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第五十三話「逃げ道」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

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 私と美雨ちゃんは、美雨ちゃんのお世話係の女性が運転する車で、亮介さんの住むアパートまで向かうことになりました。
 あーあ。私の頭にはもう、亮介さんからシバかれる予想しかありません。平日勤務の会社員宅に月曜の早朝からお邪魔するのはダメですって、美雨ちゃん……。
 車内でちらっと美雨ちゃんの顔を見た瞬間、彼女と目が合ってしまいました。

「トモさん、何だか浮かない顔ね」
「いえ……もう、大丈夫です。開き直りましたから。どっちにしても車の中じゃ逃げようがありませんしね。あは、あはは……」
「逃げる? 逃げるってどういうことかしら?」
「いっ、いいえ! 何でもありません!」
「変なの。そういえばトモさん、さっきも『自分が逃げたから』って自己嫌悪するように言っていたわね」
「ええ、まあ……」
「トモさん、私は、どうしようもなく辛いときは逃げてもいいんじゃないかと思っているわ」
「え……?」
「逃げ続けることと、逃げ道を確保しておくことは、全然違うと思うの。私は、トモさんがどうしようもなく辛くなったときの、逃げ道くらいにはなれるかしら?」
「え? えっと……」
「美雨様。到着致しました」

 私達は亮介さんのアパート前に着き、車から降りました。逃げ道を確保しておく、か。そんなこと考えたこともなかったな。
 美雨ちゃんはボロボロになった藍色のパンプスで、私の手を引いて走ります。そして亮介さんのお部屋前に着くなり、インターホンを凄まじい勢いで連打!! 鬼か、このお嬢様は!!

 ドアが開きました。

「うるっせえーんだよ!! 朝の四時過ぎからよお~。こっちはまだ寝とるだろうが、コラア!! 俺ァ職人じゃねーんだわ!!」

 十一月だというのにTシャツ短パン姿で怒鳴り散らす亮介さんを前にした私は、もう色んな感情が混ざってしまい、体が硬直し、開いた口が塞がりません。そんな私とは対照的に、美雨ちゃんはしれっとしています。

「おい、なんだ、お前ら? こんな朝から。美雨は髪どうしたんじゃ? あとトモもアカウント……」
「お邪魔するわよ」
「おい、待たんか美雨! いきなりなんじゃい! 男の部屋には色々となあ……」
「トモさんも一緒にお邪魔させてもらうわよ」
「わあっ! 美雨ちゃん、ちょ、ちょっと……」

 私はまたしても美雨ちゃんに強引に腕を引かれ、その勢いで美雨ちゃんと一緒に亮介さんの自宅の玄関に入り込んでしまいました。

「お、おい。待てって! お前ら何しに来よったんじゃ?」
「何しにって、報告よ。トモさんが、あなたの友達の変態に捕まっていたのよ」
「俺の友達の変態? パっと浮かぶのは五、六人……」
「こういうことは、電話よりも直接伝えたほうがいいと思って今来たのよ。突然ごめんなさい、純朴野郎」
「はあ? 意味が分からん。もっと説明せえ。トモ、どういうことじゃ?」
「あ……えっと……」

 私達は三人とも玄関で立ったまま会話を始め、私は、美雨ちゃんがサイトウさんの存在をまだ知らないということもあって、ユヅルさんの部屋で飼われていたということだけを、亮介さんに話しました。

 亮介さんは、私の話を最後まで口を挟まずに静かに聞いていて、聞き終わると、黙って靴を履き、玄関のドアノブに手をかけました。

「えっ!? 亮介さん、その恰好でどこか行くのですか?」
「ユヅルんとこじゃ。今からシバきに行くぞ。ふざけよって……美雨! ユヅルの家の住所を俺のスマホに送れ!!」
「分かったわ」
「ちょっと亮介さん!! シバきにって、今からですか!?」
「そうじゃ!! 根性叩き直したるわ、ユヅル!! 俺の母ちゃんの漬物食わせてよお!!」
「ええ!? 待って、亮介さん! 待ってください!!」

 亮介さんが急に興奮した様子でドアを開けたので、私は必死に彼の腕を掴み、それを止めます。もし暴力沙汰にでもなったら、亮介さんの会社員としての立場も危うくなる。私のせいで、そんなことになるのは嫌です。
 そんな私の心情を察してくれたのか、美雨ちゃんが一度開けられた玄関のドアを閉め、亮介さんの腕を掴むのに加勢してくれました。

「おい美雨! お前、何ドア閉めとんじゃい!」
「うるさいわね、純朴野郎! せめて着替えなさいよ!! 外は寒いのよ!!」
「亮介さん、暴力はダメです! 暴力は!!」
「お前ら、手ぇ放さんかい! 男にはやらにゃいかんときゃあんだらあ! おい、手ぇ放さんとこっぺがえしだら、母ちゃんの漬物のああ……」
「亮介さん!! 一体、何て言っているのですか!?」
「純朴野郎、とにかく落ち着きなさいよ!」 
「うるせえ!! これが落ち着いていられるかい!!」
「亮介さん、一度深呼吸してください!」
「もう!! トモさん、月曜早朝の会社員ってこうなるのね!! 初めて知ったわ!!」
「あっ――!! そうじゃ、会社……」

