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第五十六話「表現」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

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 ユヅルさんは、サイトウさんからの電話を切ると、カウンターの内側から出てきて、お店の壁側にあるテーブルに置かれた水虫らいすマンの大きなぬいぐるみを両手で抱え、カウンター席に並んで座る私と美雨ちゃんのところまで来ました。

「ほら、お嬢様。このぬいぐるみ、持って帰れよ」

 ユヅルさんがそう言って、水虫らいすマンのぬいぐるみを美雨ちゃんに渡し、美雨ちゃんは言葉を失いながら、驚きと歓喜が混ざったような表情で、両手でそれを受け取ります。

「変態……いいの? とても嬉しいわ。このまま家宝にする」
「お嬢様は、こいつが初恋の男なんだろ? このぬいぐるみはデカくて処分に困るから、この際持って帰ってくれ。あと、家宝にはしないほうがいい」
「変態、本当にありがとう。私の写真で枕カバー作っていいわよ」
「やだよ。色んな意味で眠れねえよ」
「美雨ちゃん、よかったですね!!」

 美雨ちゃんは、非売品のぬいぐるみを両手で抱えたまま、泣きそうな顔になっています。彼女は水虫らいすマンのことが大好きですから、これ以上のプレゼントはないでしょう。

「じゃあ、君らはもう帰って」

 ユヅルさんは、カウンター席に座る私と美雨ちゃんの腕を一本ずつ掴み、腕を引いて床に立たせ、美雨ちゃんはそのせいで、抱えていたぬいぐるみを落としそうになり、慌てて、より強くぬいぐるみを持ち直します。

「ユヅルさん、もしかして今から……」
「そう、もうすぐ一番のお得意様が“友人達”と一緒にここに来る」
「変態は今日、お休みなのでしょう?」
「本来はそうだけど、お得意様のためならいつでも仕事するんだよ、俺は。どんなに気持ち悪くても、世話になってきたことには変わりないからな」
「ユヅルさん、『もうすぐ』って……」

 ふと、お店の時計を見ると、午後五時半。本来なら美雨ちゃんはもう出国していた時間です。柏木さんと一緒に。

「さあ、もう出てってくれ! 商売の邪魔をするな」
「ちょっ、ちょっと!! 変態、痛いわよ!」

 ユヅルさんは私と美雨ちゃんの体を、お店のドアのところまで強引に押し、ドアを開け、押し出すようにして、私と美雨ちゃんをお店の外に出しました。

「ちょっと変態! そっちから呼び出しておいて、今度は出てってくれって何よ!? せっかくお料理とぬいぐるみのことで、あなたのことを見直していたところだったのに」
「うるせえな! 今からウチの大事な香水ナルシスト野郎が来るんだよ!」
「はあ? 何よ、それ!?」
「分かったら、さっさと帰れ! 俺は今から、“お得意様へのおもてなし”の準備を始めなきゃならないんだ。じゃあな!!」

 ユヅルさんが、ドアノブに手をかけました。

 待って。
 私、まだ聞いていない。まだ、ドアを閉めないで。

「ユヅルさん! 私、あなたにずっと聞きたいことがあったんです!」
「ああ? 何だよ、トモちゃん? 早く帰れって言ってる……」

 ずっと、聞きたいことがあった。 
 私があなたから薦められた恋愛映画ばかりを観ることになって、あなたと初めてのキスをして、そのあと何故か私は吐いちゃって、あなたが優しく介抱してくれたあの日。
 あの日から、あなたはどうして――

「ユヅルさん、どうして時々、眠りながら泣いていたのですか?」
「え――?」

 あなたが驚いたあとに見せたのは、今までで一番優しい、だけど、少しだけ悲しそうな笑顔。

「俺は、とても弱いから」

 ドアは、静かに閉められました。

 別れ際に自分のことを「弱い」と言ったユヅルさん。私の予想通りなら、誰よりも優秀で可愛い“イイ子”は今から、サイトウさん達によって――

*****


 私と美雨ちゃんが、ユヅルさんのお店が入っている雑居ビルから出ると、ビルの前に柏木さんが立っていました。美雨ちゃんは、さっきまでとは全然違う落ち着いた表情で、「これ、調べておいて」と言って、抱えていた水虫らいすマンのぬいぐるみを柏木さんに渡し、柏木さんはそれを持ってどこかに歩いていきました。

