に表示されている名前を見た瞬間に、絶句してしまいました。
 ユヅルさん……。一体、何の用だろう? 
 声を失った私を見た美雨ちゃんが、少し心配そうな顔をしています。

「トモさん、どうしたの? 電話出ないの?」
「えっと……。電話、ユヅルさんからで……」
「はあ!?」

 ユヅルさんの名前を出した瞬間、美雨ちゃんは怪訝な顔つきになって、さらに舌打ちしました。

「美雨ちゃん、お嬢様でも舌打ち……」
「トモさんが出たくないなら、私が出てもいいかしら?」
「え? で、でも、美雨ちゃんは……」
「もちろん迷惑じゃなければ、だけど。それともトモさん、私に気を使っているの?」
「気を使って……」

 美雨ちゃんから真面目な顔でそう言われた私は、彼女にスマホを渡しました。
「いいえ。そんなことありません。美雨ちゃん、お願いします」

 美雨ちゃんは黙って私からスマホを受け取ると、今、私達が立っている大通りで、両足を大きく開き、腰に手をあて、大声で「何よ、変態!!」と言って電話に出ました。
 うわ! 今、周りの歩行者達から一斉に見られた!

「だから今、トモさんと一緒にいるから私が代わりに出たのよ! 何なの? あなた、まだトモさんに未練が……はあ? 今から? 何言ってんのよ! あのねえ、私達は今、デート中なの。他人の遠距離恋愛を邪魔するんじゃ……はあ~? ああもう!! 分かったわよ、本人に聞けばいいんでしょう? この変態が!!」

 美雨ちゃんは、いったんユヅルさんとの会話を止めます。

「ねえ、トモさん。変態が私達二人で今から店に来いって言ってるの。それで、断ろうとしたら、トモさんの意思がどうのこうのとかって言い出して」
「そうですか……」

―― 他人が口挟むんじゃねえよ!! ――

「あっ――」
「トモさん、どうかした? このまま断るわよ」
「……。あの、美雨ちゃん」
「何?」
「美雨ちゃんは、ユヅルさんのお店には行きたくありませんよね?」
「え? ええ。そりゃ私は行きたくないわ。あの変態に会いたくないもの」
「なら、私一人だけで行きますね」
「ええ!? そしたら……トモさんが行くのなら私も付いていくわ」
「ありがとう。美雨ちゃん、やっぱり私が直接話します」
「えっ? トモさん、大丈夫なの?」
「はい」

 私は、仁王立ちのまま不思議そうな表情を浮かべる美雨ちゃんからスマホを返してもらい、一度深呼吸をしました。美雨ちゃん、せっかく代わりに話してもらっていたのに、ごめんなさい。でも、やっぱり私の意思は、私から伝えないと。
 スマホの画面を耳にあてると、さっきまで美雨ちゃんが話していたからか、機体から何とも言えない生温さが伝わってきました。

「ユヅルさん、今から私と美雨ちゃんの二人で、あなたのお店に向かいます。ちなみに、どんな用件ですか?」

 ユヅルさんは、私の質問には答えずに「待ってるね」と一言だけ告げて電話を切りました。しまった! 行くと返事をする前に、まず要件を聞いておくんでした! よく分からないうちから安請け合いはダメだって、彼の自慰行為を見届けるはめになったときに学んだはずなのに!

「大丈夫よ、トモさん。柏木を近くに待機させておくから」

 私がユヅルさんに電話をかけ直そうとしていると、美雨ちゃんが両手で、私の両手をスマホごと包み込むようにして、優しく触れてきました。じんわりと彼女の体温が伝わってきて、少しずつ不安が消えていきます。

 そうだ、美雨ちゃんも柏木さんもいるんだし、不安になる必要なんてない。それに、ユヅルさんの要件が何にしたって、私は私で彼の顔を見て直接聞きたいことがあったんだ。
 彼に、もう一度会いたい。

「トモさん、本当に大丈夫なの? 今からでも断れるんじゃ……」
「いえ。このまま向かいましょう」
「分かったわ。トモさん、あの変態がまた何か洗脳してきそうになっても、今度は私が隣にいるわよ」
「ありがとう。だけど、きっと大丈夫です。もう分かった気がしますから」
「分かった?」
「はい。彼のどこが虚像で、どこが虚像じゃなかったか」

 首をかしげる美雨ちゃんの向こうに、アスファルトのあいだから咲く小さなお花が見えます。私は、そのお花を摘み、美雨ちゃんに「ユヅルさんのお店に行く前に一度、さっきお弁当を食べていた公園に戻りたい」と言い、その公園に戻りました。
 そして、公園に植えられている木の根元に、ずっと持っていたサリーさんの臙脂えんじ色の口紅を置き、小さなお花を供えます。
 しばらく手を合わせたあと、再度口紅を手に取って、お花だけをその場所に残し、サリーさんの顔を思い浮かべました。

「チューリップじゃなくてごめんなさい。あなたが私の爪に宿してくれた、小さな命が大好きでした」


次話へ

とても嬉しいです。ありがとうございます!!