 美雨ちゃんの言葉に、亮介さんはハッとした顔で反応し、大人しくなりました。

「そうだ。俺ァ今日、仕事あるんだわ。それも朝一で取引先に謝罪じゃ。帰国して早々、嫌んなる」
「謝罪? 亮介さん、何かやってしまったのですか?」
「いや、やらかしたのは俺じゃねえけどよ。けどまあ、部下がやったこたあ、俺がやったことと同じやけぇ、きちんと後始末せんとなあ」
「え……。亮介さん、そんな日に早朝からすみませんでした……」
「ええって。けどなあ、トモ。もう他人に飼われるなんて、やめてくれんか? 俺ァ昔、兄貴が変な女に騙されて貢がされたもんで、なんかそういうの嫌いなんだわ」
「はい。もうしません……。ごめんなさい……」

 私が謝ると、亮介さんは一度履いた靴を脱ぎ、先ほどとは一変、落ち着いた表情になりました。

「なあ、お前ら。悪いけど、もう帰ってくれんか? さっきも言った通り、俺ァ今日、仕事があんのよ」
「分かったわ。じゃあ、あなた変態のところには行かないのね?」
「今日は行かん。時間が無い。部下が出来てから、仕事は俺にとって友達や音楽と同じくらいのモンになってきたんじゃ。たとえ他人の作った会社でも、俺にはそこで守りたいモンやら、築きあげたいモンがある。だから、今日はとにかく、きちんと先方に謝罪して部下と一緒にケジメつけてこんと」
「面倒見が良さそうね、純朴元ヤン野郎」
「あの、亮介さん、私のこと嫌いにならないでいてくれて、ありがとうございます」
「まあ……ええって。俺ァ、トモのそういう素直なところ、曲作るときにも参考にさせてもらってるんじゃ。今は仕事ばっかりでなかなか歌えんけど。本当にすまんなあ」
「えっ? 亮介さんが、私を参考に……?」

 私も少しは、亮介さんのお役に立てていたのですか? 
 亮介さんは、「ちょい待っとけ」と言って、一度リビングに入りました。そして、亮介さんのお母さんが作ったというお漬物が入った小さなタッパーを二つ持って玄関に戻ってきて、それを私と美雨ちゃんに一つずつ手渡してくれました。

「お前ら、帰ってこれを食え。俺ァ大事なモンは、大事なやつにしか渡さん。チンピラに絡まれたやつを守るとき以外はな」


*****


「美味しそうですね、美雨ちゃん」
「そうね。純朴野郎のお母様のお手製ねえ……。へえ~」

 亮介さんのアパートを出ると、美雨ちゃんがお漬物の入ったタッパーを開けて何やら不思議そうな顔をしています。お嬢様はお漬物を食べたことがないのでしょうか? 
 私と美雨ちゃんは、アパート前で待機していた車に再び乗車し、亮介さんのアパートに来る前までいたホテルに戻ることになりました。

「ねえ、トモさん。私、不思議なんだけど……」
「不思議?」

 美雨ちゃんは、車に乗ってからも数秒間じいっとタッパーを見つめ、そのあと私に話しかけてきました。

「昔の人って、どうやってお漬物を思い付いたのかしら?」
「どうやって……? うーん、ごめんなさい。私も知りません」
「そう」
「美雨ちゃん、お漬物はご存じだったのですね」
「あら、私、お漬物って大好きよ。ねえトモさん、今この世界に当たり前にあるものって全部、どこかの誰かが考えたものなのよね? このお漬物も」
「……? そうですね。人間が作ったものは、そうだと思います」
「不思議ね。まるで最初から存在していたみたいに思えちゃって。考えられた当初は、当たり前じゃなかったはずなのに」
「当たり前じゃなかった……? 確かに、そう言われてみればそうですね。いきなり普及したわけじゃないし……。すごいですね、美雨ちゃん。私は、お漬物が最初に作られたときのことなんて考えたことありませんでした」
「ありがとう……。ねえ、ごめんなさい……私、もう眠くて……」
「え? あ、そっか。美雨ちゃん寝てないんですよね、多分」
「…………」

 スマホを見ると、午前四時四十五分。深夜に美雨ちゃんがユヅルさんの部屋に突然来てから何だかずっと慌ただしくて、もう夕方でもいいくらいの感覚でしたが、日付が変わってからまだこれだけしか経っていないんだ……。
 後部座席で私と並んで座っている美雨ちゃんは、私の肩に頭を乗せて、寝息をたてています。

「美雨ちゃん、ありがとう――」

 ポツポツと降っていた雨は、上がったようです。何だか今日の天気は安定しません。

*****


 私と美雨ちゃんがホテルに到着すると、美雨ちゃんのお世話係の女性が私達をツインルームまで案内してくれました。部屋に入ると私の荷物一式と、美雨ちゃんのバッグが置いてあり、私達はお風呂に入ったあと、それぞれのベッドで眠りました。


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