「美雨ちゃん、調べるって?」
「ぬいぐるみのプレゼントはいただかないの。内部に何を仕掛けられているか、分からないもの。例えば、盗聴器とか」
「ええっ? 盗聴器?」
「私、この美しさで変なやつから言い寄られることもあるのよ。今までプレゼントに盗聴器を仕掛けられたことはないけど、柏木に『ぬいぐるみのプレゼントは危険』って、言われたことがあったから」
「お、おお……。そうなんですか。美しすぎるってやっぱり大変なんですね……」
「トモさん、私、何だか疲れちゃった。どこか近くの公園で休まない?」
「いや、でも、美雨ちゃんは飛行機の時間が……」
「いいじゃない。ちょっとだけ。私、もっとトモさんとお話したいのよ」
「……。わかりました。じゃあ、ちょっとだけ……」

 雑居ビルから十分ほど歩くと、小さな公園を見つけたので、私達はそこのベンチに座って少し休むことにしました。十一月も中旬に入ったからか、公園に植えられている木々の葉は、少し強い風が吹くとパラパラと落ちていきます。
 美雨ちゃんは座りながら、お昼に買った『俺様とミドリと温子』を、ゴクっと喉を鳴らして飲みました。

「さてと! 私、これから夢に向かって頑張らないとだわ!」
「美雨ちゃんなら、きっとやり遂げられますよ。なんたって行動力が違いますから」
「ふふ。ありがとう。ねえ、トモさんも色鉛筆画家になるのよね?」
「えっ……!!」

 美雨ちゃんから何気ない様子でされた質問を受け、つい言葉が出なくなってしまいました。最後に絵を描いたのは、いつだっけ? 
 結局、私は本気で色鉛筆画家になりたかったわけではなくて……。だから今、美雨ちゃんに何て言葉を返したらいいのか分からない。

「ねえ、トモさん。私、あなたの描く絵が好きよ」
「えっ」
「不思議ね。正直、トモさんの絵って特別上手ってわけでもないと思うのだけど……でも、どうしてだか分からないけど、とても惹かれるのよ」
「……」

 <どうしてだか分からないけど、とても惹かれる>
 そういう感情、私も持ったことがある。そして、その感情を突き詰めていったら、自分が何を一番大事にしたいのかが分かった。何故、何の利益も得られないのに、長時間没頭してしまうのか――。

「美雨ちゃん、あの……」
「なあに?」
「私、本当は色鉛筆画家を目指していなかったんです。私にも目指しているものがあるんだって、夢があるんだって、そう、思い込みたかっただけだったんです」
「え……?」
「でも今は、本当にやりたいことが分かりました」
「本当にやりたいこと?」
「あのね、美雨ちゃん。私、工場が好きなんです。どうしようもなく惹かれるんです。その、どうしようもなく惹かれるものを、今はただ表現してみたい。色鉛筆に限らず、色んな方法を組み合わせて」
「表現?」
「はい。もちろん、働きながらになるから大変なこともあるだろうし……それに、私の創るものは、大勢には受け入れてもらえないかもしれませんが……」

 頭のずっと上のほうで、バサッという音が二回、聞こえました。木々から鳥達が空に向かって飛び立っていったのかもしれません。

「いいんじゃない? 私が立ち上げる事業だって、最初は全然受け入れてもらえないかもしれないし」
「え? 美雨ちゃんの事業が?」
「だって私、天才じゃないもの」

 美雨ちゃんは、まるで子どものような笑顔を見せました。一つも飾られていない、それでいて光を放つ、愛らしい笑顔。

「……ねえ、美雨ちゃん。私、考えが変わったんです」
「考えが変わった?」
「はい。今すぐ大勢に見つけてもらえなくたっていい。それでも創り続けます。その上でもし、数年後くらいに『あんな作品あったなあ』なんて、たった一人にでも思い出してもらえたら、それはとても嬉しいことだと思う」
「創り……続ける……」
「美雨ちゃん。私はもう、以前の余計な感情は捨てたんです。今の私は、長距離走のほうを選びたい。それに、友達も一握りでいい」
「ええ? どういうこと? 以前はどんな考えだったのよ?」
「えっと……その話をすると長くなりそうなんですが……」
「ええ? 何よ、それ~? ふふふっ。じゃあ、また私の家に来て。純朴野郎も誘って、私の夢や、トモさんの表現の話をしましょう」
「亮介さんもですか? うーん。でも彼は、お忙しくないですかね? 今日も三分くらいしかいませんでしたよ」
「大丈夫よ。今日だって変態に早朝から愛の鞭をくらわせにいく時間はあったみたいだし」
「あはは……早朝から愛の鞭……。想像するだけで震えます。口に漬物を詰められるだけでも怖いのに」
「漬物詰めるのは酷いわよね。そういえば、あの変態、口に目いっぱい漬物を詰められた状態で愛の鞭を受けて、どうやって『もっとやって』なんて言ったのかしら?」
「え――?」

 確かに。
 えっと、ユヅルさん、もしかしてそれも嘘……? もしかして、亮介さんからの愛の鞭は、顔に少しと、お説教だけ――

「美雨様」
 公園のベンチで話している私達の前に、柏木さんが現れました。

「あら、柏木。ぬいぐるみは調べ終わったの?」
「はい。ぬいぐるみの背中のファスナーを開けて調べましたが、何も問題はありませんでした。美雨様がユヅル君に渡したものと同額の現金が、内部に入れられていただけです」
「どうりで重たいと思ったわ。じゃあ、お金をそっくりそのまま返されたってことね」
「ええ。ただし、現金及びぬいぐるみの内部にはユヅル君のものと思われる血が、大量に付着しておりましたが」

 ――え?
 ユヅルさんの、血? 何それ? どういうこと?

 柏木さんの言葉を聞いた瞬間、心臓のあたりに何か鋭いもので刺されたような痛みが走りました。

「血ですって? 柏木、それ本当なの?」
「ええ」

 嘘だ。そんなの、絶対に違う。

「柏木さん、それって本当に血なんですか? 私がトマトジュースを彼にかけたときに、まだトランクバスケットが開けられていたから、お金に付着していたのは、血じゃなくて、トマトジュースではないですか? それに、血だとしても、本当にユヅルさんのものなんですか? 誰か別の人のものって可能性もありますよね?」

 いやだ。信じたくない。ユヅルさんの血だなんて、そんなこと考えたくない。

「トマトジュースではありません。簡易的に調べましたが、あれは血液です。付着していたあの色、そして私と話していたときのユヅル君の様子からして、おそらく彼の体内から吐き出されたものではないかと。それと私は、若い男性のお世話係に部屋の外からずっとユヅル君を見張らせ、何か動きがないか逐一報告させておりましたが、ユヅル君があのマンション内にいるとき、そしてマンションから彼の店に移動するまで、彼が接触したのは明け方に訛りが強い男性一名だけだったとのことで……」

 柏木さんは、私と美雨ちゃんに対して極めて落ち着いた様子で話しながらスマホを取り出し、ぬいぐるみの中に入れられていた現金を写した写真を私達二人に見せました。

 どうしてこんなに汚れているの? ねえ、体内から吐き出されたって、何? 
 それに、接触したのは一名だけだって? どうして? 朝から色んな業者さんの相手をしていたんじゃなかったの?

「何よ、これ……」
「柏木さん、その訛りが強い男性って、私達も知っている人で間違いないですよね?」
「ええ。相崎亮介さんのことです。そして、ユヅル君が店に入ってから、そこに入らせたほかの人間は、美雨様とトモさんと、その相崎さんのお三方のみでした。ですからまあ、相崎さんの血液、という可能性もないわけではないのですが……しかし、先ほど急いで走っていく相崎さんの姿を私も確認しましたが、その活発な様子を見る限り、あの大量の血液が相崎さんのものとはとても考えにくい……」
「どういうことよ、柏木。あの変態、もしかして体を壊していたの?」
「ええ。その可能性は極めて高いと思います」

 体を壊していた――? 
 じゃあ、さっき、みぞおちあたりを痛がって手で押さえたのは、やっぱり亮介さんからの愛の鞭のせいではなかったってことですか?

「何よ、それ。あの人、一体いつから壊していたのよ!」

 いつからだったのですか?
 そういえば前に、サイトウさんが「電話に出てくれないのは珍しいことではない」って言っていましたけど、じゃあ、あなたは、あの頃にはもうサイトウさんの電話も取れないほどに、そして、まさか一晩中でも、一人で苦しんでいたときがあったってことですか?
 ねえ、昨日までずっと牛乳を飲んでいた本当の理由は何だったのですか? それに、あなた今日、お説教を終えた亮介さんを見送ってからお店に移動するまで、本当は部屋で何をして過ごしていたの?

「ああ、なんてことなの! 全然分からなかったわ。でも柏木、あなたなら気づいていたのでしょう? あなたはわずかな違和感でも感じ取るじゃない!! どうして言わなかったのよ!?」
「気付いていたらなんだと言うのです。それに、『ユヅル君は何回もマンションの終日対応ゴミ置き場と部屋を往復しており、もしかしたら掃除や不用品の処分をしているかもしれない』との内容で報告が入ったものですから、そんな人間の覚悟に対し……」
「はあ? 掃除? 何言ってんのよ!?」
「おそらく、あのマンションの彼の部屋には、以前は雪が降っていたようですので、彼なりに整理をつけたかったのでしょうか」
「え……? 雪、ですか……?」
「まったくもって意味が分からないわ! 柏木、とにかく今から変態の店に戻るわよ! 医学部のほうのお兄様にも相談して!! 戻ってあの人を無理矢理にでも病院に、場合によっては救急車を――」
「それは出来ません、美雨様。今あの店に戻ってはサイ……いえ、飛行機の時間もございますので」
「そんなもの、遅らせなさい! トモさんも一緒に戻るわよ! このままあの人が死んでしまったらどうするの!! ねえ、早く――きゃあ!」

 突然、空から一羽の小鳥が私と美雨ちゃんの目の前に落ちてきました。
 大量の血を吐いている……。弱々しい呼吸。
 きっとこの小鳥は、もうすぐ――――

「え……? どうしましょう、友さん。小鳥が死にそうになっているわ……」
「……」
「友さん?」
「美雨ちゃん。私達はもう、ユヅルさんのお店には戻りません」
「戻らない……? ど、どうして?」

―― お嬢様のこと大事にしろよ ――

「……。今、彼は“大事なお得意様へのおもてなし”の最中ですから。お仕事中に私達が乗り込んでは、迷惑になります」
「だけど! 放っておいたら、最悪あの人は死んでしまうかもしれないわ!」
「美雨ちゃん、生物はいつか死にます。今、命が宿っているのですから」
「そんな……」

 大丈夫ですよ、ユヅルさん。さっきお店を出たときから、私がやるべきことはちゃんと分かっています。 
 私がやるべきなのは、今チューベローズが咲いているあの場所から美雨ちゃんを、私の大事な友達を――

「でも! 私やっぱり嫌よ! 早く戻るわよ!! あいつは変態だけど、悪いやつじゃないのよ!! 友さん、ユヅルさんに電話をかけてみて――」
「黙りなさい」
「え?」
「ユヅルさんを助けたいっていう美雨ちゃんの理想のなかに、ユヅルさんの意思は入っているのですか?」
「何を言っているの? そんなの、人の命が危なかったら助けたいって思うのは当然――」
「邪魔をするな」
「ええっ?」
「ユヅルさんが一番大事にしているのはお客様です。彼は自分の意思で、自分の体のことよりも、“お得意様へのおもてなし”を選んだのです。だから、彼のその意思の邪魔をするな」
「ユヅルさんの、意思――?」
「そうです。それに、自分の弱さを認めて失う覚悟を持った人間の哲学は、誰にも壊すことはできない。良くも悪くも……。だから、私達はもう、ユヅルさんのお店には戻りません」
「だけど! ユヅルさんはこのままだと……」
「うるさい! いいから、あなたはもう柏木さんと一緒に空港に向かいなさい!! 事業を起こすのでしょう? そのためにも、早くここを離れて一秒でも多く学業に専念して!!」
「と、友さん……」
「早く行きなさい!!」
「な、何よ、急に大声出して……」
「柏木さん!! もう美雨ちゃんを連れていって!!」
「かしこまりました」
「え!? ……きゃあ! ちょ、ちょっと柏木!?」

 美雨ちゃんは、柏木さんに強引に抱えられると、しばらくは抵抗する様子を見せていましたが、やがて大人しくなり、私に向かって「友さん、また連絡してね! 絶対よ!」と言い、その言葉を最後に彼女の姿は見えなくなりました。
 美雨ちゃん、このまま無事に飛び立って。真実を知ったとしても、私に出来るのはこれだけだから。

「忘れるな。これが、思考力を喰われた側の現実だ……!!」

 何をしたって、何を嘆いたって、どんなふうにユヅルさんのことを想ったって、これが今の私の限界。お店に戻ったところで、何も出来ない。

 私は、喰った側正義じゃないから!!


「――落ち着け。落ち着くんだ。今落ち着かなきゃ、同じことを繰り返すだけだろう?」

 深呼吸。

「このまま感情に飲み込まれるな。誰にも付け込ませるな。大事なことを思い出せ」

 彼を救うとか、助けるとか、そんなカッコいいこと何一つ出来ないよ。だって私は、まずは自分が生きていかなきゃいけないんだ。
 彼が望んだ、“私だけの表現”をするためにも。

「思い出せ。私がやりたいことは何だ? ユヅルさんを喰ったやつを『喰う側』にまわることじゃないだろう……!! きっと“サイトウ”はどこにでもいる。今のこの渦巻いた感情を、他人の金になんか変えさせるもんか! 他人に利用させるもんか!! そのためにも“自己の根”を確立させろ!!」


*****


 一人になった私は、呼吸をしなくなった小鳥がいる公園から出て、現在地から近いお花屋さんをスマホで調べ、そこに向かいました。
 歩いている途中で目に入ってくるのは、何気ない日常の風景ばかり。月曜日の夕方だからか、多くの仕事帰りや学校帰りと思われる人々が、大通りを歩いています。きっとこの人たちは、当たり前の日常から、当たり前の日常に、帰っていくのでしょう。
 私はただ、この人混みに紛れながら、目的地まで歩くだけ。

―― あいつはいつも、俺からみんな奪っていく! ――
―― 本当の恐怖は、気持ちいいものなのかもしれない ――

 サイトウさんは、誰よりも優秀なユヅルさんに対して、暴力的な危害を加えることや違法となる行為なんてしない。おそらく、ユヅルさんの“違和感”が戻ってきそうになったら、彼に対してあの透明感のある声で彼が気持ちよくなる言葉を放ち、体には恐ろしく強い快楽を与え、ときには“友人達”とともにユヅルさんにその毒を廻して、再びユヅルさんから“考える力”を奪って人形にする。それを繰り返してきたのだ。
 君のやっていることは正義なのだと、だから何も考えなくていいのだと、そう、囁いて。

 もし、ユヅルさんの体のことをサイトウさんが知ったなら、サイトウさんはユヅルさんのお店を強制的に閉めてでも、あるいは、どんなに高額な医療費を払ってでも、絶対にユヅルさんを自分から離さなかったでしょう。ありとあらゆる手段を使って、彼を自分に繋ぎとめようとしたはずだ。

―― 俺はずっと、身勝手な欲に流されてきた。今だってそうだ。もしかしたらそれは、最も罪深いものなのかもしれない ――

 だからユヅルさんは、自らの意思によって、サイトウさんに気付かれないよう静かに壊れていくことを選んだ。大事なお客様達を抱え、逃げ出すことも出来ずに、悲しみから救ってくれた人をまだ信じていたいという想いと、自分の本心のあいだで、張り裂けそうになりながら。

―― ただ、信じたかったんだ ――
―― 俺は、とても弱いから ――

 目的地に到着。
 目の前には、色とりどりのお花。


*****


「眠った――?」

 お花屋さんで青いリンドウを買い、公園に戻ると、さっきと同じ場所に小鳥が眠っていました。とても静かに。安らかな顔で。
 リンドウを持つ手に力が入りそうになり、堪え、緩めます。

「サイトウさん、あなた今、どんな気分ですか? この先も自分の欲を満たすために他人に依存し続けるのですか? 私と同じように、誰かに何かを提案されて、最初は軽い気持ちでその世界に入ったのですか? 欲望を止められず、味を占めてだんだんと毒の色に染まっていき、少しずつ自分を失くしていったのなら、そして、今後もそのことから目を逸らし続けるのなら、あなたはもう二度と、自然と動物を愛する“雪仁”には戻れない」

 小鳥から目を離し、見上げると、十一月の夕方の空はもう暗くなっていて、晴れているのか曇っているのか、雨が降りそうなのか、分からない。
 だけど、この暗さはいつまでも続くわけじゃない。反対に、ずっと明るいこともない。それが自然だから。

 私は眠っている小鳥をそっと手に持ち、木々がたくさん植えてある場所まで移動して、木の根元の土の上に小鳥を横たわらせました。私の手で埋めることはせずに、その近くに買ってきたリンドウを置きます。

「寒い……」

 サアッと、冷たい風が吹き抜けていきました。
 また、木々から葉が落ちる。何枚も、何枚も、次々に――。

「どこかではもうすぐ、雪が降るのかもしれませんね……」


 ねえ、ここで私が泣くと思いますか?

 ――泣きませんよ。
 私は、今から“表現”をしていくのです。泣いていては、何も創れないでしょう? 

 今の私は、肩書きも資格も経歴も、パッケージになるものは何も持っていないけれど、それでも、何とか仕事を見つけて、何とか食べていきながら、少しずつでも創り続ける。  
 それが、自分で選んだ長距離走なのです。
 だから私は、この腐りきっていない世界で、シンプルな形のまま、しぶとく生きていくことにします。

 亮介さんの歌声が聴けなくても、
 美雨ちゃんとしばらく会えなくても、

 誰よりも折り鶴が似合うあなたが、雪の降る綺麗な場所に行ってしまっても――――。

 ありがとう。

「どうか、羽ばたいていって。弓弦が、弓弦でいられる世界に」

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とても嬉しいです。ありがとうございます!!